偉人を祭った神社

徳川家康を祀る日光東照宮
/ホームメイト

徳川家康を祀る日光東照宮 徳川家康を祀る日光東照宮
文字サイズ

「徳川家康」は、「応仁の乱」(おうにんのらん)以来、150年近く続いた戦国時代に終止符を打ち、「江戸幕府」の初代将軍として、約260年に及ぶ平和な時代の礎を築きました。三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の小大名から、武勇と知略で天下人となり、「織田信長」、「豊臣秀吉」と並ぶ「戦国三英傑」と称され、歴女のみならず幅広い層に人気のある武将です。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して食らうは 徳の川」と、徳川家康の天下取りを揶揄した狂歌もありますが、幼少期には織田家、その後19歳まで今川家の人質として過ごし、戦国大名となってからも領内の平定や隣国の脅威など、苦労を乗り越えて上り詰めていきました。そして、死後は「東照大権現」(とうしょうだいごんげん)の神号を授けられ、絢爛豪華な「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)に祀られています。

戦国三英傑戦国三英傑
戦国時代の三英傑、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康についてご紹介します。

日光山内の中心・日光東照宮

世界遺産となった二社一寺

華厳の滝」(けごんのたき)のある「中禅寺湖」(ちゅうぜんじこ)や奥日光など、豊かな自然が広がり、日光山内をはじめとする恵まれた観光資源があることから、栃木県日光市は、歴女に人気が高いのはもちろん、海外でも観光スポットとして知られています。明治時代に外国人向けの旅館がオープンすると、西洋料理店やベーカリーなどもでき、国際的な避暑地となりました。

その中心となる「日光東照宮」と「日光山輪王寺」(にっこうさんりんのうじ)、「日光二荒山神社」(にっこうふたらさんじんじゃ)を合わせた二社一寺(にしゃいちじ)は、周辺の山林と合わせて世界遺産に登録され、近年では海外からの観光客も増加。2017年(平成29年)の日光市の外国人宿泊者数が100,000人を超えています。

日光山輪王寺

日光山輪王寺

日光山輪王寺

日光山輪王寺は、766年(天平神護2年)に「勝道上人」(しょうどうしょうにん)建立の寺院です。

平安時代には征夷大将軍「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)や真言宗の開祖「弘法大師空海」(こうぼうだいしくうかい)が来山したと伝わります。鎌倉時代には、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」が寄進を行い、厚く信仰しました。

また、江戸時代の1645年(正保2年)には、江戸幕府第3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が本堂「三仏堂」(さんぶつどう)を建て替え、日光山輪王寺の本尊である阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音(ばとうかんのん)の3体の大仏(高さ7.5m)を納めています。

この三仏堂と隣り合う日本庭園「逍遥園」(しょうようえん)は、江戸時代初期に作庭された池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)で、四季の花々や巨石を配した石組みを見られる静かな庭園です。

日光二荒山神社

日光二荒山神社

日光二荒山神社

日光二荒山神社は、日光山輪王寺と同じく勝道上人が開きました。

二荒山(男体山)をご神体として祀る山岳信仰の霊場で、古くから下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)で最も格の高い神社、下野国一之宮(いちのみや)として尊ばれています。

江戸時代の1619年(元和5年)には、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が本社・社殿を造営しており、これらは日光山内に残る最古の建築です。

また、日光山内の表玄関を飾る、朱塗りの木橋「神橋」(しんきょう)は日光二荒山神社の神域に属します。かつては江戸幕府将軍しか渡れませんでしたが、現在は一般公開されており、大谷川(だいやがわ)の急流に映える朱塗りの神橋は絶好の撮影スポットです。

徳川家康の遺言と日光東照宮の創建

徳川秀忠による簡素な創建

日光東照宮は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠が1617年(元和3年)に創建しました。この前年、1616年(元和2年)に父「徳川家康」が亡くなり、その遺言「自分の遺体は駿河の久能山に葬り、一周忌を過ぎたら下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」に従ったのです。

徳川秀忠

徳川秀忠

このとき徳川秀忠が建立した日光東照宮は現在のような壮麗な建築ではなく、簡素な造りでした。これは、徳川秀忠が真面目で派手なことを好まず、自身の葬儀についても生前から質素に執り行うように指示していたほど謙虚な人物だったからだと考えられています。

