武将達が臨戦態勢で日常を過ごしていた戦国時代においては、開戦前にその戦が「戦うべきなのか」、「どのように戦うのか」について戦国大名と重臣の間で合議し、出陣が決定したあとも、陣触、着到、出陣式といった行程を経て戦に臨むのが一般的でした。
ここでは、戦国時代に行なわれていたと言われている「出陣」における一連の手順をご紹介します。
合戦が日常化していたと言われている戦国時代と言えども、いきなり合戦が始まるということはほとんどありませんでした。
群雄割拠の時代において、万が一、戦(いくさ)に負けた場合、国が滅亡してしまう可能性もあったのです。そのため、戦国大名達は、慎重にシミュレーションを行なっていたと言われています。
それが「軍評定」(いくさひょうじょう)。主君や重臣が協議する会議を開くのが一般的でした。
議論は満場一致になることもあれば、紛糾することもあったと言われています。
そして、最終的な決定は、主君である戦国大名に委ねられました。主君が出陣を決定した場合には、さらにシミュレーションが重ねられます。そこで、以下のような詳細が詰められ、合戦の青写真が出来上がるのです。
戦国時代には、無数の戦が繰り返されました。その裏では、それを上回る回数の軍評定が行なわれていたと考えられます。
そのような中で、最も有名な軍評定のひとつだと言えるのが「小山評定」です。
1600年(慶長5年)、「上杉景勝」討伐のために会津(現在の福島県)に向かっていた「徳川家康」は、下野国小山(現在の栃木県小山市)で「石田三成」挙兵の知らせを受けます。諸将を招集した徳川家康は、緊急軍議を開催。「このまま上杉景勝を討つべきか、それとも西に上って石田三成を討つべきか」を質しました。
議論の末に出された結論は、石田三成との対決。そして、徳川家康を総大将とした「東軍」は、「関ヶ原の戦い」で、石田三成を中心とする「西軍」を下しました。
この勝利によって、徳川家康は事実上、天下人となったのです。豊臣恩顧の武将を多数抱えるなど、不確定要素があった東軍を一致団結させた小山評定は、新たな時代を切り開いた軍評定であると言えます。
軍評定によって出陣が決定すると、配下の武将にそれを知らせて合戦に向けた本格的な準備が始まります。
「陣触」(じんぶれ)は、ほら貝や鐘など大きな音を出す道具を用いて、まず城内に知らされました。また、遠方に知らせる場合には、狼煙(のろし)や早馬などが用いられたと言われています。
陣触は、言わば臨戦態勢に入る初動連絡で、詳細な指示がある場合には「触状」(ふれじょう)が配布されることも。そこには、軍装から持参する物まで指定されていました。
「織田信長」は、鉄砲隊によって戦国最強と謳われた武田騎馬隊を壊滅させたと言われている「長篠の戦い」に臨む際の陣触で、配下の武将に対して馬防柵を作るための木材を調達するように命じ、現地での組み立ての便宜のため、木材の規格についても詳細に指定したと言われています。
「着到」(ちゃくとう)とは、陣触を聞き付けた武将が指定された場所に馳せ参じることです。着到した武将は、率いてきた兵の数や装備などを報告。
これを書記役が「着到目録」に記載して保管します。着到目録に記載されたことを証明するために手渡される文書が「着到状」です。
着到という文化は源平合戦の頃から存在。着到状は、南北朝時代には盛んに発行されるようになります。書記役が作成した着到目録には、武将が到着した時刻、決められた人数以上の兵を率いてきた場合にはその旨など、こと細かに記録されました。
これによって武将の主君に対する忠誠心を推し量ることはもちろん、合戦後に論功行賞の査定をする際にも、参考にされていたと言われています。
武将達が集合場所に集結し、いよいよ出陣をする際に行なわれるのが「出陣式」です。
鎧を身に着け、兜だけを脱いだ姿の主君・武将らは打鮑(うちあわび)、勝栗、昆布の3種の肴で酒を飲み干す「三献の儀」(さんこんのぎ)が行なわれました。
その後、「えい、えい、おー!」と言う「鬨の声」(ときのこえ)を上げて出陣。その際にも縁起が良いとされる方角や暦、作法などが非常に重視されます。
大将が馬に乗って出陣する際には、馬の頭を東か西に向けるなどの験担ぎを行ないました。こうした手順をすべて踏まえたあと、武将達は進軍。不備があった場合、最初からやり直したこともあったと言われるほど、武将達にとっては重要な儀式だったのです。
また、戦場に向かう途中に神社・仏閣があった場合には、主君が自ら参拝して必勝祈願をすることが一般的だったと言われています。
合理主義者として知られている織田信長でさえも、こうした吉兆の概念を重視。