徳川四天王や徳川三傑に数えられ、徳川家康の天下取り、最大の功労者とも言われる井伊直政(いいなおまさ)。絶世の美男子でありながら、戦での勇猛な姿は「井伊の赤鬼」とも言われたとか。その素顔と功績をたどってみましょう。
井伊直政(いいなおまさ)が生まれたのは1561年(永禄4年)。幼名を井伊虎松(いいとらまつ)と言います。父は井伊家19代当主、井伊直親(いいなおちか)。2017年に放送されたNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主役、井伊直虎(いいなおとら)は、井伊直政の養母にあたります。
井伊家は今川家に仕えていました。井伊直政の祖父にあたる井伊直盛(いいなおもり)は、桶狭間の戦いで今川義元とともに討ち死にしています。
井伊直政が1歳の時に父、井伊直親が松平元康(のちの徳川家康)との内通嫌疑をかけられて、今川氏真(いまがわうじざね)に誅殺されてしまいました。
そののち、井伊家を守るため、井伊直虎が女城主として奮闘しますが、今川家の謀略により井伊家は滅亡してしまいます。井伊家再興の期待を背負った井伊直政は、その生命を守るため三河国の鳳来寺に預けられて出家し、幼少期を過ごしました。
時を経て、1575年(天正3年)、井伊直虎は14歳になった井伊直政を徳川家康に出仕させることにします。
ある時、徳川家康が浜松城から鷹狩に出かけると、井伊直政が跪いて名乗り出たのです。徳川家康は、ひと目で井伊直政を気に入りました。そして井伊直政の出自を知ると、井伊家の再興を許し、井伊家の旧領を与え、小姓としてそばに置くことにしたとか。一説には、男色の気のない徳川家康も魅了されるほどの美少年だったと言われています。
また、かつて桶狭間の戦いのおり、徳川家康とともに先鋒を務めた井伊直盛(祖父)の親類であったこと、井伊直親(父)が徳川家康との内通を疑われて誅殺されたことを不憫に思ったため、仕官を認めたとの見方もあります。
この年、井伊直政は井伊虎松の名を徳川家康の幼名・竹千代にちなんで井伊万千代(いいまんちよ)と改めました。
井伊直政の初陣は、徳川家康の小姓となった翌年の1576年(天正4年)、徳川家康と武田勝頼(たけだかつより)が戦った「芝原の戦い」(しばはらのたたかい)です。
井伊直政は「突き掛かり戦法」という作戦で、先鋒として無心に敵陣を突き進み、おおいに活躍したと伝わります。
また、武田勝頼が徳川家康の寝所に送り込んだ間者を、井伊直政が討ち取ったとも言われています。
1582年(天正10年)、「本能寺の変」が起きたとき、徳川家康は織田信長に招かれて京都に向かうため、堺にいました。
織田信長と同盟関係にあった徳川家康は一報を聞いて取り乱し、自分も京に上り明智光秀と戦って自害すると言います。
そんな徳川家康を本多忠勝ら家臣達は、「明智光秀を討つことこそ、織田信長殿への最大の供養」とひとまず国に戻り、態勢を立て直すよう説得。明智光秀の息のかかった敵がどこにいてもおかしくない状況のなか、徳川家康は伊賀を経由して、命からがら三河国に戻りました。
この「神君伊賀越え」(しんくんいがごえ)にも、井伊直政は同行しており、徳川家康を献身的に守りました。後日、褒美に孔雀の羽で織った「孔雀尾具足陣羽織」(くじゃくおぐそくじんばおり)が与えられています。
同年、井伊直政は22歳で元服を迎え、名を井伊万千代から井伊直政に改めます。この年、長年、井伊家を守ってきた井伊直虎がこの世を去りました。
織田信長が横死したあと、織田信長の遺臣達は織田信長の後継者を決める「清洲会議」を開催しましたが、徳川家康はこの会議には参加できませんでした。
なぜなら旧武田家の領地を巡って争いが起きていたからです。それが「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)です。主に徳川家と北条家との争いでした。
井伊直政はここでも活躍します。芝原の戦いでは敵陣に突き進み、武勇を馳せた井伊直政でしたが、今度は北条家との講和の使者をつとめ、外交能力の高さを見せます。
これは幼少の頃から鳳来寺で過ごした経験に由来すると考えられます。当時の寺は現代で言う大学のような役割を果たしており、その中でも鳳来寺は最高峰であったと考えられています。
これ以後、井伊直政は合戦後の調停役などを任せられるようになりました。
天正壬午の乱が終わったあと、徳川家康は武田家の旧領地と武田家遺臣団の両方を得ることになりました。
徳川家康は武田家遺臣団を井伊直政に預けました。武田家遺臣団は武田の兵法と、武田家の猛将・山県昌景(やまがたまさかげ)の赤備えの軍装を引き継いでいました。
1584年(天正12年)、織田信長の後継を争って、豊臣秀吉と、徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)が対立します。
