福井県若狭町(わかさちょう)にある「熊川宿」(くまがわじゅく)は、若狭で水揚げされた海産物などを京の都まで運ぶ重要なルートに位置する町です。その歴史は古く、安土桃山時代にまで遡ります。
1589年(天正17年)、豊臣秀吉に重用された武将「浅野長政」(あさのながまさ)が若狭小浜の城主となり、交通と軍事の拠点である宿場町としました。商家や問屋、「旅籠」(はたご)などが集まり、江戸時代には1日に1,000頭もの牛馬が行き交うほどの賑わいを見せたと伝わっています。
山あいに開かれた緑豊かな里、熊川宿は全長1㎞余りの街道。そぞろ歩けば、道沿いに「前川」(まえがわ)が続き、流れるせせらぎの音が心地良く旅気分を盛り上げてくれます。その清らかな水は、平成名水百選にも選出。また、左右に並ぶ雪国ならではのベンガラ塗りの商家や土蔵は往時の面影を残し、まるで時代劇の舞台を思わせる風景を今なお留めています。
この土地特有の歴史や伝統を後世に残す人々の活動、その舞台となった価値ある建造物などが一体となって評価され、2008年(平成20年)には、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。食通の歴女が見逃せないおいしい話を紹介していきます。
「~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道(さばかいどう)~」をテーマに、2015年(平成27年)日本遺産認定の第1号として、「小浜市」(おばまし)と「若狭町」が選ばれました。
若狭は、古くから塩や海産物など豊富な食材を京都へ運び、その往来の中で祭礼や芸能、仏教文化を広く伝えて今に至っています。
若狭から京都への街道は多数ありますが、最も利用された道は、小浜から熊川を経由し、滋賀県の「朽木」(くつき)を通って京都の「出町柳」(でまちやなぎ)に至る「若狭街道」です。運ばれた品物の中でも特に鯖が有名になったことから、いつしか総称して「鯖街道」と呼ばれるようになりました。
「京は遠ても十八里」。若狭から運ばれた鯖が京都に着く頃には、ちょうど良い塩加減になり、今もなお京の食文化に貢献しています。
昔は活況を呈したこの町も、400年以上の時を経て次第に空き家が増え、寂れていくようになりました。
1981年(昭和56年)には「熊川宿町並みを守る会」が設立され、1995年(平成7年)には「若狭熊川宿まちづくり特別委員会」に発展。地元住民が主体になり、活動を行なっています。
また「熊川宿伝統芸能保存会」が、京都から伝わった「てっせん踊り」を80年ぶりに復活させ、熊川音頭、白石神社祭礼などを継承すべく尽力。1999年(平成11年)からは、毎年秋に、内外に向けた「熊川いっぷく時代村」という一大イベントが開催され、大勢の人で賑わいます。
この地に根差した暮らしと歴史的な景観の維持を両立させるべく、活気溢れる町づくり対策も様々です。町並みの保存はもちろん、希望者への空き家の提供や移住者の募集・サポートの実施、観光対策や広報活動など、住民らによる町興しの努力が認められ、2015年(平成27年)、若狭熊川宿まちづくり特別委員会は、「総務省ふるさとづくり大賞」の「総務大臣賞」を受賞。委員会の活動報告は、毎年2回発刊される広報誌「町並み通信 鯖街道熊川宿」でも確認することができます。
熊川宿は、「上ノ町」(かみんちょ)・「中ノ町」(なかんちょ)・「下ノ町」(しもんちょ)という3つの町で構成された宿場町。上ノ町は、約1km続く熊川宿の入り口と言われています。
上ノ町にある道の駅「若狭熊川宿」は、熊川宿のお土産処。古風ゆかしい土蔵造りの外観が目印です。訪れた人々の休憩所として利用されており、名物「鯖寿司」の他、熊川宿で採れた葛を使った「くずうどん」や「くずようかん」なども味わえます。
「熊川番所」は、徳川幕府の時代に関所として物資の統制や課税が行なわれた場所です。
なかでも「入り鉄砲に出女」(いりでっぽうにでおんな:幕府が反逆を警戒して、江戸への鉄砲の持ち込みと江戸屋敷に人質として置いた諸大名の妻・娘が関外にでること)は厳しく取り締まられました。
建物は復元されていますが、場所はそのままで、重要伝統的建造物群保存地区に番所が残っているのは、全国でこの熊川宿だけです。
権現神社は、通称「権現さん」と呼ばれています。権現さんは、水害や火災から町を守る神として祀られており、その昔、上ノ町では道の表面に白い石が出ると水害や火災が起きたことから、この白い石を祀ったことが、権現神社の始まりとされています。
