兵庫県神戸市にある「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)は、鎌倉幕府を滅亡させ、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に忠義を尽くして戦い果てた武将、「楠木正成」(くすのきまさしげ)を祀った神社です。南北朝時代を代表する英雄として語られることの多い彼は、猛将でありながら戦術家としても名高く、「南北朝一の知将」とも称されてきました。 時代を超えて多くの偉人達に影響を与え、後世に語り継がれてきた楠木正成は、歴女にとって興味深い存在です。地元では「楠公さん」(なんこうさん)の愛称で親しまれている湊川神社が、どのような歴史的背景で創建されたのか、見どころと合わせてご紹介します。
1336年(延元元年)、「後醍醐天皇」に反旗を翻した「足利尊氏」は、北朝の「光厳上皇」(こうごんじょうこう)の院宣(いんぜん)を賜ると、西国の武士を束ね、大軍をもって新政府軍と対立。
後醍醐天皇から「楠木正成」(くすのきまさしげ)に足利尊氏追討の勅令が下されると、圧倒的な戦力を誇る足利軍を前に、「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)で奮戦します。
この戦いに敗れた楠木正成は、弟の「楠木正季」(くすのきまさすえ)と刺し違える形で自害。南北朝時代を舞台にした軍記物語「太平記」(たいへいき)では、このとき楠木正成と弟・楠木正季の間で言葉が交わされたとされ、「七生滅賊」(しちしょうめつぞく:七度生まれ変わっても朝敵を滅ぼす)という言葉が生まれました。
この「楠公精神」(なんこうせいしん)は時代を超え、「水戸黄門」の名で知られる水戸藩2代藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)や、激動の時代を生きた幕末の志士達の心に大きな影響を与えます。
そして、朝廷に厚く忠義を尽くした楠木正成の眠る地に、1872年(明治5年)、時を超えて楠木正成を祭神とする「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)が創建されました。
水戸黄門(徳川光圀)は、隠居後に水戸学(尊王論を中核とする朱子学を中心に、国学、史学、神道を取り入れた政治思想)の基礎を形成する上で、自身が崇敬していた楠木正成の楠公精神を掲げます。
1692年(元禄5年)、水戸黄門(徳川光圀)は、時代の流れと共に荒れ果てていた、楠木正成の眠る摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区)の地を整備。「助さん」のモデルとなった人物として知られる「佐々宗淳」(さっさむねきよ)を派遣し、「嗚呼忠臣楠子之墓」(ああちゅうしんなんしのはか)という石碑を立て、立派な墓所を建立しました。
なお、石碑に刻まれた文字は水戸黄門(徳川光圀)自らが書いた物で、現在も湊川神社境内の楠木正成一族の墓所に残されており、国の文化財に指定されています。
さらに墓所には、1955年(昭和30年)に水戸黄門(徳川光圀)の功績を讃えて、彫刻家「平櫛田中」(ひらくしでんちゅう)によって建てられた銅像も、歴女として注目しておきたいポイント。
水戸黄門(徳川光圀)によってふたたび注目されるようになった楠公精神は、楠木正成の墓所を通じてその後も発展していくこととなります。
水戸黄門(徳川光圀)によって墓碑が建立されると、楠木正成の墓所には多くの墓参者が集まるようになりました。
江戸時代後期の思想家である「頼山陽」(らいさんよう)は、自身の著書「日本外史」(にほんがいし)に楠木正成のことを取り上げ、七生滅賊の精神から、日本の国の在り方が「尊王」にあるとしています。この本はベストセラーとなり、のちの「尊王攘夷運動」へ大きな影響を与えました。
