久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれる吉田松陰(よしだしょういん)の愛弟子、高杉晋作(たかすぎしんさく)。尊王攘夷の志士として討幕を成し遂げた功績の影には、師の教えと、師をして「余の及ぶところではない」と言わしめた精識さがありました。
1839年(天保10年)に長州藩士、高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)の長男として生まれた高杉晋作は、7歳から寺子屋「吉松塾」に通い、のちにライバルであり親友となる久坂玄瑞(くさかげんずい)に出会います。
1852年(嘉永5年)、13歳になると、よき長州藩士になるべく藩校「明倫館」に通うようになりますが、高杉晋作はここでの教育に物足りなさを感じていたようで、1857年(安政4年)に久坂玄瑞の紹介で、吉田松陰が主宰する「松下村塾」(しょうかそんじゅく)に通うようになります。
吉田松陰は当時、若いながらも長州一の秀才思想家と言われており、松下村塾は身分を問わず、誰でも入ることができました。
高杉家はもともと藩主・毛利家に仕える名家。保守的なところがあり、黒船来航の折には密航を企て投獄されるなど、吉田松陰を危険な思想家と考える父や祖父は、高杉晋作が松下村塾に通うことを良しとしていませんでした。
しかし、高杉晋作は思想だけでなく、実行力のある吉田松陰に惹かれ、毎晩こっそり家を抜け出しては3km離れた松下村塾に通ったと言います。
高杉晋作は筋金入りの頑固者でした。桂小五郎(かつらこごろう)が吉田松陰に高杉晋作の性格について注意してもらいたいと相談すると、吉田松陰は「頑固を矯正すれば、中途半端な人間になってしまうだろう。高杉は10年後に大をなす人間だ」と言ったとか。これを知った高杉晋作は、期待に応えようと勉学に励み、さらに吉田松陰に心酔していきました。
高杉晋作と久坂玄瑞の性格を見抜いた吉田松陰は2人をライバル関係に置くことで切磋琢磨させ、2人を「松門の双璧」(しょうもんのそうへき)と呼ばれるまでに育てあげました。
1858年(安政5年)に江戸へ遊学する高杉晋作に吉田松陰が送った手紙には、「玄瑞の才はこれを気にもとづけ、しこうして暢夫(ちょうふ)の識はこれを気に発す。2人にして相得たれば、吾いずくんぞ憾みあらんや」と書かれています。
暢夫とは、高杉晋作のこと。久坂玄瑞の才が高杉晋作の識を高め、暢夫の識が久坂玄瑞の才を推し進める。2人が才と識を得れば、何も思い残すことはないといったところでしょうか。
さらに「暢夫論議を此の間にたて、多く余の意と合ふ。しかも其の精識なるに至りては、則ち余の及ぶ所に非ざるなり」とべた褒め。すでに久坂玄瑞ら仲間達は江戸に遊学し、出遅れて焦っていた高杉晋作は、吉田松陰の激励に奮い立ったに違いありません。
吉田松陰と手紙でやり取りを続けるなか、高杉晋作は師にこう問いかけます。「男の死に場所とはどこか」。吉田松陰はこう返します。「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつまでも生くべし」。この吉田松陰の死生観は、高杉晋作に大きな影響を与えたようです。
吉田松陰のこうした子弟教育のうまさが、のちの「奇兵隊」結成や尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)につながったと考えられています。
萩に戻った高杉晋作は両親の勧めにより「萩城下一の美人」と言われた「マサ」と結婚しましたが、すぐに江戸への航海実習と北関東・北陸への剣術修行の旅に出てしまいます。旅の道中で様々な人物と交流し、高杉晋作はますます勉学に取り組んで行きました。
このころ、高杉晋作は諸外国の様子を見たいと考えるようになります。これは、師の吉田松陰ですら果たせなかったことでした。
1862年(文久2年)、その想いが叶います。高杉晋作は長州藩の代表として海外視察を命じられました。高杉晋作24歳の時です。
そして高杉晋作は当時の中国、上海で衝撃的な現実を目の当たりにします。西洋人に過酷な条件で使役される中国の人々を見て「上海はイギリス・フランスの属領になっている!」と考え、強い危機感を抱きました。開国したばかりの日本も、いずれはそうなってしまうのではないかと。
海外視察から帰った高杉晋作は、このまま日本を江戸幕府には任せておけないと、幕府打倒を考えるようになります。長州藩は幕府打倒の計画を打ち立て、同士を集めていた高杉晋作に過激な行動を取らないよう申し付けるのです。
