かつて伏見(現在の京都府京都市伏見区)は、平安貴族が別荘を構える風光明媚な土地として知られていました。「豊臣秀吉」は伏見城を築いて武家の首都として発展させ、「徳川家康」は中継拠点としての基盤づくりに貢献。幕末には「坂本龍馬」をはじめ、勤王の志士達が日本の未来を語り合った拠点です。多くの英雄達にゆかりのある町であると共に、「天下の酒どころ」として全国に名を轟かせている城下町・伏見。今回は、その歴史を振り返りながら、歴女必見の見どころについてご紹介します。
豊臣秀吉は、「伏見城」を2度築城しています。最初に築城したのは、1592年(文禄元年)。
このとき豊臣秀吉は、甥の「豊臣秀次」に関白を譲り、隠居の準備を進めていました。
そこで、平安時代より月見の名所として知られていた伏見の「指月山」(しげつやま)に目を付け、茶会や宴会を楽しむための屋敷として伏見城を建てたのです。
しかし、この翌年に、豊臣秀吉の側室で「淀殿」(茶々)が待望の男子(のちの豊臣秀頼)を出産。実子を後継者にしたい豊臣秀吉は、隠居計画を取り止め、伏見城を天下人の権威にふさわしい居城へと大改修することを決意します。
1594年(文禄3年)から延べ25万人を動員し、一大城廓を築き上げました。指月山に構えたことから「指月伏見城」(しげつふしみじょう)とも呼ばれています。
豊臣秀吉が描いた城下町プランは、京の都や大和(現在の奈良県)、大坂(現在の大阪府)などにつながる水路、陸路の要衝です。まず、宇治川の流れを北へ迂回させ、桂川や木津川が流れ込む淀まで続く流路に改修。伏見港の整備と共に、本丸の近くまで水を引き、船が着けられるように工事を行なうなど、水運の確保に取り組みました。
また、巨椋池(おぐらいけ)には堤を築き、奈良へつながる大和街道の造成にも着手。宇治川には豊後橋(ぶんごばし:現在の観月橋)を架け、城下町を経由して京都と奈良を結ぶルートを築き上げたのです。こうして、水路、陸路の整備を図ることによって、伏見は京都や奈良、大阪を結ぶ重要な中継拠点へ歩み始めました。
しかし豊臣秀吉は、ここで不運に見舞われます。1596年(慶長元年)、「慶長の大地震」が伏見で発生し、指月伏見城が倒壊。ただちに豊臣秀吉は、近くの木幡山(こはたやま)に新たな城の建造を命じました。こうして誕生したのが「木幡山伏見城」(こはたやまふしみじょう)です。
ところが、その竣工から2年後の1598年(慶長3年)に、豊臣秀吉は病死してしまいます。豊臣秀吉ファンの歴女なら、このとき豊臣秀吉が最も気にかけていたのは、実子の豊臣秀頼であったことはお分かりでしょう。
なお、現在ある天守閣(模擬大天守閣、小天守閣)は、1964年(昭和39年)に復興された物です。
豊臣秀吉は、城下町の造成にあたり、大和街道につながる京町通を幹線道路として整備。この京町通は、武家地と町人地を区分する境界線でもありました。
当時の武家地には、「徳川家康」をはじめ、「前田利家」、「伊達政宗」、「石田三成」などの名だたる大名が集結しており、まさに伏見が、武家にとっての「みやこ」となっていたのです。しかも、有力な大名が集まっていたこともあり、職人や商人の数も増えていきました。こうして一大城下町が形成されていったのです。
ここで、歴女にぜひチェックしてほしいのが、町名の看板です。例えば、「桃山町政宗」は伊達政宗、「桃山町三河」は徳川家康、「桃山町治部少丸」(ももやまちょうじぶしょうまる:治部少丸とは役職名)は石田三成を表すなど、大名の名前や国名、役職名などが町名として付けられています。
武将に詳しい歴女なら、かつてここに屋敷があった大名達を想像しながら、散策してみるのも楽しそうです。
ちなみに、「樽屋町」、「指物町」、「魚屋町」、「材木町」などは、江戸時代の中期に各業者が集まって町を形成していた名残。かつて町人地であった証しなのです。
豊臣秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康が伏見城に入り、実権を握りました。ここで生じたのが豊臣家家臣との対立。ここから1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」へと進むのです。しかし、伏見城(木幡山伏見城)は、石田三成の率いる西軍に攻められて焼失。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1601年(慶長6年)、伏見城の再建に着手します。徳川家康は、天下統一を果たしたものの、まだ政局面で不安定な状況であったことから、京都に拠点が必要と考えたようです。その後、3代将軍「徳川家光」は、政治基盤が安定したことで、伏見城の廃城を決断します。