この創建時の設計・施工を担ったのは、徳川家康が信頼していた大工の棟梁「中井正清」(なかいまさきよ)です。中井正清は、江戸幕府草創期に二条城(京都市中京区)、江戸城(東京都千代田区)、駿府城(静岡市葵区)、名古屋城(愛知県名古屋市)などを手がけ、徳川家康が「普請に関しては何事も中井正清次第」と一任するほど重用した名棟梁でした。

徳川家光による寛永の大造替

徳川家光

徳川家光

今日の日光東照宮の絢爛豪華な佇まいは、江戸幕府第3代将軍・徳川家光が、1636年(寛永13年)に行った大規模な建替え工事、「寛永の大造替」(かんえいのだいぞうたい)で完成した建築群です。

徳川家光は祖父の徳川家康を敬愛しており、徳川家康の21回忌のために総工費568,000両余り、現在の貨幣価値で200億円とも400億円とも言われる巨額を投じて大改築しました。

この大改築には全国から宮大工が集められ、また彫刻、漆塗、彩色、飾金具などの名工が腕をふるって、華麗な建築装飾を施したのです。現在の日光東照宮の「陽明門」(ようめいもん)や社殿などは、この大改築で造営された物で、江戸時代初期の匠の技が見られる歴史遺産として、歴女や海外からの観光客に人気があります。

日光東照宮のシンボル

社殿

日光東照宮の社殿群は、ほとんどが先述の寛永の大造替の際に建て替えられた建築です。その中心である「御本社」(ごほんしゃ)は、本殿・石の間・拝殿からなり、本殿は御神体を祀る神聖な場所であるため非公開ですが、拝殿と石の間では室内外のおびただしい装飾を観ることができます。その徹底した装飾は、天井や壁を精巧な彫刻や絵画で埋め尽くし、梁や柱の隅々にまで地紋が彫られているほどです。

なお、この日光東照宮の御本社のように、神聖な本殿と人が参拝できる拝殿を石の間でつなぐ建築様式を「権現造」(ごんげんづくり)と言い、この名称は、徳川家康が没後に贈られた号「東照大権現」にちなんでいます。

社殿に見る動物 三猿 眠り猫 雀

社殿には、様々な動物の彫刻が配されており、「動物探し」は日光東照宮参拝の楽しみのひとつです。そのひとつ「見ざる・言わざる・聞かざる」で知られる「三猿」は、猿は馬を守ると信じられてきたことから、神馬をつなぐ「神厩舎」(しんきゅうしゃ)にあります。

また、伝説的な彫刻職人「左甚五郎」(ひだりじんごろう)の作と伝承のある「眠り猫」は、徳川家康の墓所がある「奥社」(おくしゃ)への参道の入り口「東廻廊潜門」(ひがしかいろうくぐりもん)で眠っているのです。この眠り猫の裏側には、2羽の雀が戯れている彫刻があり、2つの彫刻は一対で、猫が雀を狙わない、つまり徳川家康がもたらした平和な世を意味しているとも言われています。

神厩舎にある「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻も有名

神厩舎にある「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻

陽明門の別名・日暮門の由来は?

陽明門は、御本社の門であり、日光東照宮のシンボル的な存在です。陽明門を覆いつくす極彩色の彫刻は、龍や麒麟(きりん)、唐獅子などの神獣や、鯉、鳥、牡丹などの動植物、中国の偉人など500余り。あまりの美しさに、日が暮れるのも忘れて見惚れてしまうことから、「日暮門」(ひぐらしのもん)の別名があります。

魔除けの逆柱

魔除けの逆柱

また、陽明門の12本の柱には「グリ紋」という渦巻き模様が施されていますが、1本だけグリ紋が逆さまです。

これは「魔除けの逆柱」と呼ばれ、「満つれば欠ける、世の習い」のことわざから、陽明門がいつまでも残るように願い、あえて未完成にしたのだと伝えられています。

訪れた際に、魔除けの逆柱を探し当てるのも日光東照宮参拝の楽しみのひとつです。

日光東照宮にある国宝の日本刀

太刀 銘 助真(附:打刀拵)(日光助真)

