偉人を祭った神社

武田信玄を祀る武田神社
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武田信玄を祀る武田神社 武田信玄を祀る武田神社
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「甲斐の虎」(かいのとら)の異名を持ち、勇猛果敢な騎馬隊を率いて「徳川家康」や「上杉謙信」にも怖れられた戦国時代きっての名将「武田信玄」。恰幅のいい肖像画が有名で、猛々しく戦うイメージが強い一方、法律の制定や当時としては珍しい合議制政治の導入など、内政においても手腕を発揮したことで知られ、高い人気を誇る武将です。
また「清和源氏」(せいわげんじ)を祖とする名門「甲斐源氏」の流れをくみ、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)や室町幕府の足利将軍家とも血縁関係にあったこと、さらには「川中島の戦い」で鎬を削った上杉謙信とのライバル関係など、物語性の高い武将であることも歴女心をくすぐるところ。
そんな武田信玄を祭神として祀る「武田神社」は、武田信玄が本拠地とした山梨県甲府市に鎮座しています。

武田神社の鎮座する甲府は人気の観光地

山梨県甲府市は、観光農園やワイナリーが多く、歴史的観光資源にも恵まれ、国の特別名勝である「御岳昇仙峡」(おんたけしょうせんきょう)や「武田信玄」ゆかりの「湯村温泉郷」、「積翠寺温泉郷」(せきすいじおんせんきょう)などがあり、「太宰治」(だざいおさむ)が新婚時代をすごしたゆかりの地としても人気です。

なかでも山梨県中央部の甲府盆地にあり、国の史跡に指定されている「武田神社」は、観光名所となっています。

武田信玄は戦の強さで名を馳せ、甲斐国内の政治でも、「信玄堤」(しんげんつつみ)の造営や「度量衡」(どりょうこう)の統一などを行なったため、武田神社は勝負事へのご利益の他に、産業や経済の神としても信仰を集めているのです。

武田家ゆかりの躑躅ヶ崎館跡に建つ武田神社

武田神社

武田神社

武田神社があるのは、南北に長い甲府市の中央あたり、甲府盆地の北縁。

1519年(永正16年)に、武田信玄の父「武田信虎」(たけだのぶとら)によって居館が築かれ、「躑躅ヶ崎館」(つつじがさきやかた)として武田信虎、武田信玄、「武田勝頼」(たけだかつより)の3代、63年に亘って国政を執った場所です。

武田氏の滅亡後、躑躅ヶ崎館から南へ3kmほどの場所に、新たに「甲府城」が築城されて館は破却されますが、「古城」や「御屋形跡」と呼ばれて名所のひとつとなりました。

明治時代に入り、1880年(明治13年)に「明治天皇」の東山道巡幸が行なわれた際、武田信玄ゆかりの社寺の調査・保存のための保存金が下賜されます。武田信玄を祀る神社の建立が模索されますが、費用の大きさから反対があって棚上げとなり、古城地を「県立躑躅ヶ崎公園」としました。

1904年(明治37年)の「日露戦争」ののち、武神や軍神を祀ることが奨励されたこともあり、戦上手として知られる武田信玄を祀る神社建立の熱が高まっていきます。

1915年(大正4年)、「大正天皇」の即位に際して、武田信玄に従三位が追贈されたことを契機に、山梨県知事を総裁とした官民一体の「武田神社奉建会」が設立。1919年(大正8年)、武田氏の遺構である躑躅ヶ崎館の跡に創建されることになりました。

躑躅ヶ崎館跡は、「武田氏館」とも呼ばれ、日本100名城のひとつにも選定されています。武田信玄を祭神とする神社へ参拝するのと同時に、武田氏の遺構に触れて歴史を感じることができるというのは、歴女にとっては嬉しいポイントです。

今も観ることができる武田信玄を偲ぶ遺構

武田神社と神橋

武田神社と神橋

武田神社は、武田家の居館の跡に建てられたため、堀や土塁、石垣など、様々な遺構が残っています。JR甲府駅方面から武田神社へ向かうと参道の手前にまず見えるのが、神橋(しんきょう)がかかった堀。この堀は躑躅ヶ崎館時代に作られ、現在も境内を囲むように巡っています。

神橋を渡った先の参道と堀沿いには桜が植えられており、甲府駅から神社まで続く桜並木と合わせて名所となっているのです。

神社の西側、西曲輪(にしぐるわ)のあった場所には、当時の土塁や石積みが残っています。西曲輪は、1551年(天文20年)に、武田信玄の嫡男だった「武田義信」(たけだよしのぶ)と「今川義元」(いまがわよしもと)の娘との婚礼に伴って造営されました。