この「小牧・長久手の戦い」で井伊直政は初めて、赤い軍装を身に着けた部隊「井伊の赤備え」を率いて出陣しました。
井伊直政は鬼の角のような脇立(わきだて)の付いた赤い兜を被って敵陣に斬り込み、槍を振り回して、敵を蹴散らす姿がまるで鬼のようだったことから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになります。
ちなみに井伊直政は先頭を切って敵陣に突っ込むのが常であったようで「関ヶ原の合戦」や「小田原攻め」も同様の戦い方をしています。
井伊直政は関ヶ原の合戦が始まる前、西軍(石田三成側)の武将に調略(相手を自陣に寝返らせる計略)を仕掛けています。懇意にしている黒田長政(くろだながまさ)を通じて小早川秀秋(こばやかわひであき)に裏切りを約束させ、毛利軍の武将・吉川広家(きっかわひろいえ)には軍を動かさないよう、約束させました。その他、多数の西軍武将に裏切りを約束させています。
そして1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」は、井伊直政が抜け駆けして火蓋を切ったと言われています。
東軍の先鋒は福島正則(ふくしままさのり)と決まっていたにもかかわらず、井伊直政は「物見のため」と、徳川家康の四男で娘婿の松平忠吉(まつだいらただよし)の隊列を連れて前に出て、西軍の宇喜多秀家(うきたひでいえ)隊に発砲したのです。
井伊直政のこの行動の意味には、諸説あります。当時の戦において抜け駆けは厳禁。本当に物見のために霧の中を進んでいたところ、偶発的に敵に遭遇してしまったのだろうという説。
実はこの抜け駆けは徳川家康の指示であり、天下を狙う徳川家康にとって、名誉ある先鋒を直属の家臣に取らせることに意味があったのだろうという説。
福島正則は、もともと豊臣秀吉の子飼いの武将だったことや、抜け駆けという井伊直政のルール違反に対して徳川家康が処罰しなかったことなどを考えると、すべて徳川家康の計算のもとで行なわれたと考えるのが自然であるようにも思えます。
そして小早川秀秋の裏切りによって関ヶ原の合戦の大勢が決した頃、「島津の退き口」が始まります。島津義弘(しまづよしひろ)は東軍の真っ只中を正面突破すべく向かってきたのです。これを井伊直政と松平忠吉が迎え撃ちます。このときも井伊直政は家臣が追いつけないほど島津軍を追撃しましたが、銃撃を受けて落馬してしまいます。島津義弘をあと一歩のところまで追い詰めましたが、島津義弘の撤退を許すことになりました。
しかし、この関ヶ原の戦いの功績によって井伊直政は石田三成(いしだみつなり)の領地であった近江国佐和山18万石(のちの彦根藩)を与えられ、初代佐和山藩主となります。佐和山は西国を監視し、天皇の御所を守護する重要な土地であるため、徳川家康の井伊直政に対する信頼の高さがうかがえます。
井伊直政は傷の癒えぬまま、戦後処理にあたります。毛利家の取り潰しを回避し、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)の取次ぎ、手傷を負わされた島津義弘との交渉も行なっていました。また、真田昌幸(さなだまさゆき)・真田信繁(さなだのぶしげ)親子の助命嘆願を本多忠勝とともに行なっています。この助命嘆願は真田昌幸の嫡子・真田信之(さなだのぶゆき)が徳川家により忠義を尽くすようになることを見越してのことでした。
そして、関ヶ原の戦いの2年後、1602年(慶長7年)、井伊直政は関ヶ原の戦いで受けた傷が原因で死去。享年42歳でした。
井伊直政の死後、彦根城が築城され、本拠地が彦根に移ります。彦根藩井伊家は明治まで続きます。
彦根市のゆるキャラとしてお馴染みの「ひこにゃん」が被っている赤い兜は、井伊の赤備えからきています。
もともと赤備えが井伊家のシンボルになったきっかけは、井伊直政が元服した1582年(天正10年)までさかのぼります。この頃、武田氏の旧領をめぐって北条氏と争っていた徳川家康は、井伊直政に講和交渉役を命じました(天正壬午の乱)。
井伊直政は見事これを遂行、その褒美として徳川家康は、武田家の旧臣を与えました。そのなかには武田家最強の武将と言われた山県昌景の遺臣もいたことから、山県昌景が率いていた部隊「赤備え」を引き継いで井伊の赤備えを編成することにしたのです。
井伊直政が死去したあとも井伊家は徳川家の重臣であり続けました。
ちなみにひこにゃんが白い猫なのは、井伊直政の次男で2代彦根藩主井伊直孝(いいなおたか)の逸話によるもの。
井伊直孝が豪徳寺(現在の世田谷区)の木の下で雨宿りをしていると、白猫が手招きします。その手招きに誘われるように白猫に近づくと、先ほどまで雨宿りをしていた木に落雷がありました。そんな白猫が落雷から井伊直孝を救ったという「招き猫伝説」にちなんでいます。