福島県下郷町(しもごうまち)にある「大内宿」は、江戸時代に会津(あいづ:現在の福島県西部)の城下と、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)を結ぶ街道「会津西街道」の北の出発点にあたり、会津城下から3番目の宿場町として栄えました。会津西街道は、「下野街道」(しもつけかいどう)とも呼ばれており、総延長は現在の福島県会津若松から、栃木県日光市今市(いまいち)までの約130kmにも及びます。
大内宿は、会津西街道が開通した1640年 (寛永17年)頃に整備され、会津藩をはじめ新発田藩、村上藩、米沢藩などの参勤交代や、商人、旅芸人など、様々な旅人が行き交う交通の要所として重要な役割を果たしていました。つまり、大内宿には歴女の好奇心を刺激する歴史エピソードも多くあると言うことです。福島県南会津郡下郷町に位置する大内宿は、会津鉄道の湯野上温泉駅からシャトルバスで約15分。今なお江戸時代の風情が色濃く残る宿場町・大内宿の魅力をご紹介します。
福島県下郷町(しもごうまち)にある「大内宿」(おおうちじゅく)は、南北に走る約500mの街道を中心に、40軒以上の茅葺き屋根の古民家が軒を連ねる宿場町。
これほどまでに素朴で情緒あふれる町並みが、当時の状態のまま現在に残っているのは、ある理由がありました。
明治時代に、会津西街道に代わる新道「会津三方道路」が整備されたことで、下野街道(しもつけかいどう)は、主要な幹線ルートから外れます。
しかし、これが幸いして近代化が遅れたことで、結果的に江戸時代の面影をそのまま留めることができたのです。寄せ棟造りの建物が整然と並ぶ特徴的な大内宿の町並みは、1981年(昭和56年)に、全国で3番目となる国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
大内宿にある茅葺き屋根の建物の多くは、いずれも現役の商店や民宿で、会津の郷土料理を提供する食事処の他、伝統工芸品を売るお店など、訪れる観光客を日々もてなしているのです。
なお、大内宿には、「豊臣秀吉」と「伊達政宗」に関する逸話が2つ存在します。ひとつは、街道が幕府の管理化で整備されるようになる江戸時代以前、伊達政宗が豊臣秀吉の求めに応じて小田原攻めに参陣したとき、大内宿を通ったという話。
そしてもうひとつの逸話は、小田原攻めの後始末として、豊臣秀吉が奥州の戦国大名を再編した「奥州征伐」(おうしゅうせいばつ)のときに、豊臣秀吉も大内宿を通って東北に向かったという話。
大内の地は、江戸時代以前から政治の中心地と東北を結ぶ中継点だったのです。
大内宿に住む人びとは、大内峠の山々から湧き出る清水を宿場内の水路に引き、飲用水や生活用水として利用してきました。
江戸時代、ここを訪れた大名や商人、旅人や牛馬も、天然の湧き水で喉を潤していたことが窺えます。
山々から湧き出た水は、現在も大内宿の人びとの暮らしを支えており、1996年(平成8年)には環境省の「残したい日本の音風景100選」に選定されました。
大内宿の中央付近、「火の見やぐら」の正面にある大きな鳥居をくぐって5分ほど歩いたところにある「高倉神社」は、大内宿の鎮守。
本殿の背後にある杉は、樹齢800年以上とも言われる御神木「高倉の大杉」。創建時に献植したと言う大杉は、現在も神々しく厳かな雰囲気を醸し出しています。
高倉神社は、「平清盛」に反旗を翻した「高倉宮以仁王」(たかくらのみやもちひとおう:後白河天皇の第2皇子)の歴史が残る場所です。
1180年(治承4年)、「源頼政」と共に打倒平清盛を掲げて挙兵を企てたものの失敗に終わった高倉宮以仁王と、その愛馬が祀られています。
史実では、高倉宮以仁王は「宇治川の戦い」で破れて戦死したと言われていますが、大内界隈では、高倉宮以仁王は戦禍を逃れて密かに脱出し、大内宿に潜行したのち、再び越後へ旅立って行ったという伝説があるため、大内の地に高倉宮以仁王を祀る神社を創建しました。
また、高倉宮以仁王がこの地に留まり、都を偲んで詠んだと言われる歌「春は桜 秋は紅葉の にしき山 あづまの都 大内の里」にある「大内」から、大内宿の名前が付いたと言われています。
高倉宮以仁王が潜行していた頃、高倉宮以仁王の妃「紅梅御前」(こうばいごぜん)と側室の「桜木姫」(さくらぎひめ)は、高倉宮以仁王を追って数少ない家来と共に京を出立しましたが、一行が大内宿に辿り着いたときにはすでに、高倉宮以仁王は越後に旅立ったあとでした。
