歴女ブームの火付け役として知られる戦国武将「伊達政宗」。伊達政宗を主人公に据えたゲームが大ヒットしたことで、幅広い年齢層の女性ファンが歴史の世界へ誘われることになり、伊達政宗に魅了される歴女は増え続けています。
伊達家の繁栄をかけて戦国の世を駆け抜けた伊達政宗は、奥州(おうしゅう:現在の東北地方)の覇者となってからも飽くなき野望を抱き続け、天下取りを夢見ていました。今回は、伊達政宗が戦国から江戸時代にかけて拠点地としていた宮城県に伝わる史跡をご紹介します。
18歳で家督を継ぎ、伊達家当主となった「伊達政宗」は、破竹の勢いで勢力を拡大させ、奥州の覇者へと上り詰めました。
伊達政宗は、江戸時代になると「徳川家康」に仕えて、現在の宮城県仙台市へ移ります。
そして、仙台藩初代藩主として、仙台の城下町づくりに奔走していきました。
伊達政宗ファンの歴女が一度は訪れたい町・仙台には、現在も伊達政宗ゆかりの史跡が多く存在します。
仙台が東北の中心都市として栄えるようになったのは、伊達政宗が東北の拠点として、現在の宮城県仙台市青葉区に「仙台城」を築いたことから始まりました。仙台城は、江戸時代を通して仙台藩伊達家の居城として代々受け継がれていきます。
仙台城本丸は、東に崖、西に山林、南は渓谷に囲まれた、自然の地形を見事に利用して建てられた天然の要塞です。青葉山に建てられていたことから、「青葉城」(あおばじょう)という別名でも呼ばれていました。
1611年(慶長16年)に来日したノビスパニア(現在のメキシコ)の使節「セバスティアン・ビスカイノ」は、仙台城を見て「日本で最も優れ、堅固なる物のひとつ」と自身の著書に書き留めています。
その後、伊達政宗の跡を継いだ2代藩主「伊達忠宗」(だてただむね)の時代になると、戦の時代から政治の時代に移行したことから、1639年(寛永16年)に仙台城の山麓部に二の丸が造営されました。
仙台城は、伊達政宗が築いた本丸と西の丸、そして伊達忠宗が築いた二の丸、三の丸を有する大規模な城郭となり、仙台藩は幕末まで二の丸を中心に藩政を行なったと言います。
しかし、明治時代になると、軍の施設が置かれることに伴って本丸や二の丸が解体され、さらに火災によって建物は大部分を焼失。
第二次世界大戦中には、国宝に指定されていた大手門(おおてもん)と脇櫓(わきやぐら)が戦渦に巻き込まれて、江戸時代の遺構はほぼすべて焼失してしまいました。
その後、1967年(昭和42年)に、民間からの寄付によって脇櫓が復元。かつての仙台城の面影を感じられる場所として、現在も脇櫓は人気の撮影スポットになっています。
また、城の土台として張り巡らされた高石垣は見所のひとつ。城好き歴女は、東北一とも言われる仙台城の美しい石垣に注目です。
三の丸跡に建つ「仙台市博物館」では、伊達政宗が所用していたと言われる甲冑「黒漆五枚胴具足」(くろうるしごまいどうぐそく)を展示。
城内の「青葉城資料展示館」では、CG映像で再現された仙台城の上映が行なわれる他、伊達家ゆかりの史料を展示しているので、伊達政宗と仙台城の歴史を学べる人気スポットとして多くの歴女が訪れます。
仙台城跡から車で10分ほどの場所にある「瑞鳳殿」(ずいほうでん)は、伊達政宗の遺言「死後は経ヶ峯(きょうがみね)に葬るように」の言葉にしたがって、2代藩主・伊達忠宗が建てた霊廟(れいびょう:死者や祖先の霊を祀る場所)。
「経ヶ峯」は、川を挟んで仙台城本丸と向かい合う場所にある丘陵のことです。
伊達政宗が没した翌年の1637年(寛永14年)に完成した瑞鳳殿は、「本殿」、「拝殿」、「御供所」(ごくうしょ)、「涅槃門」(ねはんもん)が建てられており、本殿両脇には、伊達政宗が没した際に殉死した家臣と陪臣(ばいしん:家臣の家臣)を合わせた20名の宝篋印塔(ほうきょういんとう:仏塔のこと)が並んでいます。
