山口県萩市にある萩城下町は、「幕末の風雲児」と呼ばれた「高杉晋作」(たかすぎしんさく)をはじめ、「久坂玄瑞」(くさかげんずい)や「木戸孝允」(きどたかよし:別名・桂小五郎)など、維新を牽引した英傑達の故郷としても広く知られており、幕末好きの歴女にとっては、聖地のひとつになっています。
2015年(平成27年)、「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして萩城下町が登録されたことで注目度が高まっており、「萩焼」や「ご当地スイーツ」など、歴女旅の楽しみ方も多彩です。
「萩城」を築城したのは、「豊臣秀吉」に仕え、五大老のひとりとして名を馳せた「毛利輝元」(もうりてるもと)。
毛利輝元は、戦国時代を代表する大名のひとりとして中国地方を統治していました。
しかし、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で、「石田三成」方の西軍総大将として敗北。
その結果、改易こそ免れたものの、周防(すおう:現在の山口県東部)と長門(ながと:現在の山口県西部)の2ヵ国に減封され、その後萩城を築城して居城しました。
新たな毛利家の拠点となった萩城は、海岸線に面した指月山(しづきやま)に築城されたことから、「指月城」とも呼ばれています。その城下町は、阿武川(あぶがわ)が松本川と橋本川に分かれる三角州になるため、湿地帯の埋め立て作業から城下町建設を始めなければなりませんでした。
毛利輝元は、1604年(慶長9年)に現地へ赴き、城下町工事の進捗状況を確認して、工事の進行を督励したと言われています。
城下町における町割の基準となったのは、「御成道」(おなりみち)と呼ばれる主要道路でした。
参勤交代の際に使用することを目的としていたため、道に沿って毛利家の一門と上級武家の屋敷が建ち並び、幕末までは現在より道幅が広く取られ、約9mあったと言います。
町割の特徴は、中央を町人地とし、川沿いを武家地としていたことです。これは、城下町を武家地で囲む配置になっており、籠城戦を想定したものでした。
さらに、城下町の一端に港湾を備えるという海に面した特徴を有しつつ、惣構え(そうがまえ:城の敷地や城下町一帯のこと)の中に田畑を設けることで、長期的な籠城戦にも対応できるようにしてあったのです。
また、三角州に形成された萩の城下町において、洪水対策は不可欠でした。城下町の東を流れる松本川の場合は、河口を切り開くと共に、流れを直線的にするための河川工事を実施。
西に流れる橋本川においても、蛇行していた流れのカーブを緩やかにするための工事を行ない、湿地帯などの埋め立てにも着手して堤防作りに取り組みましたが、幾度となく浸水の被害を受けたため、河川改修工事と並行して堀川の開削にも力を注ぎました。
「新堀川」や「藍場川」(あいばがわ)も、当初は城下町内の排水機能を高めるために開削された水路です。完成後は、生活用水はもちろん、防火用水、農業用水、また物資の運搬などにも使用されていました。
現在の藍場川には鯉が放流されており、川沿いの景観は「歴史的景観保存地区」に指定されています。
萩城下町の「堀内地区」は、1976年(昭和51年)に、全国初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたことで有名です。
かつては萩城三の丸にあたる場所だったことから、藩の諸役所や毛利一門の武家屋敷が建ち並んでいました。
現在は、武家屋敷の土塀が続く町並みが見どころです。「問田益田氏旧宅土塀」(といだますだしきゅうたくどべい)は、石垣と塗り壁で作られた土塀で、市内に現存する土塀の中でも最長の231.7mを誇っています。
堀内地区の「堀内鍵曲」(ほりうちかいまがり)は、敵の侵入を阻むために作られた曲がり角。左右にそびえる高い土塀は直角に折れ曲がり、敵の進行速度を落とす効果がある他、出会い頭に奇襲をかけることも可能で、こういった道の造りは近世城下町に多く見られる防御機構のひとつでした。
城下町の中心エリアには、御成道に沿って豪商の屋敷も建っています。その豪商のひとつで藩御用達だった「菊屋」の名前を付けた「菊屋横丁」は、白いなまこ壁が美しいと評判の路地であり、「日本の道百選」にも選定されました。
また、「維新の三傑」として知られる「木戸孝允」(きどたかよし:別名・桂小五郎)の旧宅があるのは、「江戸屋横丁」。こちらは、黒板塀が風情を漂わせる路地になっています。
他にも、堀内地区と共に重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた「平安古地区」(ひやこちく)など、往時を偲ばせる景観を楽しめるのが萩城下町の見どころです。
長州藩は、いち早く藩士の人材育成に力を注いだ藩のひとつで、その象徴が「藩校明倫館」(はんこうめいりんかん)。
文武を尊ぶ「毛利吉元」(もうりよしもと)が長州藩5代藩主となり、1719年(享保4年)に創設しました。
明倫館の誕生は、米沢藩の「興譲館」(こうじょうかん)と並び、日本の学校敎育史から見ても先駆けとなる存在です。
現在、明倫館の跡地は旧・明倫館小学校の木造校舎を改修した観光施設「萩・明倫学舎」になっており、施設内には幕末の貴重な史料を展示する「幕末ミュージアム」があります。