ほどなくして、桜木姫は旅の疲れから病に倒れ、18歳という若さで他界。桜木姫の名称は、病に倒れた姫が持っていた杖から桜の花が咲いたことに由来していると言われており、大内宿の奥の旧道を進んだところには、桜木姫の遺骸を葬ったという墳墓があります。
大内宿に店を構える「本家玉屋」(佐藤家)は、平氏に追われて逃げて来た高倉宮以仁王が草鞋(わらじ)を脱ぎ、休憩を取ったという伝説が伝えられる、高倉神社の永代御頭家です。
店内は、大内宿の名物「ネギそば」や「きんつば」などが味わえる食事処となっています。お箸の代わりに1本のねぎを使って食べるネギそばは、長野県の「高遠そば」(たかとうそば)が会津の地に伝わって改良された名物。斬新な見た目をしていますが、食通の歴女もうならせる美味しさなので、訪れた際はぜひ堪能したい逸品です。
本家玉屋の2階は資料館として公開されており、江戸時代の参勤交代の際に使用されていた弁当箱や会津塗りの酒器など、本家玉屋に伝わる歴史的遺品を観ることができます。
そば処としても知られる会津・大内宿のネギそばは、大きな器の上に丸ごと1本のねぎが添えられた豪快な逸品であることは、前出の通りです。
ねぎを箸代わりにしてそばを食べ、薬味としてねぎをかじるという独特の食事方法は、全国でも会津地方でしか体験できません。
会津のそばは、祝いの席や徳川将軍家への献上品として出されていました。ねぎを切らずに出すようになった経緯には諸説ありますが、一説によると「切る」ことは縁起が悪かったため、ねぎを切らずに1本丸ごと出したことがはじまりと言われています。
そばにねぎを添えるのは、「ねぎのように細く長く、白髪が生えるまで長く生きる」というお祝いの意味が込められているためです。
ちなみに、大内宿で1本のねぎを箸代わりに添えたネギそばが広まったきっかけは、老舗の食事処「三澤屋」が、昭和時代後期頃からはじめたためと言われています。ある時、食事をしに来た客から「小さいお椀にねぎを挿すことで、子孫繁栄を願う風習がある」という話をされて以降、お店でそばを出すときに、箸の代わりに1本のねぎを添えるようになったのです。
なお、大内宿のネギそばの起源については諸説あり、三澤屋ではなく「大和屋」がはじめたという説もあります。
大内宿には、名物ネギそばを提供する店が数十軒ありますが、その味や具材は様々です。呼び方も、会津藩主となった「保科正之」が信州の高遠で育ち、会津に伝えたことに由来する「高遠そば」や、婚礼の際にネギそばを食べる会津地方の風習に由来する「祝言そば」(しゅうげんそば)など、店によって異なります。
宿場町の町並みの中でも特に目を引くのは、火の見やぐらです。大内宿は山村にあり、防災設備が不完全だったため、火災は何より恐ろしいものでした。
火災が発生した際に鐘やサイレンを鳴らし、住民の避難、消化の出動を知らせる火の見やぐらは、大内宿を守る重要な存在。
1966年(昭和41年)に建てられた本やぐらは、9月1日の「防災の日」に行なわれる「一斉放水」のときに活躍しています。
大内宿のほぼ中央に位置する、ひときわ大きな茅葺き屋根の建物は「大内宿町並み展示館」。かつて会津藩の藩主などが、江戸への参勤交代の際に宿として利用していた本陣を再建復元し、展示館として生まれ変わった施設です。
館内は、「殿様専用の玄関」をはじめ「上段の間」、「風呂」、「雪隠」(せっちん:便所のこと)などを再現した展示の他、茅葺き屋根に関する資料、宿駅時代に使われていた民具や生活道具などを所蔵・展示しており、館内の囲炉裏は1年を通して薪が燃やされています。
薪を絶やさずに燃やす理由は、古民家の保存のためです。囲炉裏を使用して室内を燻(いぶ)すことで、防虫や防水の効果を付けることができると言われており、大内宿以外の古民家でも、囲炉裏は昔から切っても切り離せない重要な存在でした。
「大内宿 雪まつり」は、大内宿が雪に包まれる毎年2月に開催されるお祭り。
街道沿いには、地元の人びとが雪で手作りした灯籠やかまくらが並んでおり、蝋燭の火が灯されて幻想的な大内宿を見ることができます。
「御神火戴火」(ごしんかさいか)は、お祭りのはじまりを告げる儀式。
高倉神社の神前で清められた下帯姿の男衆が祭壇から御神火をいただき、松明(たいまつ)を掲げて宿場内の雪灯籠ひとつひとつに火を入れていきます。
打ち上げ花火や時代風俗仮装行列、和太鼓演奏、そば食い競争など見ごたえありです。特に高台は、雪祭りの様子を一望できることから毎年多くの写真愛好家が訪れます。