河内川に架かる中条橋を渡ると中ノ町です。1999年(平成11年)に、木製の欄干に架け替えられたという橋は町の景観に溶け込み、夜はライトアップされ幻想的な景色が楽しめます。
中ノ町は熊川宿の中心で、見どころも多数存在。「お蔵道」という、かつて船運の米を蔵屋敷まで運んだ路地の他、江戸時代の繁栄を物語るかのような大きな町屋や、白壁の土蔵が美しいギャラリー、古民家を再利用した美術館、そしてこの町に新しい風を吹き込んだに違いないハイカラな洋館など、様々な建物が軒を連ねる中ノ町の景観は、時代劇のセットを思わせる歴史街道として訪れる人のイマジネーションを刺激します。
「旧逸見勘兵衛家住宅」は、熊川村の初代村長「逸見勘兵衛」(へんみかんべえ)の子息で伊藤忠商事2代目社長となった「伊藤竹之助翁」の生家。熊川宿を代表する町屋のひとつです。
町指定文化財となったあとに改修工事を実施し、現在は宿泊設備や喫茶店などが増設されて、地元住民や観光客の休憩場のひとつとなっています。
1階部分の「勘兵衛茶屋」は、熊川名物の葛を利用した「葛まんじゅう」や、季節限定「葛もちしるこ」などが食べられる人気の甘味処です。甘い物以外にも、焼き鯖が食べられるランチメニューなどもあり、疲れたときに気軽に立ち寄れる休憩所としても利用されています。
また、旧逸見勘兵衛家住宅は、有形文化財でありながらも宿泊することが可能。室内は広々とした吹き抜けのリビングが印象的で、夕食は鯖料理をはじめとした心づくしのふるさと料理が並びます。
若狭鯖街道熊川宿にある「若狭鯖街道熊川宿資料館」は、1940年(昭和15年)、伊藤忠商事2代目社長の伊藤竹之助により建てられた熊川村役場です。
当時としては珍しい近代洋風建築で、1997年(平成9年)より資料館として活用され、鯖街道の資料や民具などを展示、公開。前庭の桜は毎年見事に花を咲かせ、写真を撮る人の姿も多く見られます。
街道に面した広い間口と、風格ある店構えがひときわ目を引く「菱屋」(ひしや)。問屋、役人、小浜藩の御用商人を務めた家で、築130年の建物は見事にリノベーションされ、事務所やショップなどに使える個別の貸スペースとなっている、古くて新しいレンタル空間です。
「白石神社」は、大きな石造りの鳥居をくぐり石段を登って辿り着く先の、高台にある神社です。熊川宿の氏神様が合祀され、小浜藩主「酒井忠勝」も祀られています。
毎年5月3日に行なわれる祭礼では、子供達の祭囃子が奉納され、こども囃子を載せた絢爛豪華な山車が熊川宿を巡行。
誰でも山車の曳き手として祭りに参加できるため、一層盛り上がりを見せます。
「旧問屋倉見屋」(荻野家住宅)は、主屋、土蔵など問屋の形式を残している熊川宿最古となる町屋です。
典型的な平入造りで、塗り込みの壁、「袖壁」(そでかべ)、うだつ、土戸入り戸袋、表には馬をつなぐための「駒つなぎ」も残っています。その威風堂々とした構えが往時の繁栄を物語っているかのようです。
江戸時代後期に建築されたことが文献などにより明らかになっているため、貴重な町屋建築として、2014年(平成26年)、国の重要文化財に指定されました。
「まがり」と呼ばれる「桝形」(ますがた)の「矩折」(かねおり)が、中ノ町と下ノ町の境です。
昔、敵の突進を防ぐために作られた曲がり角で、藩の規則や命令などを掲示する「高札場」(こうさつば)になった場所。珍しい「なまこ壁の蔵」に興味を引かれながら散歩する観光客も多く、下ノ町は、現代でも地元住民の生活圏となっています。
「村田館」は、京都の老舗料亭「菊乃井」の主人として、テレビの料理番組などでも知られる「村田吉弘」の生家です。
1893年(明治26年)に建築された古民家で、その後、鯖街道の食文化を伝える資料館として改修されました。
館内展示には、京の食文化を支えてきた熊川宿の歴史や役割などをパネルで紹介するコーナーの他に、若狭で獲れる魚や名物「熊川葛」などを使った旬の料理写真も展示。また、村田氏が熊川宿への思いを語る映像展示も上映されています。
「若狭良民伝」という若狭に伝わる民間伝承に登場する、親孝行息子の「与七」が施設名称の由来になっている交流施設です。館内は、市民ギャラリーや体験教室として使用される他、休憩室などもあり、町民が交流する憩いの場として活用されています。
与七は、貧しい暮らしでありながらも両親にはご馳走を食べさせていたという孝行息子でした。与七の話を噂で聞いた小浜藩主は大変感心し、与七へ米数俵を与えたという物語です。
現在でも下ノ町の街道沿いには、与七の志を称えた小さな石碑が佇んでいます。