幕末には、新しい日本の国づくりに携わるたくさんの志士達が参拝に訪れて、楠公精神を軸とした「勤王思想」(きんのうしそう)を掲げています。墓参者の中には、維新の志士としてお馴染みの、「吉田松陰」(よしだしょういん)、「坂本龍馬」、「高杉晋作」、「西郷隆盛」、「伊藤博文」といった面々がいました。
なかでも、吉田松陰は4度も墓所を詣でていたと言われており、彼が主宰する「松下村塾」(しょうかそんじゅく)では、楠公精神を門下生に熱く語っていたとのこと。こうして、新時代を切り拓いていく彼らに、楠木正成の精神は受け継がれていったのです。
江戸から明治へ移り変わる激動の時代に、楠公信仰がますます活発になっていくと、楠木正成の御霊を祭りたいという声が国民から上がるようになっていきました。これを受けて、1868年(明治元年)、明治天皇は楠木正成を祭神とする神社の創建を命じ、1872年(明治5年)5月24日、楠公信仰の中心地として湊川神社が創建されたのです。
湊川神社の創建には、幕末から明治にかけての思想が大きくかかわっていました。志士達の精神的な支柱にもなった湊川神社は、幕末好きな歴女の聖地巡礼にお薦めの神社なのです。
湊川神社境内の北西端には、湊川の戦いで楠木正成が殉死した場所である、「殉節地」(じゅんせつち)が史跡として残されています。
殉節地入口の門扉の向こうは、聖域のため一般公開はされていませんが、楠木正成最期の地となった歴史的舞台となれば、歴女ならばチェックしておきたい場所。
1336年(延元元年)5月25日、楠木正成は弟・楠木正季と共に七生滅賊を誓ってこの地で殉死しました。楠木正成と共に殉死した楠木正季も、配祀神として湊川神社に祀られています。
楠木正成は、最期まで後醍醐天皇をはじめ、朝廷への確固たる忠誠心をもって亡くなりました。
この場所は湊川神社の名所で、史跡として国の文化財に指定されています。緑が茂るこの神聖な殉節地は、境内の中でも特に楠木正成の強い精神が宿っている、パワースポットと言える場所。楠木正成好きの歴女にとっては、ぜひとも訪れておきたい場所です。
湊川神社の社殿は神戸空襲によって焼失してしまったため、現在の社殿は1952年(昭和27年)に再建された物で、再建当時では珍しい八棟造り(はちむねづくり)の鉄筋コンクリート造が特徴です。この社殿は神社建築において、戦後の新しい様式を代表する建造物として語られています。
本殿の左右に置かれている金色の獅子と狛犬は、水戸黄門(徳川光圀)像を制作した彫刻家・平櫛田中による作品です。2体の体内には、国家隆盛や世界平和を願う祈願文が納められているとのこと。
拝殿を進んで行くと、息を吞むほど美しい、壮大な天井画が観えてきます。この天井一面に掲げられた数々の絵画は、全国の著名画家から奉納されました。中央に位置する「大青龍」(だいせいりゅう)の天井画は、「岡倉天心」(おかくらてんしん)の門人で、新南画(なんが:中国の南宗画に由来し、江戸中~後期に興った画風)を確立した「福田眉仙」(ふくだびせん)の作品。
さらに右手4枚に位置する版画「運命」は、世界的に有名な版画家「棟方志功」(むなかたしこう)が、19世紀ドイツの哲学者である「フリードリヒ・ニーチェ」の著書「ツァラトゥストラはかく語りき」に影響を受けて制作した物と言われています。
また、拝殿の両側にある獅子と狛犬の壁画も、棟方志功の作品です。湊川神社の社殿は、日本画をはじめ、日本美術が好きな歴女にもじっくり鑑賞していただきたいスポット。境内の社務所では天井画の図録が頒布されているので、各作品が気になる方や、参拝の記念品をお探しの方にお薦めです。
1963年(昭和38年)に開館した宝物殿には、崇敬者から奉納された、楠木正成に関する様々な宝物品や資料が展示されています。
なかでも歴女として注目しておきたい宝物品は、楠木正成の着用品と伝えられる「段縅腹巻」(だんおどしはらまき)。この甲冑は、播磨国龍野藩(現在の兵庫県たつの市)で最後の藩主家となった脇坂家が、300年以上家宝として所蔵していた物で、1891年(明治24年)に湊川神社へ奉納されました。その後、1901年(明治34年)、国宝に指定。1950年(昭和25年)には重要文化財(旧国宝)に指定された、大変貴重な宝物品です。