近畿の拠点は大坂城へ移りましたが、伏見城周辺は、政治的な役割を終えたあとも、水路や街道を活かした物資の中継拠点、宿場町として発展を遂げました。
伏見城周辺が物流拠点として大きく飛躍した背景には、高瀬川の開削があります。海外貿易商であった「角倉了以」(すみのくらりょうい)は、豊臣秀吉が物資運搬のために掘ろうとしていた人工運河に着目。徳川家康の許可を得ると、自費で開削を進めました。
こうして生まれた高瀬川は、米穀や木材、薪炭などを京都へ運ぶ重要ルートとして活躍したのです。
また江戸時代には、物資のみならず、大坂から人を運ぶ船も賑わいを見せました。その代表的な物が「淀川三十石船」(よどがわさんじっこくぶね)や「十石舟」です。
伏見港の賑わいは、港へつながる道路の整備、旅籠の拡充へと発展し、商業の町としての繁栄にも貢献していきました。
現在、淀川三十石船や十石舟は、酒蔵や旅籠などの歴史的景観が楽しめる観光船として復活。歴女旅の思い出に体験してみてはいかがでしょうか。
淀川三十石船は「寺田屋浜乗船場」から、十石舟は「月桂冠大倉記念館裏乗船場」から、乗船できます。シーズン限定の運航になりますので、お出掛け前に必ずご確認を。
江戸幕府の屋台骨が揺らぎ始めた幕末期、京の都に近い伏見は動乱の波に巻き込まれました。
「王政復古」を唱える志士達にとって、人や情報が集まる伏見は、意見交換に最適な立地であったに違いありません。
当時、薩摩藩の定宿であった「寺田屋」には、大坂から倒幕派が集まり会合を重ねていました。そこに薩摩藩の「島津久光」が藩士を送り出し、武力で鎮圧したのです。これが「寺田屋騒動」(てらだやそうどう)。
この寺田屋は、幕末好きな歴女から絶大な人気を誇る、「坂本龍馬」が定宿していました。ここを拠点に、坂本龍馬は「薩長同盟」の実現に向けて各地を飛び回っていたのです。坂本龍馬も寺田屋で襲撃を受けましたが、女将の養女の「お龍」が危機を察知し、風呂から裸のまま裏階段を駆け上がり坂本龍馬に知らせたというエピソードは、歴女の皆さんならきっとご存知でしょう。
その後、1867年(慶応3年)には、「王政復古の大号令」が発せられ、武家政治は終焉を迎えました。しかし、ここ伏見では、新体制をめぐって江戸幕府軍と薩長が対立。
翌年、「徳川慶喜」は薩摩討伐を命じました。このとき、江戸幕府軍が陣取る伏見奉行所で伏見の護衛にあたっていたのが、「近藤勇」が率いる「新撰組」です。もちろん、歴女に人気の「土方歳三」や「沖田総司」も加わっていました。
その後、「鳥羽・伏見の戦い」(とばふしみのたたかい)へと激化し、伏見の町は大きな被害を受けるのです。そして時代は明治維新を迎えます。
伏見と言えば、「天下の酒どころ」として有名です。伏見で酒造りが盛んになった理由は、何と言っても、「水」。
第1に、古くは「伏水」(ふくみず)と呼ばれた伏流水(ふくりゅうすい)に恵まれ、名水と称えられた井戸が数多く存在していたことが大きく影響しています。豊臣秀吉に詳しい歴女なら耳にしたことがあるかもしれませんが、豊臣秀吉が茶を点てたという伏見城内の「金名水」、「銀名水」も代表的な伏流水のひとつです。ちなみに、「伏見」という名前の由来は、この伏水にあったと伝えられています。
第2には、水運の発展です。豊臣秀吉が伏見城を築城したことで全国から大名が集まり、「伏見の酒」のおいしさを知った大名達が、国元に知らせたことによって知名度が上がりました。
さらに、江戸時代には高瀬川が開削されたことで、京都と伏見を結ぶ水運が発展。物流の中継拠点になっていた城下町には、商人のための船宿や飲食店などの数が増えていったのです。こうして、武士だけでなく、商人達もその名を知らしめる役割を果たしました。