日光助真」(にっこうすけざね)は、鎌倉時代に活躍した名工「助真」(すけざね)が作刀した太刀です。1609年(慶長14年)、徳川家康の十男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)が、「加藤清正」の娘と婚約した際に、加藤清正が徳川家康に献上。徳川家康の没後は、日光東照宮に納められました。

この太刀を打った助真は、備前国(現在の岡山県東南部)の「福岡一文字派」に属し、この一派の特徴は個性的な刃文(はもん:刀身に見られる白い波のような模様)です。

なかでも助真は、華麗な丁子乱(ちょうじみだれ:丁子という植物の蕾が重なり合ったような刃文)を焼くことで知られています。この太刀の刃文は、表が高低差のある「大丁子乱」(おおちょうじみだれ)、裏側の大丁子乱にはあまり高低差がなく、助真らしい派手で華やかな刃文です。

日光助真
日光助真
助真
鑑定区分
国宝
刃長
71.2
所蔵・伝来
加藤清正 →
徳川家康 →
日光東照宮

太刀 銘 国宗(附:糸巻太刀拵)

太刀 銘 国宗」(たち めい くにむね)は、「池田輝政」(いけだてるまさ)から徳川家康に贈られ、のちに日光東照宮に神宝として伝えられました。

作刀した「備前三郎国宗」(びぜんさぶろうくにむね)は、備前伝(現在の岡山県で栄えた刀工の一派)の刀工でしたが、鎌倉幕府第5代執権「北条時頼」(ほうじょうときより)に招かれて鎌倉に移住し、相州伝(現在の神奈川県で始まった作刀の一派)の礎を築いたと言われる人物です。

この太刀は、身幅(みはば)の広さに対して、鋒/切先(きっさき:刀剣の先端)が短く詰まった猪首鋒/猪首切先(いくびきっさき)で、手元あたりの反り(そり)が最も強い腰反り(こしぞり)。地鉄(じがね:刃文と、刀身の山高くなっている稜線・鎬筋[しのぎすじ]の間の部分に現れる肌模様)は、木材の板目のような文様の「板目肌」(いためはだ)に、「地沸」(じにえ)と呼ばれる、輝く微粒子が現れています。

刃文は丁子乱で、そこに現れる粒子、(にえ)や(におい)が鋒/切先に向かって伸び、また、蛙子(かわずこ)と呼ばれる、おたまじゃくしの形に似た乱れが交じるなど、見どころの多い大作です。

太刀 銘 国宗(日光東照宮所蔵)
太刀 銘 国宗(日光東照宮所蔵)
国宗
鑑定区分
国宝
刃長
72.6
所蔵・伝来
池田輝政 →
徳川家康 →
日光東照宮

日光東照宮のパワースポット

東照宮を中心とした日光は、社寺全体が大きなパワースポット。歴女だけでなく、女性人気の高いスポットです。なかでも、特に強いパワーがあるとされる3つのポイントを紹介しましょう。

北辰の道

「北辰の道」(ほくしんのみち)とは、北極星へ向かう道という意味です。不動の北極星は、古代中国の思想で宇宙の中心である天帝に例えられ、日本でも陰陽道などにおいて、大きな力を持つと考えられてきました。

これを踏まえて、日光東照宮は陽明門と二の鳥居である「唐銅鳥居」(からかねのとりい)を結ぶラインの上空に北極星がくるように造営されたと言われており、このラインは北辰の道と呼ばれているのです。

とりわけパワーが集中すると言われるのが「北辰の道の起点」とされるポイントで、これは唐銅鳥居と御水舎(おみずや)の間、唐銅鳥居の中に陽明門がすっぽり収まって観えるあたりと言われています。表示がないため、知らなければ通り過ぎてしまうところですが、歴女なら立ち止まってみたいスポットです。

奥宮

日光東照宮 奥社宝塔

日光東照宮 奥社宝塔

「奥宮」(おくみや)は、東照大権現の霊廟、つまり徳川家康のお墓があるエリアです。本殿の裏側にあり、日光東照宮のパワーの源とされています。

唐門や拝殿を正面にみて右手側、眠り猫のある東廻廊の坂下門を通って207段の石段を登った先にあるのが、拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・宝塔。この奥宮へ続く道も、「龍道」と呼ばれるパワーの通り道です。