他にも、楠木正成の真筆(しんぴつ:本当にその人自身が書いた筆跡)として、現存している唯一の楷書だと伝えられている「法華経奥書」(ほけきょうのおくがき)も所蔵されており、重要文化財に指定されています。
また宝物殿には、楠木正成をモデルとして描いた貴重な日本画の作品も所蔵。近代日本画の巨匠「横山大観」(よこやまたいかん)が、楠木正成の姿を描いた「大楠公像」(だいなんこうぞう)は、1935年(昭和10年)の「大楠公600年大祭」において湊川神社に奉納された作品です。これから朝敵を迎え撃つ覚悟が感じられるような、凛々しい楠木正成の姿が描かれました。
そして、楠木正成と後醍醐天皇の不思議な物語を描いた「沢宣嘉」(さわのぶよし)による、「御夢」(おゆめ)という日本画も、味わい深い作品のひとつ。これは、太平記で楠木正成が登場するシーンを描いた作品です。
ある夜、鎌倉幕府打倒を願う後醍醐天皇は、不思議な夢を見ます。夢の中でそびえ立つ大樹の南側にある枝の下に、立派な席が置かれていました。後醍醐天皇が「これは誰の席か」と問うと、2人の童子が現れて「今、天皇が隠れる場所はありません。あの木の陰こそ、天皇のために設けられた物なのです」と告げて、飛び去っていったのです。
夢の中でこのお告げを聞いた後醍醐天皇は、木の南から「楠」を連想し、近臣に「楠という武将はいるか」と問いました。そして、河内国(現在の大阪府東部)の金剛山麓に楠木正成という武士がいるという情報を得た後醍醐天皇は、すぐさま楠木正成を召し出したと言われています。
後醍醐天皇と楠木正成が繫がる不思議な物語を描いた御夢。ぜひ宝物殿で実物を鑑賞してみてはいかがでしょうか。この他にも、宝物殿には楠木正成の佩刀や甲冑などの刀剣・武具が約100点、工芸品や書軸、絵画が約300点収蔵されています。
これらの宝物品は、年に数回展示替えを行ないながら紹介されるので、一度来館したことがある方も、参拝の際にはぜひ足を運んでみましょう。
湊川神社では、毎年楠木正成の命日である5月25日に「楠公祭」が行なわれています。数年おきに「楠公武者行列」という行事も開催。
この楠公武者行列は、1874年(明治7年)に行なわれた神輿渡御(みこしとぎょ)で、楠木正成を大将とする騎馬武者がお供したことに始まり、創建当初から湊川神社の祭礼として歴史を重ねてきました。
1935年(昭和10年)の大楠公殉節600年祭では、明治以降の大楠公信仰の高まりと共に湊川神社への注目も全国的に広まっていたこともあり、5月24~26日の3日間に亘って開催。この大楠公殉節600年祭は、過去最高の盛り上がりを見せたと伝えられています。
また、このとき行なわれた楠公武者行列では、専門家を迎えて時代考証が綿密に行なわれ、衣装や武具などを一新して豪華絢爛な装備が忠実に再現されました。迫力ある一大行列となった楠公武者行列の様子は、当時の地元新聞にも報じられたほど。こうして湊川神社の楠公武者行列は、明治以降も神戸の人々にとって特別な行事となっていったのです。
しかし、戦後になると華々しい武者行列を開催することは難しくなり、しばらくは戦前のように一大行事として開催することができなくなっていました。
2002年(平成14年)に、鎮座130年、墓碑建立310年、社殿復興50年という節目の年を迎えた湊川神社。このめでたい年にこそ、楠公武者行列を再び開催するべきだという声が上がり、氏子だけでなく市民や企業から多大な協力を得て、楠公武者行列は復活することとなりました。
大楠公殉節600年祭以来、67年ぶりに華やかな装いで帰ってきた武者行列は、神戸市民に大きな感動を与えたと言います。この復活を機に、現在は5年ごとに行なわれている楠公武者行列。歴女ならば、一度は開催年に訪れて一大行列を体験してみましょう。
このように、楠公さんこと湊川神社は、創建時から現在に至るまで、楠木正成の威徳を偲ぶ者達や、神戸の地元住民に広く親しまれてきました。楠木正成という多彩な能力を持つ武将と同じように、湊川神社もまた、歴女にとって様々な魅力を感じられる神社なのです。