江戸時代中期、江戸に運ばれていたのは、主に「灘の酒」(なだのさけ:現在の兵庫県)です。一方、「伏見の酒」は、宿場の酒、町方の酒として愛されました。歴女に注目して欲しいのは、伏見の酒が「女酒」と呼ばれていること。灘の酒が辛口で「男酒」と呼ばれているのに対して、まろやかな味わいが特徴であることから、そう呼ばれるようになったのです。
また、人気の秘密は京料理との相性が良いことも理由のひとつ。幕末の勤王の志士達も伏見の酒を飲み交わしながら、未来を語ったかもしれません。日本酒好きの歴女はもちろん、幕末好きの歴女も、ぜひ味わってみましょう。
地元の人々から「ごこんさん」と呼ばれ親しまれている「御香宮神社」(ごこうのみやじんじゃ)。
その表門は、伏見城の大手門を移築した物で、貴重な遺構のひとつです。城好き歴女なら、ぜひ立ち寄りましょう。
また、豊臣秀吉が伏見城を築城する際に茶花として集めた椿は、樹齢約400年。
「五色の散り椿」と呼ばれ、遠州流茶道の祖である「小堀遠州」(こほりえんしゅう)が、「これほど見事な椿はおそらくないだろう」と賞賛したことから、「おそらく椿」とも称されています。
徳川家康が寄進したという本殿は、桃山様式の華麗な装飾が見どころ。鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩が本営を置いた神社としても知られています。幕末に関心のある歴女には、必見スポットと言えるでしょう。
ここの湧き水である「御香水」は、「伏見七名水」のひとつで、「日本の名水100選」でも筆頭に挙げられるほど高い評価を得ています。現在も水筒を手にして参拝に訪れる人が多いほど。伏見のお酒がおいしい理由が実感できるに違いありません。
伏見を代表する船宿のひとつであった寺田屋は、先程もご紹介した通り、坂本龍馬が襲撃された場所として有名です。坂本龍馬ファンの歴女にとっては、聖地のひとつと言われています。
伏見の町で繰り広げられた戦いによって被害を受けたため、現在の建物は明治になって再建されました。柱に残されている刀傷、お龍が駆け上がった階段など再現され、全国から多くの人々が見学に訪れています。
坂本龍馬が愛用したという「梅の間」には、坂本龍馬ゆかりの品々が展示されていますので、坂本龍馬を愛する歴女としては見逃せないスポットです。
1637年(寛永14年)に創業した「月桂冠」は、伏見の酒の伝統を今に受け継ぐ酒造会社。かつては「笠置屋」の屋号で営業していました。
その「月桂冠大倉記念館」では、昔ながらの酒造りに用いられていた用具類をはじめ、明治期のびん詰め酒など、歴史の重みを感じさせる展示品がご覧いただけます。
前日までに予約を行なえば酒造工程の見学も可能。日本酒に興味のある歴女にとっては、うれしい吟醸酒などの試飲も用意されています。
また、近くを流れる濠川から眺める酒造場の風景は、趣があって大人気です。お気に入りの景観を探して散策するのも、歴女旅の魅力ではないでしょうか。
「伏水酒蔵小路」(ふしみさかぐらこうじ)は、伏見酒造組合の18蔵で造られた日本酒が楽しめる、注目の日本酒居酒屋。
常時120種類以上の銘柄が揃っていますので、自分好みの日本酒に出会えます。迷ったときは、蔵元の代表的な銘柄が飲み比べられる「十八蔵のきき酒セット粋酔」がおすすめです。
「うまいもの専門店」には炭火焼、おでん、串カツなど、お酒に合いそうな店舗が並んでいます。カウンターで落ち着いて飲みたい方には、出前メニューから料理が注文できるシステムも人気の秘密。
各店舗でしか味わえない料理もあるそうなので、お目当てのある方は、はしご酒でお楽しみ下さい。伏見の酒を飲み比べたい日本酒好きの歴女には、ぴったりのお店です。
伏見を訪れる観光客で賑わうのが、龍馬通り商店街。散策中の休息におすすめのカフェが「Cafe月のとき」です。
地元伏見の酒粕を使った「さけかすぷりん」、「さけかす抹茶ドリンク」など、伏見ならではのメニューをお楽しみ下さい。京野菜をあしらったパスタやカレーも人気のメニューです。
地元の素材にこだわりたい歴女であれば、ぜひ立ち寄りたいお店のひとつです。
京都に来たからには町屋の雰囲気を味わいたいという歴女には「カフェ花咲み」(かふぇはなえみ)がぴったりです。
町屋を改造した隠れ家的なカフェで、風情のある庭を眺めながら、落ち着いたひとときを楽しめます。ゆったりとした時間の流れを感じながら、歴女仲間と伏見の旅の話に花を咲かせてはいかがでしょうか。