戦国時代、中国地方の覇権を握った毛利元就(もうりもとなり)と言えば、「3本の矢の教え」が有名です。「毛利両川」(もうりりょうせん)とは、この逸話に登場する毛利元就の次男、吉川元春(きっかわもとはる)と、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)のこと。この2人の苗字に入る「川」の字から、毛利両川と呼ばれています。毛利両川は、3本の矢のごとく、強い絆で毛利宗家を守りました。
毛利元就(もうりもとなり)は安芸(あき:現在の広島県)の国人領主から、中国地方全域まで領地を拡大した戦国大名です。
毛利元就は養子縁組や暗殺など、権謀術数を多用した謀将として知られています。幕末には、毛利家は長州藩藩主として、日本の歴史に多大な影響を与えました。
「3本の矢の教え」の逸話とは、こんなお話です。
晩年、床に臥せっていた毛利元就は死の間際、枕元に長男の毛利隆元(もうりたかもと)と、次男の吉川元春(きっかわもとはる)、三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)を呼びます。
まずは息子達に1本の矢を与えて、これを折ってみよと命じます。あっけなく矢が折れると、今度は3本束にした矢を折ってみよと渡しました。しかし、今度はまったく折れません。
すると毛利元就は息子達に「このように矢は1本では簡単に折れてしまうが、3本束になると簡単に折れることはない。お前達も3人力を合わせて毛利家を守っていくように」と諭しました。3人の息子達は深く納得し、これに従うことを誓うのです。
実際は、毛利元就より先に長男の毛利隆元が亡くなっているので、この逸話は「三子教訓状」(さんしきょうくんじょう:毛利元就が3人の息子に書いた文書)をもとにした後世の創作であると言われています。
しかし、毛利両川は3本の矢の教えを体現するかのように、生き残りをかけて毛利宗家を全力でサポート。
毛利隆元が1563年(永禄6年)に早世し、毛利元就も1571年(元亀2年)に死亡して以降、18歳で毛利家当主となった毛利隆元の嫡男、毛利輝元(もうりてるもと)を2人の叔父である毛利両川がサポートしながら、毛利氏は戦国時代を生き抜きます。
毛利元就の息子でありながら、吉川元春と小早川隆景の苗字が「毛利」でないのは、毛利元就の策略によるもの。
安芸の国人領主にすぎなかった毛利元就は、同じく安芸の国人領主である吉川氏・小早川氏を2人の息子に乗っ取らせることで安芸国を掌握し、領土を拡大していきました。
毛利元就の次男、吉川元春は1547年(天文16年)に藤原南家の流れを汲む名門、吉川家の当主・吉川興経(きっかわおきつね)の養子となりました。
これは吉川興経のやり方に不満を持つ吉川家家臣らに請われて行なわれたもので、毛利元就の妻が、吉川興経の叔母という関係もありました。
吉川興経は自分の命を保証し、嫡男の千法師(せんぽうし)を吉川元春の養子とし、ゆくゆくは千法師に吉川家の家督を継がせることを条件に、しぶしぶこの養子縁組を受け入れたのです。
ところが毛利元就は1550年(天文19年)に吉川興経と千法師を殺害。吉川元春を吉川家当主に据えてしまいました。
吉川元春は元服前(成人前)に毛利元就の反対を押し切って初陣を果たすなど、兄弟の中でも勇猛な武将であったようです。
また、女色に溺れぬよう、不美人と噂された熊谷信直(くまがやのぶなお)の娘を自ら娶ったというエピソードも伝わっています。
毛利元就の三男、小早川隆景は1543年(天文12年)にまず小早川家の傍流である、竹原小早川家の養子となります。
竹原小早川家の当主、小早川興景(こばやかわおきかげ)が跡取りを持たないまま「銀山城攻め」で討ち死にしたため、遠縁にある小早川隆景を当主として迎え入れたのです。