桃山様式で建てられた霊廟は、1931年(昭和6年)に国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)の仙台空襲によって焼失。その後、1979年(昭和54年)に現在の建物が再建され、2001年(平成13年)には仙台開府400年を記念して、瑞鳳殿の大改修が行なわれました。
また、このときに柱上部の獅子頭の彫刻と、屋根にあった龍頭彫刻瓦も復元されています。
再建された御供所は、現在「瑞鳳殿資料館」となっており、戦後に行なわれた発掘調査で発見された副葬品などを展示。館内では、発掘調査の様子が記録された映像を上映する他、伊達政宗の遺骨をもとに再現した容貌像の展示もあります。
伊達政宗の父「伊達輝宗」(だててるむね)の菩提寺「覚範寺」(かくはんじ)は、1585年(天正13年)に横死した伊達輝宗の菩提を弔うために、伊達政宗が創建した寺院。
伊達政宗の生涯の師であった臨済宗妙心寺派の僧「虎哉宗一」(こさいそういつ)が開山したと言われる本寺院は、伊達政宗が生まれた出羽国米沢(でわのくによねざわ:現在の山形県米沢市)の遠山村(えんざんむら)にあったと言われています。
伊達家の移転に伴って、1592年(文禄元年)に現在の宮城県大崎市岩出山に移され、その後の1601年(慶長6年)には、仙台市愛宕山へ遷座されました。
しかし、愛宕山に移転した翌年、小人(しょうじん:下級武士のこと)が騒動を起こし、覚範寺の境内で火を放って自害するという「小人騒動」が起こってしまいます。この事件で、覚範寺は焼失。その後、現在地である北山に移転して再建されました。
覚範寺には、伊達政宗の母「義姫/保春院」(よしひめ/ほしゅんいん)の墓と、伊達政宗の3男「伊達宗清」(だてむねきよ)の供養塔があり、1636年(寛永13年)に伊達政宗が江戸で没した際には、菩提寺である覚範寺に安置されて、ここで中陰法要(ちゅういんほうよう:大乗仏教の法要のひとつ)が行なわれたと言います。
その後、覚範寺は明治時代から昭和時代にかけて、度重なる火災で焼失。現在の本堂は、1967年(昭和42年)に再建された建物です。
雄々しい猛将として知られる伊達政宗ですが、実は文化人としての才能も持ち合わせていました。
茶道や和歌を嗜み、料理を趣味にしていたという意外な一面は、歴女を虜にする理由にもなっています。
様々な顔を持つ伊達政宗が、仙台藩主になってから愛した場所が、奥州を代表する景勝地「松島」(まつしま)でした。日本三景のひとつに数えられる松島には、現在も伊達政宗の感性が光る寺院や建築物が残っています。
「瑞巌寺」(ずいがんじ)は、松島で最も有名な観光スポット。
松島海岸駅から歩いて約10分の場所にある瑞巌寺は、伊達政宗が仙台藩主になったのち、荒廃していた境内を復興した寺院。正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」(しょうとうせいりゅうざんずいがんえんぷくぜんじ)と言い、古くは「松島寺」と呼ばれていましたが、伊達政宗が復興して以降は瑞巌寺の名で親しまれるようになりました。瑞巌寺の歴史は古く、創建は平安時代にまで遡ります。
828年(天長5年)、天台宗の僧「慈覚大師円仁」(じかくだいしえんにん)が、「淳和天皇」(じゅんなてんのう)の勅願寺を松島に開山して「延福寺」と名付けました。これが現在の瑞巌寺の始まりと言われており、名称の由来は、円仁が天台宗総本山「延暦寺」にちなんで付けたと考えられています。