そして、幕末志士を語るうえで欠かせないのは、「松下村塾」(しょうかそんじゅく)です。松下村塾は、明倫館の出身である「吉田松陰」(よしだしょういん)が幕末期に主宰した私塾。吉田松陰は、身分や階級にとらわれず塾生を受け入れたことで、多くの若者の心をとらえます。
吉田松陰が塾生に訴えたのは、「今の幕府や藩主達に本当の改革を実行することはできない。今こそ身分や階級を超えて国家を論じ、未来を切り拓くために志を持った者が立ち上がらなければならない」ということでした。そして、その言葉に応えたのが、「高杉晋作」や「久坂玄瑞」(くさかげんずい)、「伊藤博文」、「山県有朋」(やまがたありとも)、「山田顕義」(やまだあきよし)など、維新への原動力となった塾生達です。
その中でも、歴女の間で特に人気がある2人と言えば、博識で容姿端麗だったことから、女性に人気があったという久坂玄瑞と、「奇兵隊」の創設者で「幕末の麒麟児」と呼ばれた高杉晋作。久坂玄瑞と高杉晋作は、 「松陰の双璧」とも呼ばれており、2人の関係性と吉田松陰の人材育成能力の高さを示す逸話に、こんな話があります。
当時、高杉晋作は剣術の鍛錬ばかり熱心に行ない、学業を疎かにしていました。そこで吉田松陰は、高杉晋作のやる気を引き出すために、あえて久坂玄瑞ばかりを褒めたと言います。負けず嫌いな高杉晋作は、これをきっかけにして学業にも力を入れるようになり、吉田松陰の期待通りに立派な人材に育ったのです。
歴女から絶大な人気を集める高杉晋作は、農町民や脱藩武士らを加えた藩の軍隊・奇兵隊を結成したことで知られる幕末志士。
高杉晋作の生家と言われる建造物の一部は、現在も公開されており、高杉晋作ゆかりの品や句碑、産湯に使われた井戸、家族の写真などが展示してあります。
久坂玄瑞は、尊王攘夷(そんのうじょうい)派のリーダーとして奔走し、志半ばで散った幕末志士。生家は現存しませんが、誕生地には石碑が建てられています。
また、城下町の近くにある中央公園の一角には、右手を掲げて未来を見つめる凛々しい姿の久坂玄瑞の立像があり、久坂玄瑞ファンの歴女必見の撮影スポットです。
維新の三傑と称された木戸孝允の旧宅は、木戸孝允が江戸に出るまでの約20年間を過ごした場所。木戸孝允ゆかりの掛け軸や写真などが展示してあり、ボランティアガイドから詳しい説明を聞くこともできます。
高杉晋作ファンの歴女にぜひ訪れていただきたいのが、「萩博物館」内にある「高杉晋作資料室」。
高杉家から寄贈された資料が見学でき、その充実ぶりは国内でもトップクラスです。
さらに、展示品は定期的に入れ替わっているため、何度でも訪れたくなります。
全国から、幕末好き歴女が訪れるお店として有名な「萩・梁山泊」(はぎ・りょうざんぱく)。
志士達の家紋をモチーフにしたストラップや小物入れ、手拭いなど、多彩な商品を取り揃えています。
毛利氏の御用窯(ごようがま:江戸時代に献上品の什器を作るために藩が造った藩窯[はんよう]のこと)として発展した「萩焼」。
毛利輝元の指示によって、朝鮮人陶工の兄弟が城下で作陶したことから歴史が始まります。
その後、茶人好みの器として、「一楽二萩三唐津」(いちらくにはぎさんからつ)と称されるまでに全国的にも有名になりました。
萩焼の特徴は、優しい風合い。焼き物に詳しい歴女なら耳にしたことがあるかもしれませんが、「萩の七化け」(はぎのななばけ)も魅力のひとつです。この萩焼独特の変化は、表面に生まれた細かなヒビによるもので、使い込むほどにお茶などが浸透して、表面の色が微妙に変わっていきます。萩焼は、そういった変化を楽しめる陶器なのです。
ちなみに、毛利輝元が萩焼にこだわったのは、「焼き物では誰にも負けたくない」という思いがあったからと言われています。豊臣秀吉に仕えたことで、茶の湯への造詣も深く、優れた焼き物を見極める目を持っていたのです。
藍場川沿いにある「元萩窯」(げんしゅうがま)は、築100年以上の古民家を改築した萩焼窯元のギャラリー。店内には、伝統的な茶道具をはじめ、萩焼の食器類などが並んでいます。
ここでのおすすめは、萩焼体験。スタッフが丁寧に指導してくれるため、陶芸の経験がない歴女でも安心です。
旅好きな歴女が萩城下町で検索した際に、一度は目にする画像として挙げられるのが、古い土塀越しに繁る「夏みかん」の写真。
萩で夏みかんが特産品になったのは、藩庁が山口に移されたことと深くかかわっています。
1863年(文久3年)、当時の藩主「毛利敬親」(もうりたかちか)が山口に移り住んだことに加え、明治維新後に行なわれた秩禄処分(ちつろくしょぶん:明治政府による秩禄給与の全廃政策のこと)により、多くの士族が秩禄(ちつろく:維新期の功労者や華族、士族に与えられるお金)を得られなくなりました。
この秩禄を失った武士を救済するために、広大な土地に植えられたのが夏みかんの木でした。栽培を開始して10年後、夏みかんの実と苗木の収益により、萩町の財政は回復。その後も植樹は続けられ、町の至るところに夏みかんの木が植えられたのです。当時植えられた夏みかんの木は、現在も見ることができます。
萩城下町の人々は、夏みかんのことを「橙」(だいだい)と呼び、毎年5月中旬頃に「萩・夏みかんまつり」を開催。2001年(平成13年)には、環境省が選定する「かおり風景100選」のひとつとして、山口県内で唯一、萩市が選定されました。