そして、金・銀・銅の合金で制作された宝塔が徳川家康のお墓で、周囲をぐるりと回ることができます。宝塔の前には鶴と亀の像があるのですが、童謡「かごめかごめ」に出てくる鶴と亀はこれを表しているという説があり、徳川の末永い治世を祈るものだとか、埋蔵金のありかを暗示しているという「都市伝説」も。こうした様々な伝説を検証してみるのも楽しいかもしれません。

宝塔の脇には、樹齢約600年の「叶杉」(かなえすぎ)があり、ほこらに向かって願いごとを唱えると叶うと伝えられています。こちらでは御霊分けとして「叶鈴」(かなえすず)のお守りも授与していただけるので、歴女ならずとも要チェックです。

上神道

「上神道」(かみしんみち)は、日光東照宮の表門を出て、五重塔の手前を右に行く日光二荒山神社へ続く参道で、ここもパワーの集まる龍道とされています。

上神道は200mほどあり、道のほとりに並ぶ石灯篭は、1966年(昭和41年)の「東照宮350年祭記念」を祝って奉納されました。この神聖な道を、日光東照宮から日光二荒山神社に向かって歩くと、より強いパワーを授かれると言われており、日光山内を巡る際には、日光山輪王寺から日光東照宮、日光二荒山神社という順番がおすすめです。

大河ドラマ歴史年表(歴代別/時代別)
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
刀剣ワールド どうする家康
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

徳川家康を祀る日光東照宮
SNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「偉人を祭った神社」の記事を読む


織田信長を祀る建勲神社

織田信長を祀る建勲神社
尾張の守護代だった織田氏の一族に生まれ、「天下布武」の旗印のもと天下統一を目指してまい進した「織田信長」。織田信長は苛烈な性格で知られていますが、戦においても政治においても、既存の価値観にとらわれない革新的な考えの持ち主でもありました。ドラマチックな生涯とも相まって、歴女にも人気が高い戦国武将です。 「本能寺の変」によって志半ばでこの世を去った織田信長ですが、その亡骸が見付からなかったことから、織田信長の墓は各地に存在。明治になると、政府によって織田信長を祀る「建織田社」(たけしおりたのやしろ)が建立され、のちに「建勲神社」(たけいさおじんじゃ)の社号が下賜されました。

織田信長を祀る建勲神社

伊達政宗を祀る青葉神社

伊達政宗を祀る青葉神社
「伊達政宗」(だてまさむね)と言えば、独眼竜の異名で知られる戦国時代の大名です。戦国の世に名を馳せ、「豊臣秀吉」や「徳川家康」に仕えながら東北の覇者となったことで知られる伊達政宗は、戦国武将としてのたくましさに加え、隻眼というミステリアスな風貌を併せ持っていたことから、現代でも絶大な人気を誇っています。伊達政宗は、近年の歴女ブームを牽引する中心的人物と言っても過言ではありません。そんな伊達政宗ゆかりの地として名高い宮城県仙台市は、伊達政宗にまつわる神社仏閣が多く存在します。

伊達政宗を祀る青葉神社

楠木正成を祀る湊川神社

楠木正成を祀る湊川神社
兵庫県神戸市にある「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)は、鎌倉幕府を滅亡させ、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に忠義を尽くして戦い果てた武将、「楠木正成」(くすのきまさしげ)を祀った神社です。南北朝時代を代表する英雄として語られることの多い彼は、猛将でありながら戦術家としても名高く、「南北朝一の知将」とも称されてきました。 時代を超えて多くの偉人達に影響を与え、後世に語り継がれてきた楠木正成は、歴女にとって興味深い存在です。地元では「楠公さん」(なんこうさん)の愛称で親しまれている湊川神社が、どのような歴史的背景で創建されたのか、見どころと合わせてご紹介します。

