徳川四天王のひとりで、生涯「徳川家康」を支え続けた「本多忠勝」(ほんだただかつ)。初陣から57回の戦歴のなかで1度も手傷を負わなかったという武勇伝を持ち、戦国最強の武将とも語られている人物です。本多忠勝の猛将ぶりもさることながら、徳川家康に忠義を尽くした重臣という性格が、歴女からの人気が高い理由のひとつ。ここでは、徳川家康に追従して拠点を置いた、東海・関東の本多忠勝ゆかりの史跡を紹介します。
本多忠勝は、1548年(天文17年)、三河国額田郡蔵前(ぬかたぐんくらまえ:現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で生まれました。
この地は、愛知環状鉄道の北岡崎駅から、車で約10分北上した場所に位置し、「本多忠勝誕生地」として岡崎市指定文化財の史跡となっています。
かつて、ここには本多氏の居城「西蔵前城」(にしくらまえじょう)が建っていたことから、この地が本多忠勝の誕生地だと言われているのです。
現在、城跡は残っていませんが、「本多平八郎忠勝誕生地」と彫られた石碑が建てられています。この石碑は、1915年(大正4年)に行なわれた「家康忠勝両公300年祭」の記念として、祭主を務めていた「本多忠敬」(ほんだただあつ)によって建てられました。本多忠敬は、本多忠勝の子孫にあたる本多家17代当主で、明治から大正にかけて貴族院議員を務めた人物です。
また、「岡崎城跡」を岡崎公園として整備したのも本多忠敬で、先祖・本多忠勝ゆかりの岡崎に大きく貢献しています。本多忠勝ファンの歴女にとっては、本多家の歴史を感じられる特別な聖地なのです。
本多忠勝は、生まれた翌年に父「本多忠高」(ほんだただたか)を亡くしており、叔父の「本多忠真」(ほんだただまさ)の居城である「欠城」(かけじょう)で保護されていたとのこと。そして、本多忠真から武士の心得を学んだ本多忠勝は、立派な武将として成長していったのです。本多忠勝が育ったこの欠城は史跡として残ってはいませんが、現在の岡崎市欠町にある岡崎市東公園付近だと言われています。
西蔵前の誕生地と、本多忠勝が育った欠町は、歴女なら、ぜひ足を運んでおきたい必見のスポットです。
本多忠勝の故郷・岡崎市から車で走ること約1時間。JR・近鉄桑名駅の東に位置する揖斐川(いびがわ)沿いに、かつて本多忠勝が城主を務めた「桑名城」(くわなじょう)の史跡が残っています。
徳川家康の天下人への道を支え続け、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で戦功を挙げた本多忠勝は、1601年(慶長6年)に、伊勢国桑名(いせのくにくわな:現在の三重県桑名市)10万石へ移封(いほう:大名などを別の領地へ移すこと)となり、桑名藩初代藩主となりました。そして本多忠勝は、この揖斐川沿いの土地に城郭を築き、城下町の整備を進めていったのです。
もともと桑名城は、鎌倉時代の1186年(文治2年)に、この地を支配していた「桑名三郎行綱」(くわなさぶろうゆきつな)によって築かれた城館が始まりとされており、1591年(天正19年)に、豊臣秀吉に仕えていた「一柳直盛」(ひとつやなぎなおもり)によって、江戸時代に続く城郭が築かれたと伝えられています。
本多忠勝は、この桑名城を海に向かって開いた城へと拡張し、城下町へ注ぎ込む川の流れを整備していきました。そして、桑名を城下町・宿場町・港町として機能させるために、「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町作りを行なっていったのです。こうして、初代藩主として現在の桑名市街の礎を築いた本多忠勝は、桑名藩の名君と呼ばれるようになりました。
現在、桑名城跡には残念ながら建造物は残っていませんが、本丸跡と二の丸跡は「九華公園」(きゅうかこうえん)として整備されており、四季折々の花が咲き誇る市民憩いの広場となっています。
さらに、三の丸御殿跡に造られた「柿安コミュニティパーク」という芝生広場には、本多忠勝お馴染みの「鹿角脇立兜」(かづのわきだてかぶと)を着用した本多忠勝像が、猛将らしい姿で鎮座。本多忠勝と記念撮影ができるフォトスポットとして、また、本多忠勝の勝負運の強さと、「ただ勝つ」の語呂合わせから、運気アップのパワースポットとしても人気を集めています。
この本多忠勝像の近くの堀川東岸には、桑名城の城壁の一部が現存。本多忠勝が築いた石垣も合わせて見学することができます。
桑名城跡を出て、桑名駅方面へ歩いて約10分の場所にある寺院「浄土寺」(じょうどじ)。
浄土寺は、1610年(慶長15年)10月18日に、63歳で亡くなった本多忠勝が葬られた寺院で、本多忠勝の本廟がある桑名藩主本多家の菩提寺となっています。
浄土寺の正式名称は、山号(さんごう:仏教寺院の名前の上に付けられる称号)が「袖野山」(しゅうやさん)で、院号(いんごう:寺院の称号)は「西岸院」(せいがんいん)。西山浄土宗の寺院です。
寺伝によると、1049年(永承4年)に、海中から出現した地蔵尊を安置したことに始まると伝えられており、江戸時代になると、本多忠勝が慶長の町割りを行なったことで、現在地へ移転しました。
本多忠勝の墓石には、本多忠勝が使用していたと言われている本多家の家紋「立ち葵」(たちあおい)が刻まれており、また墓所には、本多忠勝のあとに殉死した家臣「梶勝忠」(かじかつただ)と「中根忠実」(なかねただざね)の墓もあり、死してなお主人の側に仕えているのです。