建物は残っていませんが、「お屋形さまの散歩道」として整備された道を歩くと、しっかりとした土塁や石積みを観ることができます。南北には方形の空間を備えた「虎口」(こぐち)と呼ばれる出入口も残っており、歴女の皆さんなら、戦国時代の武家館に残る面影を感じられるのではないしょうか。

また、武田神社の東側には躑躅ヶ崎館の入口だった旧大手門があり、石塁の解体工事などがなされたあと、現在は「武田氏館跡大手門東史跡公園」として整備されています。

武田家ゆかりの遺構としては、武田神社から車で5分ほどの場所にある「要害山城」(ようがいやまじょう)も観ておきたいところです。要害山城は、武田信虎が躑躅ヶ崎館を築いた翌年に、いざと言うときに逃げ込める避難場所として築城されました。主郭(しゅかく)に至る通路や虎口、見張り台などの遺構や石垣などが残っており、中世豪族の居住形態を示す城として、国の史跡にも指定されています。

残念ながら、郭(くるわ)は薮化しているところも多いのですが、武田信玄はここで産まれたとされており、麓には武田信玄の産湯と伝わる井戸が残る「積翠寺」(せきすいじ)もあるので、武田信玄好きの歴女は見逃せません。

歴女必見! 武田神社境内にあるパワースポット

高野山にある松の子孫 三葉の松

神橋を渡って鳥居をくぐり、武田神社の参道へ入ってすぐ左手にあるのが、「三葉の松」(さんようのまつ)です。この松は、武田信玄が亡くなったときに、信仰していた高野山にある松の種が飛来して根付いたと伝えられています。

松は通常、二葉か五葉なので、三葉は全国的にも珍しい種類です。さらに黄金色になって落葉することから、落葉を財布に入れて身に付けておくと、金運や延命長寿のご利益があるとされています。

長寿を象徴する亀石

2012年(平成24年)、創建100周年となった武田神社に、「さざれ石」が奉納されました。さざれ石は、もともと細かい石のことですが、君が代の歌詞にある、長い年月をかけて大きな塊になった石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)のことも指します。

奉納されたさざれ石の産地は、国歌発祥の地とも言われる岐阜県揖斐川町。「皇居」や「明治神宮」、「伊勢神宮」などにも約3トンの石が奉納されていますが、武田神社に奉納されたのは約4トンという巨石で、石の形から「亀石」と命名されました。

長い年月の象徴であるさざれ石が、長寿の象徴である亀の形ということで、とても縁起の良いパワーが受けられるスポットとなっています。

姫の井戸から想いを巡らせる純愛

姫の井戸

姫の井戸

武田神社の境内にはいくつかの古井戸がありますが、なかでも参道から拝殿に向かって左に行ったところにある「姫の井戸」は見逃せません。

この井戸は、武田信玄に娘が産まれた際、産湯として使用されたことから名付けられました。

武田信玄の娘と言えば、純愛の姫として人気の高い「松姫」を歴女ならご存知でしょう。

松姫は織田家との同盟のために、7歳にして、「織田信長」の息子で11歳の「織田信忠」(おだのぶただ)と婚約しました。織田信忠は、こまめに松姫に手紙や贈り物をしていましたが、武田家と織田家が袂を分かつことになり、婚約は自然と解消されてしまいます。

その後、松姫は誰とも結婚しないまま、織田家によって武田家は滅亡。松姫は、八王子に逃げ延びていたところ、織田信忠からの迎えが訪れます。

しかし、織田信忠のもとへ向かう道中、「本能寺の変」で織田信長が討たれ、織田信忠も「二条御所」で自刃したことが伝えられました。松姫は、22歳の若さで出家し、武田一族と共に織田信忠の冥福を祈ったと言います。姫の井戸は、躑躅ヶ崎館の生活の中心となった場所にあり、井戸の水は館内で茶をたてる際にも使われていました。

現在は、延命長寿や万病退散のご利益があるとされ、誰でも持ち帰ることができるので、ここを訪れる際には空のペットボトルや水筒などを持参しましょう。

また姫の井戸のすぐ奥には、「武田水琴窟」(たけだすいきんくつ)があります。「水琴窟」とは、小さな穴を開けた瓶(かめ)を逆さに地中に埋め、その空洞に水滴を落として音を反響させる仕掛けのこと。琴の音にも似た澄んだ音が地中に響きます。反響音を拾う竹筒が刺してあり、周囲がにぎやかでも聞きやすくなっているとのことです。

歴女なら観ておきたい武田信玄ゆかりの宝物

風林火山の軍旗

風林火山の軍旗

武田神社を訪れたら、武田信玄ゆかりの品々を収蔵した宝物殿は必見。なかでも「吉岡一文字」は、国の重要文化財に指定されている名刀です。

1880年(明治13年)の明治天皇の巡幸の際に、武田信玄の正室が三条家の出身だった縁から太政大臣の「三条実美」(さんじょうさねとみ)が寄進した刀剣で、武田神社創建の際に神宝となりました。