楠木正成を祀る湊川神社

武田信玄を祀る武田神社

武田信玄を祀る武田神社
「甲斐の虎」(かいのとら)の異名を持ち、勇猛果敢な騎馬隊を率いて「徳川家康」や「上杉謙信」にも怖れられた戦国時代きっての名将「武田信玄」。恰幅のいい肖像画が有名で、猛々しく戦うイメージが強い一方、法律の制定や当時としては珍しい合議制政治の導入など、内政においても手腕を発揮したことで知られ、高い人気を誇る武将です。 また「清和源氏」(せいわげんじ)を祖とする名門「甲斐源氏」の流れをくみ、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)や室町幕府の足利将軍家とも血縁関係にあったこと、さらには「川中島の戦い」で鎬を削った上杉謙信とのライバル関係など、物語性の高い武将であることも歴女心をくすぐるところ。 そんな武田信玄を祭神として祀る「武田神社」は、武田信玄が本拠地とした山梨県甲府市に鎮座しています。

武田信玄を祀る武田神社

前田利家と妻まつを祀る尾山神社

前田利家と妻まつを祀る尾山神社
「前田利家」は、「織田信長」や「豊臣秀吉」のもとで武功を挙げ、戦国の世にその名を轟かせた名将です。当時では珍しい182cmの高身長で容姿端麗だったと言われている前田利家は、歴女人気が高い武将のひとり。また、前田利家が女性ファンの心を掴む理由に、正室「芳春院」(ほうしゅんいん)こと通称「まつ」との夫婦愛も挙げられます。 2002年(平成14年)には、大河ドラマでも2人の夫婦愛が描かれたことから、共に認知度が高くなりました。そして、加賀藩祖として前田利家が礎を築いた石川県金沢市には、前田利家とまつを祭神として祀る「尾山神社」(おやまじんじゃ)があります。

前田利家と妻まつを祀る尾山神社

吉田松陰を祀る松陰神社

吉田松陰を祀る松陰神社
数多くの戦国武将が活躍した戦国時代。そして、新しい時代に向けて多くの志士が歴史に名を残した幕末。大きな転換期となったこの2つの時代は、日本史のなかでも圧倒的な熱情と輝きを放っています。昨今の歴女ブームを語る上でも、戦国武将と幕末維新の志士達は欠かせない存在。 今回は、激動の幕末を駆け抜けた偉大な思想家「吉田松陰」(よしだしょういん)と共に、吉田松陰を祭神とする2つの「松陰神社」(しょういんじんじゃ)についてご紹介します。

吉田松陰を祀る松陰神社

上杉謙信を祀る上杉神社

上杉謙信を祀る上杉神社
2017年(平成29年)に、「続日本100名城」にも選ばれた山形県の米沢城跡。桜の名所としても知られる城跡には、熱狂的な歴女ファンが多い「上杉謙信」(うえすぎけんしん)を祭神として祭る「上杉神社」が鎮座しています。 戦国時代に越後国(えちごのくに:現在の新潟県)を統一し、米沢藩上杉家の礎を築いた上杉謙信。「軍神」と称され、「義」を重んじる名将として語られてきました。 ここでは、上杉謙信ゆかりの聖地であり、米沢市の観光名所でもある上杉神社についてご紹介します。 上杉神社に関するYouTube動画 米沢上杉まつり 戦国武将「上杉謙信」

上杉謙信を祀る上杉神社

豊臣秀吉を祀る豊国神社

豊臣秀吉を祀る豊国神社
愛知県名古屋市中村区にある「豊國神社」(豊国神社)は、農民の家に生まれながら数々の功績を挙げ、ついには天下人にまで登りつめた三英傑のひとり「豊臣秀吉」を主祭神とする神社。豊臣秀吉は、当時としては珍しく「寧々」(ねね)と恋愛結婚をしたことや、織田信長の姪で浅井長政の娘「茶々」(ちゃちゃ:淀殿[よどどの])を側室として迎え入れたことなど、女性関係の逸話が多いことでも有名です。 今回は、豊臣秀吉ゆかりの豊國神社(豊国神社)と、「加藤清正」を祀る熊本県熊本市「加藤神社」の意外な関係、そしてご縁を結びたい歴女必見!「常泉寺」(じょうせんじ)の「むすびの輪」などをご紹介します。

豊臣秀吉を祀る豊国神社

注目ワード
注目ワード