それから7年が経過した1550年(天文19年)、今度は小早川家の本家、沼田小早川家で騒動が起きます。当主の小早川繁平(こばやかわしげひら)が眼病によって盲目となったのです。当時、小早川氏や毛利氏は周防の大内義隆(おおうちよしたか)の傘下にあり、出雲の尼子氏(あまごし)と戦っていました。
盲目の小早川繁平では尼子氏の侵攻を止めることはできないと判断した大内義隆や毛利元就は、小早川繁平を尼子氏と内通した容疑で監禁し、家臣ともども殺害。そして竹原小早川家の当主となっていた小早川隆景を、沼田小早川家当主としてしまったのです。
小早川隆景は、冗談などを口にしない厳格な性格でした。甥である毛利輝元に対しても厳しく、折檻することもあったと伝わります。
本能寺の変で織田信長が死去した際、豊臣秀吉の信頼を得て、豊臣家五大老のひとりとして名を連ねています。
1555年(天文24年)に毛利元就と陶晴賢(すえはるかた)との間で「厳島の戦い」が勃発します。この戦いは厳島神社のある宮島全域が戦場となった大規模な戦いで、戦国時代の3大奇襲戦(桶狭間の戦い、川越城の戦いとの3つを指す)と呼ばれています。
当時、大内義隆の元家臣、陶晴賢は謀反を起こし、大内氏の実権を握っていました。約2万~3万と言われる大内軍に対して約4千~5千の毛利軍は圧倒的に不利な状況。そこで毛利元就は一計を案じます。「宮島に攻め込まれたら毛利は終わりだ」などといった噂を流し、その噂が陶晴賢の耳に届くよう仕向けました。
こうして、宮島に陶晴賢率いる大内軍を誘い込みます。宮島は小島であり、平地が少ないため、大軍は思うように機能しません。
そして毛利元就は暴風雨の夜、主力部隊を宮島に上陸させます。この時、小早川隆景が味方に付けた村上水軍が大いに活躍。暴風雨のなか、見事な操船で主力部隊の上陸を成功させます。陶晴賢も暴風雨のなか、毛利軍が攻めてくるとは考えてもいませんでした。
吉川元春は陸軍総帥として毛利元就とともに陸から攻め、小早川隆景は水軍総帥として海から攻撃します。水陸両面から攻めた奇襲は見事に成功しました。退路を断たれた陶晴賢は自害します。
この厳島の戦いでの勝利に弾みを付けた毛利元就は、出雲の尼子氏の討伐にも成功。中国地方のほぼ全域を手中に収めました。
1582年(天正10年)に「本能寺の変」が起きると、毛利両川も難しい選択を迫られます。
このとき、毛利軍は豊臣秀吉と「備中高松城の戦い」の最中でした。
本能寺の変の知らせを聞いた豊臣秀吉は、すぐに毛利氏と和睦を結び、明智光秀を討つために「中国大返し」を行ないます。
この際、毛利軍には織田信長の死を知らせなかったため、吉川元春は激怒し、追撃することを主張しました。
しかし毛利元就の資質をもっとも受け継ぎ、知略に秀でた小早川隆景はこれを制止。「実を取る方が良い。明智光秀が織田信長を討っても、主君殺しが長く栄えた例はない。見事に我らを騙して、仇討ちを行なう豊臣秀吉が勝利することは間違いない。ここは恩を売っておこう。織田家の混乱が収まるには数年かかるはず。その間に我らは失った領地を取り戻し、内を固めるのが先決」と吉川元春を説得しました。
さらに小早川隆景は、明智光秀討伐へ向かう豊臣秀吉軍に、毛利家の旗差物を貸与。これにより、明智軍と豊臣軍のどちらに就くか迷っていた諸侯に、毛利軍が味方していると見られ、豊臣秀吉軍には続々と味方が増えていきました。
豊臣秀吉が山崎の合戦で勝利すると、そのあとの動向を見守り、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」で豊臣秀吉の勝利が確定すると、勝ち馬に乗り、豊臣秀吉に従属することで毛利氏を守りました。