その後、延福寺は鎌倉時代中期に約400年の歴史に幕を下ろし、「法身禅師」(ほっしんぜんじ)によって「円福寺」として生まれ変わりました。戦国時代に入ると円福寺も衰退の道を辿り、妙心寺派に属するようになります。
江戸時代初期に入ると、伊達政宗によって城下町の整備及び神社・仏閣の復興と造営が行なわれました。特に円福寺の復興には力を注ぎ、名工130名を招集して、1604年(慶長9年)から丸4年の歳月をかけて、本堂などの伽藍(がらん:僧侶が集まり修行する清浄な場所)を完成させます。
1608年(慶長13年)、円福寺は瑞巌寺に改称。そして、翌年の1609年(慶長14年)に竣工して以降、伊達家の厚い庇護を受けてきた瑞巌寺は、奥州一の格式を誇る寺院として、広く知られるようになったのです。
現存の本堂、本堂に付属する御成玄関、庫裡(くり:禅宗寺院の台所)と回廊は、国宝に指定されており、その他の門や塀など、伊達政宗が再建した当時の建造物のほとんどが重要文化財に指定されています。
瑞巌寺における、伊達政宗ファンの歴女必見のスポットは、本堂の真裏付近にある梅の木。この梅の木は、県指定天然記念物「臥龍梅」(がりゅうばい)。1609年(慶長14年)の竣工時に、伊達政宗が朝鮮出兵の際に持ち帰って手植えしたと言われる梅の木なのです。
松島湾に突き出た小島に建つ「五大堂」(ごだいどう)は、国の重要文化財に指定されている仏堂。
もともと五大堂は、807年(大同2年)に、「蝦夷征討」で奥州へ派遣されていた「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)が毘沙門堂を建てたことが始まりと言われています。
その後、828年(天長5年)に慈覚大師円仁が延福寺(瑞巌寺)を開山した際に、「大聖不動明王」(だいしょうふどうみょうおう)を中心にして、東に「降三世明王」(ごうざんぜみょうおう)、西に「大威徳明王」(だいいとくみょうおう)、南に「軍荼利明王」(ぐんだりみょうおう)、北に「金剛夜叉明王」(こんごうやしゃみょうおう)の「五大明王像」を安置したことから五大堂という名で呼ばれるようになりました。
五大明王像は、平安時代中期に慈覚大師円仁の手彫りによって造られた秘仏と言われています。なお、秘仏は現在も五大堂に安置されており、五大堂は1700年代に、仙台藩5代藩主で「中興の英主」と称される「伊達吉村」(だてよしむら)が、およそ500年ぶりに開帳して以来、33年に一度開帳されるようになりました。
現在の五大堂は、1604年(慶長9年)に伊達政宗が建立した、東北地方最古の桃山建築と言われています。
「観瀾亭」(かんらんてい)は、伊達政宗が江戸の品川藩邸で使用していた茶室。
江戸の茶室がなぜ松島にあるのかと思われるかもしれませんが、もともとは豊臣秀吉が隠居城として築いた「伏見城」(ふしみじょう)にあった建物で、伊達政宗が豊臣秀吉から拝領したあと、品川藩邸に茶室として移築したと言われています。
伊達政宗は、没する前年にも松島を訪れており、松島湾に舟を浮かべて月見をしながら、「中秋賞月於松島」(ちゅうしゅうつきをまつしまにしょうす)と題する漢詩を詠んでいました。
観瀾亭の別名は「月見御殿」。伊達政宗の死後、次代の伊達忠宗によって、晩年の伊達政宗が愛した松島に移築されたことを機に、藩主の別荘として活用されました。代々の藩主は、松島の美しい景観を楽しんでいたと言います。
観瀾亭では、現在も景色を眺めながら抹茶を愉しむことが可能。歴女もそうでない方も、伊達政宗ゆかりの史跡巡りの道中に、伊達政宗自慢の茶室で海を眺めながらひと休みし、最高の贅沢を味わってみてはいかがでしょうか。