そんな長州藩に高杉晋作は、暇(いとま)を願い出ます。そして高杉晋作は1862年(文久2年)の12月、同士とともに建設中であったイギリス公使館を焼き討ちしました。
1863年(文久3年)、5月10日、開国に反対した長州藩は、沿岸を航海する外国船に砲撃を加えます。
その1ヵ月後、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの艦隊から報復を受け、長州藩はなすすべもなく敗北します。近代的な兵器を備える諸外国の船に太刀打ちできるはずがありませんでした。この事態に長州藩は高杉晋作に意見を求めます。
「有志の志を募り、一隊を創立し、名付けて[奇兵隊]といわん」
奇兵隊結成にあたって、吉田松陰の教えである「草莽崛起」(そうもうくっき)、地位や立場に関係なく、志のある者は立ち上がるべきという考え方に基づき、武士だけでなく農民や漁民、町人なども兵士として採用。徴兵ではなく、有志を集めたことがとても画期的でした。近代的な兵器を装備し、西洋式の戦略を用いた奇兵隊は下関の防衛を申し付けられます。
しかし、武士階級と民間の志願兵との間で紛争が発生。奇兵隊士が武士に斬り付けるという「教法寺事件」(きょうほうじじけん)が発生し、高杉晋作はわずか3ヵ月で奇兵隊の総督を罷免されてしまいました。
そののち、軍の方針について他の藩士と対立、脱藩しますが、捕らえられ牢に幽閉されます。
1863年(文久3年)の「八月十八日の政変」で京を追われた長州藩は、翌1864年(元治元年)に公武合体派の会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり)を排除すべく「禁門の変」を起こします。しかしこれに失敗。
長州藩は「朝敵」となり、幕府が全国の大名を動員した「第一次長州征伐」が始まります。さらに来襲した欧米の艦隊に下関の砲台陣地が占領されてしまいました。
そして停戦の条件として300万ドル(当時の日本円で900億円)もの賠償金を請求されてしまいます。
そんな長州藩の危機的状況に藩は高杉晋作に望みを託します。高杉晋作は藩主の命により釈放され、欧米艦隊との停戦交渉を任されました。「この争いの責任は江戸幕府にある。賠償金は幕府に請求しろ」と主張。賠償金の支払いを拒否しました。
結局、高杉晋作の毅然とした態度に賠償金の請求は、幕府に対して行なわれ停戦。下関の砲台陣地占領は、解除されました。
一方で第一次長州征伐は着々と進行していました。長州藩軍4,000に対し、幕府軍は15万。当時多数を占めていた長州藩内の恭順派は高杉晋作ら尊皇攘夷派(正義派)の追放を図ります。そのため、高杉晋作は九州福岡に隠遁しました。
そして長州藩は幕府の要求を受け、家老3名を切腹させます。さらに4名の軍参謀も処刑されてしまいました。
この結果を知った高杉晋作は強い憤りを感じ、長州藩に帰ります。方々に決起を呼びかけますが、集まったのはわずか84名。高杉晋作はそれでも充分と功山寺(こうざんじ)で挙兵します。
この一見無謀とも思われる挙兵には、「生きて大業を成す見込みがあればいつまでも生きよ。死んで不朽の価値があると思えばいつでも死んだら良い」という吉田松陰の教えがあったからこそと言われています。
下関の役所を襲撃・占拠した高杉晋作はここから藩内に決起を促す檄文を送ります。最終的に3,000人以上を集めた軍を率いて萩に進軍、恭順派を一掃。これにより、長州藩は再び倒幕に向かって動き出します。
長州藩の中心的人物となった高杉晋作ですが、藩の要職には就かず、イギリス留学のため、長崎に向かいます。
1866年(慶応2年)、長州藩の倒幕の動きを察知した幕府は「第二次長州征伐」を実行。大型の軍艦で編成された艦隊を長州へ向かわせます。
これによりまたもや長州藩に呼び戻された高杉晋作は海軍総督として指揮を執ります。高杉晋作の戦略により長州軍は幕府軍に次々と勝利します。
そして14代将軍 徳川家茂が病に倒れると、幕府軍は急激に弱体化しました。
しかし1867年(慶応3年)の倒幕直前、高杉晋作は肺結核により、この世を去ります。
「面白きこともなき世を面白く」と詠みかけの辞世の句を残しています。大政奉還も目の前に迫る4月14日、高杉晋作29歳の時でした。
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