さらに浄土寺は、「まんが日本昔ばなし」でも紹介された怪談話が伝わる寺院としても有名。かつて浄土寺の前にあった「飴忠」(あめちゅう)という飴屋に、女幽霊が毎晩飴を買いに来たという伝承があります。飴忠は、女幽霊が来た店として知られることとなり、地蔵盆には小麦粉をまぶした飴を売るようになりました。村人はこの飴を「ゆうれい飴」と呼び、地域で評判になったとのこと。
現在も、浄土寺では8月23日、24日の地蔵盆にゆうれい飴が販売されるので、この時期に訪れるのもおすすめです。
千葉県の南東部に位置する夷隅郡大多喜町。
徳川家康が居城を築いた江戸から遠い上総国に本多忠勝が置かれたのは、主に安房国(あわのくに:現在の千葉県南部)の里見氏に対する備えとして、国境を守るためだったと言われています。
1590年(天正18年)に入国後、本多忠勝はまず「万喜城」(まんぎじょう:現在の千葉県いすみ市)へ入城し、居城としました。
そして、1591年(天正19年)初頭に大多喜城へ入城し、城郭を大改修して城下町を築いていったのです。近世城郭へと生まれ変わった大多喜城には、本多忠勝によって3層4階の天守が築かれました。
しかし、江戸時代末期の1842年(天保13年)、天守が焼失してしまったため、その後、天守の代わりに「神殿」と呼ばれる建造物が建てられたと言います(現在この神殿に関しては諸説語られており、天守焼失後の神殿の有無は議論が行なわれています)。
そして、1870年(明治3年)12月、大多喜城は取り壊され、1966年(昭和41年)に本丸跡が千葉県の史跡に指定されました。
現在、本丸跡に建っている城郭は、1835年(天保6年)の図面と、1827年(文政10年)の写し絵図などをもとに、1975年(昭和50年)に復元(天守存在説によって復興・模擬と表記が分かれます)された建物。この建物内は博物館となっており、千葉県立中央博物館大多喜城分館として運営されています。
館内では、「房総の城と城下町」をテーマに、房総の中世から近世までの歴史を紹介すると共に、刀剣や甲冑も展示。全国でも珍しい天守閣造りの博物館となっています。
現在、大多喜城二の丸跡は、千葉県立大多喜高等学校となっており、高校の敷地内には現存する唯一の遺構「薬医門」(やくいもん)が残されています。
この門は、明治初頭に大多喜城が取り壊された際、大多喜水道水路の開削(かいさく:山野を切り開いて道や運河を通すこと)で功績を上げた「小高半左衛門」(おだかはんざえもん)に払い下げられていました。
その後、1926年(大正15年)、半左衛門の曽孫で県立大多喜中学校第1回卒業生「小高達也」氏から同校校門として寄贈されたため、再び二の丸跡に移築されたと伝えられています。
そして、1965年(昭和40年)から始まった大多喜高等学校新校舎建設の際に、薬医門は一度解体保存されていましたが、1973年(昭和48年)、大多喜中学校卒業生の「中村茂」氏によって復元設計され、現在に至っています。
さらに、大多喜高校の校内には、本多忠勝が掘らせたという大井戸も現存。これは、大多喜城内にあった20数個の井戸のうちのひとつで、周囲17m、深さ20mの大井戸であり、かつて8個の滑車と16個のつるべ桶があったとのこと。水が尽きることなく湧き出ることから、「底知らずの井戸」と呼ばれていました。
薬医門と大井戸は共に千葉県指定史跡となっており、どちらも見学自由となっているため、大多喜城跡を訪れた際に大多喜高校にも立ち寄れば、貴重な遺構を見学することができます。
大多喜城跡から、大多喜駅を越えた場所に鎮座している「夷隅神社」(いすみじんじゃ)も見逃せません。
大多喜町の文化財に指定されている夷隅神社は、大多喜城主となった本多忠勝が、城下町の整備と共に創建した神社なのです。
本多忠勝は、現在の社地に鎮座していた神宮寺を大多喜城の北側にあった栗山に移転し、「祇園院大円寺」(ぎおんいんだいえんじ)から「牛頭天王」(ごずてんのう)を勧請(かんじょう:本社に祭られた神の神霊を分け、他の神社へ移すこと)して、「牛頭天王社」としました。
以降、歴代の大多喜城主に庇護されてきましたが、明治時代の神仏分離に伴い、牛頭天王社から夷隅神社と改称されたと言います。
祭神の牛頭天王は、インドと中国の神が習合(しゅうごう:神々を混合、または同一視すること)した存在で、日本では「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)と習合したと言われている神様。明治以降、長きに亘って夷隅神社では素戔嗚尊が祭神とされてきましたが、本殿改修時に、3柱の神様を祭っていたことが判明しました。
仮社殿へ御神体を遷座(せんざ:神仏の座を他へ移すこと)するために本殿内部の調査を行なっていたとき、御神体の台座の中から綿布に包まれた鏡が発見されたのです。この鏡には、中央に素戔嗚尊、右側に「大己貴命」(おおなむちのみこと)、左側に「稲田姫命」(いなだひめのみこと)と刻印されていました。
この3柱については、素戔嗚尊と稲田姫命は夫婦であり、大己貴命はその子孫とされています。そのため、縁結びの神様として知られる大己貴命と夫婦の神様を祭っていることから、夷隅神社は縁結びや安産の御利益で注目を集める神社となりました。
本多忠勝が築いた城下町大多喜の総鎮守・夷隅神社は、本多忠勝ファンの歴女注目のスポットなのです。