「島左近/嶋左近」(しまさこん)は石田三成配下のナンバー2で、「豊臣秀吉」が「治部少[じぶのしょう:石田三成]に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」と羨んだほどの人物。義理と人情に厚く、融通のきかない石田三成の下でしばしば口惜しい思いをしつつも、けっして見限ることなく、軍師として参謀として石田三成を支え、関ヶ原に散っていきました。
「島左近」(しまさこん)の本名は「島清興」(しまきよおき)。
1540年(天文9年)、大和(現在の奈良県)の戦国武将、筒井氏に代々仕えた島氏の家系に生まれました。
のちに主君となる「石田三成」(いしだみつなり)は1560年(永禄3年)生まれですから、親子ほども年が離れていたことになります。
1577年(天正5年)の「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)で「筒井順慶」(つついじゅんけい)が、宿敵である大和の戦国大名「松永久秀」(まつながひさひで)を自害に追い込みます。
この筒井氏の勝利の背景には、島左近と「松倉重信」(まつくらしげのぶ)が「多聞城」(たもんじょう:現在の奈良県奈良市)に攻めようとした筒井順慶に、城を築きしばらく滞在し、「織田信長」に味方をして後詰をお願いするよう助言したというできごとがありました。
そののち、筒井順慶は織田信長の配下となります。この頃島左近は、「椿井城」(つばいじょう:現在の奈良県生駒郡)の主となり、「吐田城」(はんだじょう:現在の奈良県御所市)を接収するなど、内政面から筒井順慶を支えていたようです。
そののち、筒井順慶が亡くなり、甥の「筒井定次」(つついさだつぐ)が跡を継ぎますが、酒食におぼれ政治に身が入らないありさま。そんな筒井定次と島左近はあまり相性が良くなかったようで、「豊臣秀吉」の命により筒井氏が伊賀国(現在の三重県伊賀市)へ国替えすることになると、島左近は隠遁生活を送るようになります。
島左近は筒井家を去ったあとに、「蒲生氏郷」(がもううじさと)や豊臣秀吉の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)、その息子「豊臣秀保」(とよとみひでやす)に仕えたと言われていますが長くは続かなかったようです。
石田三成と島左近の出会った時期ははっきりしませんが、1586年(天正14年)頃と考えられています。
島左近の活躍は筒井氏のもとで世に轟き、主君のいなくなった島左近にスカウトの声が多数かかるようになりました。石田三成も島左近に声をかけたひとり。
しかしすでに40代後半になっていた島左近は、もう誰に仕える気もありませんでした。他のあらゆるオファーと同じように、石田三成からの申し出も断りましたが、石田三成は諦めませんでした。「三顧の礼」(さんこのれい:目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いをすること)をもって島左近のもとに出向き、自分の禄高40,000石の半分となる20,000石を提示し、口説き落とすことに成功したのです。
主君と家臣が同じ禄高なんて前代未聞のこと。しかも一介の浪人に20,000石など、破格を通り越した待遇でした。しかし、金や領地よりも義を重んずる島左近。実際に20,000石もの禄高を受け取ることはなかったのだとか。
豊臣秀吉は、石田三成が家来を得るために破格の禄を与えたと聞いて驚きますが、その家来が島左近だと知ると、「島左近ほどの男ならば当然」と納得。島左近に菊桐紋入りの羽織を与えたと言います。
そののち、島左近という有能な右腕を手に入れた石田三成は、190,000石となり「佐和山城」(現在の滋賀県)の主となります。そして、石田三成が島左近に加増しようとすると、「もう禄は十分だから代わりに下の人々に与えて下さい」と断ります。自分が褒美を貰うよりも、兵を雇って石田三成の軍を強くして欲しいと思ってのことだったのです。
島左近は軍師としてはもちろん、石田三成の参謀として年貢収納など内政でも力を発揮し、石田三成にとって欠かせない存在となっていきました。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没すると、豊臣政権の足元はにわかに揺らぎ始めます。
跡取りとなる「豊臣秀頼」(とよとみひでより)は、このときまだ6歳。急速に力を付ける「徳川家康」を脅威に感じた島左近は、たびたび徳川家康の暗殺計画を石田三成に提案しますが、石田三成はこれを却下しました。
石田三成もまた義を重んじる男。豊臣家のためという大義名分を掲げる徳川家康を、暗殺という狡猾な手段で討ち取ることに抵抗があったようです。
しかし、島左近が心配した通り事態は悪化。徳川家康に睨みを利かせていた「前田利家」(まえだとしいえ)が亡くなると、武断派の「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)ら7将から石田三成が襲撃されかける事件が起きます。
島左近の献策で、石田三成は徳川家康の屋敷に逃げ込み九死に一生を得ますが、徳川家康は石田三成に身を引くよう諭しました。その結果、石田三成は佐和山城に蟄居することになり、「関ヶ原の戦い」へと突き進んでいきます。
関ヶ原の戦いの前日に起きた前哨戦「杭瀬川の戦い」(くいせがわのたたかい)で、島左近は奇襲攻撃をしかけて見事勝利します。勢いに乗った島左近は、さらに「島津義弘」(しまづよしひろ)、「小西行長」(こにしゆきなが)らと共に夜襲を計画しますが、またしても石田三成に却下され実行には至りませんでした。
島左近の有能ぶりは徳川家康の耳にも届き、関ヶ原の戦いの前には島左近を東軍に引き入れるべく、重臣の「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)を派遣したと言われています。
柳生宗矩の甥「柳生利厳」(やぎゅうとしとし/やぎゅうとしよし)と島左近の娘「珠」は婚姻関係にあり、柳生宗矩と島左近は気心の知れた仲。島左近は柳生宗矩に「殿[石田三成]は決断が遅くてね」とこぼしつつ「それでも裏切れないのだ」と徳川家康の誘いを断ったと言います。
この島左近と柳生宗矩との縁のおかげで、関ヶ原の戦いのあと、石田三成の庶子である「石田宗信」(いしだむねのぶ)は柳生家に保護され、生き延びることができたのです。
徳川家康を討つチャンスを2度潰されても、石田三成との関係が悪化して加藤清正や福島正則が徳川家康側に寝返っても、島左近は石田三成への忠義を貫き、勇敢に関ヶ原の戦いを戦いました。
戦開始直後は西軍有利。島左近も自ら陣頭に立って戦っていました。そののち、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の裏切りで西軍の敗北が決定的になると、島左近は東軍の「黒田長政」(くろだながまさ)軍に捨て身で突撃し、銃撃を浴びて討ち死にしました。島左近の人生は61歳で幕を閉じたのです。
その鬼気迫る姿は正視に耐えない恐ろしさだったことから、対峙した東軍の兵士達の記憶に残る島左近の姿は、人によってまったく違っていたと言います。また、島左近の強烈な姿が目に焼き付いて、時が経っても悪夢にうなされる者もいたとか。
やがて島左近は「鬼の左近」「鬼神をも欺く勇将」「日本第一の勇猛」と讃えられるようになります。歴史上の人気者には生存説が生み出されることがよくありますが、島左近もまた、関ヶ原の戦いで遺体が見付からなかったことから、様々な生存説が存在しています。多数ある生存説の一部をご紹介します。
戦国武将らしく己の信念にしたがい、乱世を駆け抜けた島左近の死の真相は、謎に包まれています。