愛知県名古屋市中村区にある「豊國神社」(豊国神社)は、農民の家に生まれながら数々の功績を挙げ、ついには天下人にまで登りつめた三英傑のひとり「豊臣秀吉」を主祭神とする神社。豊臣秀吉は、当時としては珍しく「寧々」(ねね)と恋愛結婚をしたことや、織田信長の姪で浅井長政の娘「茶々」(ちゃちゃ:淀殿[よどどの])を側室として迎え入れたことなど、女性関係の逸話が多いことでも有名です。
今回は、豊臣秀吉ゆかりの豊國神社(豊国神社)と、「加藤清正」を祀る熊本県熊本市「加藤神社」の意外な関係、そしてご縁を結びたい歴女必見!「常泉寺」(じょうせんじ)の「むすびの輪」などをご紹介します。
豊臣秀吉を主祭神として祀る「豊國神社」(豊国神社)は全国各地にありますが、愛知県名古屋市の豊國神社(豊国神社)は、その中でも豊臣秀吉の生誕地にあたる場所に点在。
本神社は、戦国一の大出世を果たした豊臣秀吉にちなんで、出世開運や仕事成就の他、茶道や「墨俣の一夜城」などの建設に関する逸話から文化の神としても親しまれ、ご利益を授かるために歴女をはじめ日々多くの参拝者が訪れています。
豊國神社(豊国神社)が創建されたのは、1885年(明治18年)。地元の有志が、当時の県令(県知事)「国定廉平」(くにさだれんぺい)にかけあって「豊公遺跡保存会」を設立し、創祀に至りました。
その後、1901年(明治34年)に愛知県の所管となり、周辺は「中村公園」として整備されます。
豊國神社(豊国神社)の御朱印は数種類あり、豊臣秀吉の桐紋をあしらった通常の御朱印と、季節によって台紙の色が変わる「季節の御朱印」以外にも、特別な日限定で配布される御朱印が存在。
豊臣秀吉の生誕480年の「太閤祭り」のときには「太閤祭限定御朱印帳」が頒布された他、2019年(平成31年・令和元年)には、新元号「令和」の施行と新しい天皇陛下の即位に合わせて新調される三の鳥居の材料「ひのき」を使った木製御朱印帳も頒布されました。
豊臣秀吉の月命日である毎月18日には、紺色の和紙に金の文字で書かれた限定の御朱印が用意され、豊臣秀吉の命日「8月18日」には、金箔が貼られた御朱印が用意されます。
また、2016年(平成28年)に起きた熊本地震の際には、熊本県熊本市の「加藤神社」を支援するための御朱印「清正公社」が用意されました。
加藤神社は、豊臣秀吉と親戚関係にあった有力武将「加藤清正」を主祭神とする神社で、豊國神社(豊国神社)内にも加藤清正の摂社があり、2つの神社はあるご縁で繋がっているのです。
1596年(慶長元年)、山城国伏見(現在の京都府京都市伏見区)を襲った「慶長伏見地震」の際に、伏見城で被災した豊臣秀吉のもとへ最初に駆け付けたのが加藤清正だった、という逸話があります。
この逸話から約420年経ち、加藤清正ゆかりの加藤神社へ恩返しができたことを、豊國神社(豊国神社)の近藤宮司は語り、加藤神社への支援を長期的に続けると誓いました。
中村公園は、本園を中心に東園、西園に分かれ、「関白池」、「太閤池」、「ひょうたん池」を有する純日本風回遊式林泉公園です。
園内の「ほまれの広場」には、豊臣秀吉が晩年に開いた「醍醐の花見」で知られる京都「醍醐寺」のしだれ桜のクローン桜「太閤しだれ桜」が植樹されています。醍醐の花見は、寧々や茶々など豊臣秀吉の近親者をはじめ、「前田利家」の妻である「まつ」などの諸大名や、その配下の女房、女中など、女性ばかり約1,300名を集めたお花見として有名。
なお、太閤しだれ桜は豊國神社(豊国神社)境内や、熊本の加藤神社にも植樹されています。
中村公園では、毎年4月に「太閤花見茶会」を開催。豊國神社(豊国神社)の北西にある桐蔭茶席で、呈茶や長唄、琴の演奏が行なわれる他、広場には屋台が並び、賑わいを見せます。
太閤花見茶会では、歴女から絶大な人気を集める「名古屋おもてなし武将隊」も登場。主に名古屋城を拠点に活躍している武将隊で、なんと言ってもイケメン揃い。武将隊のパフォーマンスと、太閤しだれ桜に酔いしれてみてはいかがでしょう。
1967年(昭和42年)に創立された「名古屋市秀吉清正記念館」は、中村公園の敷地内にある資料館で、愛知県名古屋市瑞穂区にある「名古屋市博物館」の分館。
地元・名古屋市中村区出身の豊臣秀吉と加藤清正に関する資料を収蔵展示しています。
館内では、豊臣秀吉が織田信長に仕えた頃から「大坂冬の陣・夏の陣」を経て豊臣氏が滅亡するまでの波乱に満ちた生涯を、館蔵品やビデオ展示などで紹介。
