戦国時代と言えば、下剋上に代表されるように、生き残りをかけた「何でもあり」の無秩序な時代というイメージを持っている方もいらっしゃるかもしれません。
時代の経過と共に、なし崩し的になっていきましたが、合戦においても、ある程度のルールが存在していました。すなわち、何でもありだったわけではなく、敵の虚を突く「奇襲攻撃」は、例外的な作戦だったのです。ここでは、戦国時代における基本的な合戦の流れをご紹介します。
「矢合わせ」とは、平安時代から南北朝時代にかけて盛んに行なわれていたと言われている合戦開始の合図となる行為です。
主将(総大将)が、先端に鏑(かぶら:矢が飛んだときに音が鳴るような仕掛け)を付けた「鏑矢」(かぶらや)を放つと、これを受けた敵方が受けて立つことを示す「答の矢」(こたえのや)が返されます。
合戦開始を告げる矢合わせは、最も重要な作法のひとつでした。
室町時代に入ると、矢合わせは姿を消していきます。その理由とされているのが、武士において戦の位置づけが変化したこと。
武士が「名誉」や「誇り」をかけて戦っていた時代は終わり、自らの生き残りをかけて「勝つこと」が重要という時代を迎えたことが原因でした。
戦国時代において、城攻めの際に攻撃側から放たれる矢合わせは、籠城側に対する宣戦布告の鏑矢へと姿を変えたのです。
戦が幕を開けると、 敵陣に向かって攻撃を仕掛けるのは、槍を持った兵でした。これを担ったのが「先手」と言われる兵士達。
さらに、いの一番に武功を挙げた場合、「一番槍」として称えられました。血気盛んな武士の場合、自軍内で誰が先手を担うかについて、争いを引き起こしてしまうこともあったと言われています。
戦国時代における、合戦の「主役」は、槍を持った兵士達でした。そのため、戦国武将達は、槍部隊を作ることで自軍の強化に乗り出します。精強な槍部隊を有していた戦国武将は、それだけで周辺国から畏怖されていたのです。
例えば「織田信長」は、三間半(約6.4m)という規格外の長槍を携えた槍部隊を有していました。
妻「濃姫」の父「斎藤道三」(さいとうどうさん)は、織田信長との初対面の際に、娘婿が引き連れてきた長槍部隊を目にして、その戦略眼に大いに感心。以後、織田信長による尾張統一を後方支援したという逸話が残っています。
戦国時代において、槍部隊を整備することは、それほどの価値があったのです。
戦場において、最も必要とされていた武術と言っても過言ではない槍術は、立身出世の道具でもありました。
例えば「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では、「豊臣秀吉」軍の「福島正則」(ふくしままさのり)や「加藤清正」(かとうきよまさ)ら「賤ヶ岳の七本槍」が活躍し、大出世を遂げます。
また、「徳川家康」の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)も、天下三名槍のひとつ「蜻蛉切」(とんぼきり)で武功を重ねた槍の名手。戦国時代における槍は、敵陣を切り裂くだけではなく、武士の人生を切り開く武器でもあったのです。
槍部隊によって敵陣が切り裂かれると、そこに騎馬隊が突入します。これに呼応した敵の槍部隊が応戦。こうして戦況は、両軍入り乱れての乱戦の様相を呈していきました。
戦国時代末期、数万規模の軍勢が激突する大規模な合戦において、このような混沌状態となった場合には、もはや軍や部隊の指揮系統は機能しません。そうなると、戦は「やるかやられるか」の二者択一。
そのため、敵を殲滅(せんめつ:皆殺しにすること)するまで戦いが続いていくこととなるのです。
戦国時代の武士にとって、武功こそが自らの価値の証明。この時期には、鉄砲など殺傷能力の高い武器が導入されたこともあり、戦はより凄惨なものとなっていきました。
戦国時代においては、矢や鉄砲による一斉射撃と、槍部隊による攻撃によって、大半の戦では雌雄が決していました。
また、大将格の武将の場合、戦場においては本陣で指揮。旗本によって周囲を守られていたため、武器を手に敵と戦うことはほとんどありません。もっとも、前述した乱戦となってしまった場合、稀にですが、武将同士による一騎打ちが行なわれていたと言われています。
戦国時代における武将同士の一騎打ちで最も有名なもののひとつが「武田信玄」と「上杉謙信」の対決です。1561年(永禄4年)の「第4次川中島の戦い」。
武田軍の本陣に突入した上杉謙信によって、馬上から一太刀浴びせられた武田信玄は、咄嗟に白刃を軍配で受け止めました。2人による一騎打ちは、戦国時代を象徴する一場面として現代まで語り継がれています。