稀代の軍師と呼ばれ、豊臣秀吉がもっとも頼りにし、また恐れた男、黒田官兵衛(くろだかんべえ)。豊臣秀吉を天下人にすべく知略を巡らし数々の戦を勝利に導いたにもかかわらず、「次の天下人を狙っているのでは」と疑われ冷遇された、輝かしくも切ない激動の人生に迫ります。
1546年(天文15年)に播磨(はりま:現在の兵庫県南西部)で勢力を誇っていた小寺氏の家老、黒田職隆(くろだもとたか)のもとに生まれた黒田孝高(くろだよしたか)、通称黒田官兵衛(くろだかんべえ)。
7歳で読み書きを習い始め、幼いころから頭脳明晰、1561年(永禄4年)に小寺氏当主の小寺政職(こでらまさもと)に仕え、1562年(永禄5年)、初陣を果たします。
相手は小寺氏と対立していた浦上宗景(うらがみむねかげ)でした。この頃の黒田官兵衛は、連歌や和歌を好む風雅な人物であったようです。風雅の道を究めたいと考えていたようですが、ある僧の諌めにより、兵法や武道を学ぶようになりました。しかし風雅の道を諦めた訳ではなく、後年、戦が落ち着くと連歌を再開しています。
1567年(永禄10年)に父の跡を継いで、小寺氏の家老となりました。1575年(天正3年)になると、東に織田氏、西に毛利氏に挟まれた播磨の小寺氏は、生き残りをかけてどちらにつくか決断を迫られます。黒田官兵衛は「長篠の戦い」における織田信長の戦略を高く評価。織田氏の配下に入るよう小寺政職を説得します。
豊臣秀吉の取次で織田信長と面会した黒田官兵衛は、中国攻めを進言します。「中国を攻めるのであれば調略の上手い武将(豊臣秀吉)を播磨に派遣して下さい。私も主君、小寺政職とともに兵を率いて、殿のために戦功を立てて見せます」。織田信長は黒田官兵衛をすぐに「ただ者ではない」と見抜き、豊臣秀吉の中国攻めに加勢するよう命じました。
1577年(天正5年)、毛利氏と小寺氏の間に英賀の戦い(あがのたたかい)が勃発します。毛利一門小早川氏の武将、乃美宗勝(のみむねかつ)を総大将とした約5,000の兵が英賀の浦(現在の姫路市飾磨区にある夢前川河口付近)に上陸したのです。
当時の英賀は海と河川の交通の要衝でした。英賀の浦は黒田官兵衛が城代(じょうだい:城の管理者)であった姫路城から、2里(約8km)ほど離れた場所。毛利勢5,000に対して、黒田官兵衛が動員できる兵力は500。圧倒的な兵力差でした。
そこで黒田官兵衛は奇襲を仕掛けます。毛利勢は上陸して間もないため、長時間船に揺られていた疲れが残っており、体勢が整っていないと判断したのです。
さらに近隣の農民に沢山の旗や幟を持たせ、背後の山に待機させました。奇襲により混乱した毛利勢でしたが、なんとか体勢を整えようとします。そこへ、小寺勢の背後の山におびただしい数の旗や幟が立ち上がりました。これを見た毛利勢は小寺勢の大援軍が来たと思い戦意を喪失し、退却していきました。
この戦いにより黒田官兵衛の評価はさらに高まり、これ以後は豊臣秀吉の軍師として活躍するようになるのです。
諸説ありますが、黒田家の家宝として伝来する名刀「へし切長谷部」(へしきりはせべ)は、この織田信長との謁見の際、中国攻めの献策に対する恩賞として織田信長から下賜された物と言われています。
豊臣秀吉が中国攻めを開始すると、織田軍と毛利軍との戦いは激化していきます。
1578年(天正6年)には豊臣秀吉軍に属していた荒木村重(あらきむらしげ)が謀反を起こし、「有岡城の戦い」が勃発。荒木村重と旧知の仲だった黒田官兵衛は説得のため、単身有岡城に乗り込みますが、逆に捕えられてしまいました。
織田信長は戻らない黒田官兵衛の謀反を疑い激怒。黒田官兵衛の嫡男、松寿丸(しょうじゅまる:のちの黒田長政)の処刑を命じますが、黒田官兵衛の盟友である竹中半兵衛(たけなかはんべえ)がこれを匿いました。
そして1年後、織田勢が有岡城を落とし、ようやく救出された黒田官兵衛は足に障害を負い、全身疥癬(かいせん:ヒゼンダニの寄生によって引き起こされる皮膚感染症)だらけだったとか。しかし、その姿がかえって凄みを与え、人々からの信頼を集めることにつながったと言います。