また、豊臣秀吉が着用したと言われる「色々縅二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)や、「狩野随川邦信」(かのうずいせんくにのぶ)筆の「豊臣秀吉画像」の他、豊臣秀吉没後に尼となった「高台院」(こうだいいん:寧々の院号)の肖像画、加藤清正画像など貴重な史料を展示。
他には、豊臣秀吉が九州攻めの際に「西村重就」(にしむらしげなり)に下賜した「馬藺後立兜」(ばりんうしろだてかぶと)や、加藤清正が所用していた「蛇目長烏帽子形兜」(じゃのめもんながえぼしなりかぶと)などが複製品ではありますが、系統立てて展示してあるため、豊臣秀吉と加藤清正の戦歴や生涯が分かりやすく解説してあります。
中村公園一帯では、毎年5月に「太閤まつり」を開催。当日は、大鳥居からの参道が交通規制され、各町内から神輿や踊りの行列が繰り出し、多数の屋台が出店します。
お祭りの見所は「稚児行列」。豊臣秀吉にあやかって出世や開運、健やかな成長を願い、「出世稚児行列」として多くの子供が集まって練り歩きます。
また、子供だけではなく、「千成瓢簞神輿」という派手な神輿を大人が担いで練り歩く祭事も見物です。
参道では、毎月9のつく日(9日、19日、29日)の9~15時頃まで、「九の市」という朝市が開催されています。
近年は「九の市 青年部」の取り組みで、野菜や鮮魚、古美術品などの出店だけではなく、近隣の飲食店や雑貨店と協力して、無添加の手作りパンや和雑貨など、若年層も興味を持ちやすい商品を販売するブースも登場。
3世代で楽しめる朝市なので、家族と連れ立って出かけるのもおすすめです。
「妙行寺」(みょうぎょうじ)は、1610年(慶長15年)に徳川家康の命で名古屋城を築城する際、余った材料を用いて再建された日蓮宗の寺院。
豊國神社(豊国神社)のすぐ東にあり、加藤清正の先祖と両親の菩薩寺です。
本寺院は、豊臣秀吉子飼いの家臣・加藤清正の生誕地に建てられています。加藤清正は、1562年(永禄5年)、中村で生まれ、12歳から小姓として豊臣秀吉に仕えた武将。
豊臣秀吉にしたがって各地を転戦し、「賤ヶ岳の戦い」では「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられる武功を挙げました。「朝鮮出兵」の際には、虎退治をしたという逸話を持ち、肥後熊本藩の初代藩主だったことから、熊本では現在も「清正公」(せいしょこ)さんと呼ばれ親しまれています。
また、築城の名手としても知られており、熊本城や江戸城などの改修、築城に携わりました。
ちなみに、加藤清正は日蓮宗の寺院を多く創設したことでも有名。合戦だけではなく、政治の面でも手腕を発揮した加藤清正は、歴女が心惹かれる文武両道の勇将だったのです。
妙行寺境内には、1960年(昭和35年)に、加藤清正の没後350年を記念して建てられた虎に座る加藤清正像があります。
常泉寺(じょうせんじ)は、妙行寺の北側に位置する、「太閤山」と号する日蓮宗の寺院。
1606年(慶長11年)、豊国大明神の廟堂として、加藤清正を開基に創建されたため、開祖である日蓮の銅像ではなく豊臣秀吉の銅像が建てられました。
境内には、「秀吉公産湯の井戸」が残されており、この井戸は清水が豊かに湧き出る珍しい井戸だったことから、寺名の由来になったと言われています。
なお、昭和40年代の開発工事に伴う地形の変動により、この井戸は一時的に涸れてしまいました。しかし、平成時代に再び清水が湧き出すように試みた結果、成功した経緯があります。
また、豊臣秀吉が11歳の頃に植えたと言われる柊(ひいらぎ)の木も有名。柊は、邪鬼を除ける縁起の良い樹木として古くから信じられていました。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原征伐から戻る際にこの地へ立ち寄り、そのときに見付けたのが境内にある柊で、折れないように竹を立て添えたと言われています。
境内にある石碑「むすびの輪」は、縁結びに効力を持つと言われる縁起物の石碑。「むすび」とは、糸により締めくくることで、頼りや付き合いなどのご縁を意味する言葉です。
むすびの輪と彫られた石の柱の上部と下部には、回転する石の輪が取り付けられており、上の石の輪は「御仏の意思」を示し、下の石の輪は「参拝者の思い」を示しています。
どちらの石の輪にも、黄色や緑などの色が付いたテープが等間隔に貼られており、最初に下の輪を回し、次に上の輪を回したときに同じ色のテープが揃えば願いが叶うと言われているのです。
豊臣秀吉は、農民の出身であるためにはじめは家臣を持っていませんでしたが、その生涯で多くの有力武将を従わせました。歴女のみなさんも、豊臣秀吉のむすびの力を借りて、良縁祈願をしてみてはいかがでしょうか。