武田信玄の遺品としては、日の丸部分に金泥で詩が書かれた「信玄公軍扇」(しんげんこうぐんせん)、武田信玄の作とされる「百合蝶の図」、「蘆雁の図」(ろがんのず)や、「北条氏政」(ほうじょううじまさ)などとやり取りをした書状も観ることができます。

そして、風林火山でおなじみの軍旗「孫子の旗」も特別公開されているとのこと。風林火山とは、中国の兵法書「孫子」が出典で、武田軍がめざした行動哲学を表現した言葉です。

紺地に勇ましい書体で堂々と書かれた軍旗によって兵の士気が上がり、武田軍の勇猛さは恐れられることになったと言われています。いずれも歴史的、文化的価値はもちろんのこと、武田信玄をはじめとした当時の武士達の想いが感じられる宝物なので、歴女のみなさんはぜひ立ち寄ってみましょう。

騎馬行列・武者行列が見どころ! 例大祭と信玄公祭り

武田神社では創建以来、武田信玄の命日にあたる4月12日に、例大祭が執り行なわれています。例大祭では市内の「遊亀公園」(ゆうきこうえん)の御旅所(おたびしょ)まで御神輿(おみこし)が巡幸し、一般参加者が武田信玄に仕えた24人の名将「武田二十四将」に扮しての騎馬行列がお供します。

また、4月12日の直前の金曜日から日曜日にかけては、甲府市で「信玄公祭り」が開催。信玄公祭りは、舞鶴城公園で開催されていた桜祭りを前身としており、武田神社でも、琴や尺八の奉納演奏や御諏訪太鼓の奉納などが行なわれます。

メインとなるのは、武田信玄と武田二十四将からなる武者行列「甲州軍団出陣」です。1969年(昭和44年)に「川中島の戦い」を描いたNHKの大河ドラマ「天と地と」が放映され、武田信玄の人気が高まったことをきっかけに、翌年から行なわれるようになりました。

そして、1988年(昭和63年)にNHK大河ドラマ「武田信玄」が放映されると、国内最大級の甲冑武者祭りとして一層の盛り上がりを見せることとなります。

1995年(平成7年)からは武田信玄役、2006年(平成18年)からは翌年のNHK大河ドラマ「風林火山」の主人公「山本勘助」(やまもとかんすけ)役に、それぞれ有名タレントが起用されるようになり、より華やかになりました。現代の町並みに1,000人を超える甲冑武者が現れる様子は、歴女としては一見の価値ありです。

武田神社と併せて巡る武田信玄ゆかりの神社

武田氏の本拠地だった甲府市には、他にも武田信玄ゆかりの寺社がいくつもあります。ここでは、そのなかでも武田神社と併せて巡るのにおすすめの寺社をご紹介しましょう。

武田信玄が創建した清和源氏ゆかりの甲斐善光寺

甲斐善光寺

甲斐善光寺

甲斐善光寺」(かいぜんこうじ)は、長野県長野市にある「信州善光寺」(しんしゅうぜんこうじ)と共に、全国的にも有名な浄土宗のお寺です。

善光寺は源頼朝が庇護したことで知られ、同じ清和源氏の一族である武田信玄も、深く信仰していました。

もともとは長野盆地にあったのですが、川中島の戦いの舞台となったことで、寺宝の焼失を恐れた武田信玄が、本尊である善光寺如来や諸仏寺宝類を甲府に移転させたことが起源です。移転の際には、信州善光寺とほぼ同規模の地割りを行ないました。

残念ながら武田信玄が造営した七堂伽藍(しちどうがらん)は、1754年(宝暦4年)に火災に遭って焼失してしまいましたが、1796年(寛政8年)に再建された金堂と山門は、国の重要文化財に指定されています。

武田神社からは車で10分ほどの距離にあり、アクティブな歴女なら、甲府駅でレンタサイクルを借りて巡るのもおすすめです。

武田氏の菩提寺 恵林寺

恵林寺

恵林寺

武田神社からは少し離れますが、武田氏の菩提寺である「恵林寺」(えりんじ)にも足を運んでみましょう。

1330年(元徳2年)に、臨済宗(りんざいしゅう)の禅僧「夢窓疎石」(むそうそせき)によって開かれた名刹で、のちに武田信玄が菩提寺と定めました。明王殿に安置されている不動尊像は、武田信玄が自身の姿を模して造らせ、頭髪を漆に混ぜて胸部に塗り籠めたと言われています。

宝物館には、武田信玄所用の兜や軍配団扇、孫子の旗などが収められ、また明王殿の裏手には、普段は非公開ではありますが、武田信玄の墓所もあります。国の名勝に定められた庭園としても有名なので、ぜひ併せて参拝してみて下さい。

武田信玄を祀る武田神社
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