そののち、体調を戻した黒田官兵衛は、兵糧攻め(鳥取の渇え殺し・三木の干殺し)や水攻め(備中高松城の水攻め)など多様な作戦を豊臣秀吉に献策して、次々と毛利勢の城を攻略していきました。
1582年(天正10年)6月2日、織田信長が本能寺で明智光秀に襲撃されたとき(本能寺の変)、豊臣秀吉軍は備中高松城を水攻めしていました。
豊臣秀吉は本能寺の変の知らせを聞くや、激しく動揺して泣き崩れました。そんなとき、黒田官兵衛は豊臣秀吉に「殿、天下を取る機会が訪れましたぞ」と進言したと言われています。
黒田官兵衛は織田信長の死を隠して毛利軍と素早く和睦をまとめ、京までの道中、松明や炊き出し、替え馬、渡し船など、強行軍に必要な準備をしました。そして明智光秀を討つために、備中高松から京までの約200kmをわずか10日で駆け戻りました。
この「中国大返し」成功の影にも黒田官兵衛の機転がありました。織田家配下の武将が明智光秀に味方しないように、織田信長・織田信忠親子は生きているという偽情報を流します。明智光秀は織田信長の首を見付けていなかったため、この偽情報は信憑性を増し、明智光秀に味方する者はいませんでした。
また、黒田官兵衛は毛利軍と和睦した際、毛利氏の軍旗を借り受け、これを掲げて進軍しました。これは毛利氏が豊臣秀吉に味方したと思わせるための作戦。豊臣秀吉に味方すべきか明智光秀に味方すべきか迷っている諸勢力は、この旗を見て毛利氏が豊臣秀吉に味方したと判断し、豊臣軍に参加。豊臣秀吉が京に着くころには軍列は4万人にもなりました。そして明智光秀軍1万6,000を数で上回り、「山崎の戦い」を優位にすすめることができたと言います。
織田信長亡きあと、天下統一を目指す豊臣秀吉は1590年(天正18年)、北条氏が拠点とする小田原征伐に向かいます。
北条氏が立て籠もる小田原城は難攻不落と呼ばれる堅城。過去には武田信玄や上杉謙信の軍勢を撃退しています。そこで黒田官兵衛は小田原城のそばにある石垣山の山頂に城を築き、小田原城と支城を約14万の軍勢で取り囲みました。
北条氏としては徳川家康や伊達政宗が豊臣秀吉に反旗を翻し、援軍に来ることを期待していましたが、援軍が来ることはありません。そして黒田官兵衛は戦意を喪失した北条氏の小田原城に単身で乗り込み、北条氏を説得しました。
これにより北条氏政・北条氏直(ほうじょううじまさ・ほうじょううじなお)親子は降伏し、小田原城は無血開城。豊臣秀吉との間を仲介してくれたお礼にと、北条氏政は黒田官兵衛に名刀「日光一文字」を贈ったと言います。
当初は厚い信頼関係で結ばれていた豊臣秀吉と黒田官兵衛。豊臣秀吉は自分が死んだら黒田官兵衛が次の天下人になるだろうと言ったと伝わります。しかし、豊臣秀吉はしだいに黒田官兵衛の力を恐れるようになり、武功に見合う俸禄を与えませんでした。もし黒田官兵衛が十分な石高を持てば、天下を狙うようになるだろうと心配していたようです。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、その2年後の1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」が起きます。
豊前国中津城で留守居をしていた黒田官兵衛は蓄えていた金銀を放出して、領内の百姓など、約9,000人を集めて東軍として挙兵。旧領の豊後国を奪還しようと攻めてきた西軍の大友義統(おおともよしむね)と衝突しました。
この「石垣原の戦い」(いしがきばるのたたかい)に勝利した黒田官兵衛は、さらに臼杵城(うすきじょう)や久留米城(くるめじょう)など、九州にある西軍の諸城を次々に攻め落としていきます。そして九州最後の強敵、薩摩の島津氏を攻めようとした時、徳川家康の停戦命令が下りました。このまま黒田官兵衛を勢い付かせれば脅威になると悟ったのかもしれません。
関ヶ原の戦いがもう少し長引けば、黒田官兵衛は九州を征伐し、中国地方に攻め込み、さらに天下統一を狙ったのではないかとも言われています。もしそうなっていたら、日本の歴史は今とはまったく違ったものになっていたかもしれません。