合戦が大規模化するなど、戦そのものが大きく変化した戦国時代には、それまでに用いられていた武具の使用方法も変化していきました。ここでは、戦国時代を通じて合戦で使用された「槍」、「刀剣」、「弓」の3つの武器について、使用された場面や使用方法などを中心にご紹介します。
戦国時代の合戦における武具で、中心的な役割を果たしたのは「槍」でした。
槍自体は、人類の歴史上、最も古い武器のひとつだと言われていますが、日本においては、南北朝時代までは「薙刀」が主流。槍が合戦の主役となったのは、「徒立戦」(かちだちせん:徒歩での戦い)が主流となる室町時代からでした。
合戦において、先陣を切って敵と対峙していたのは、槍部隊。そのため、槍部隊の能力は、戦国武将が率いた軍の評価に直結していたのです。
槍の使い方として、まず思い浮かぶのは「突く」こと。しかし、戦国時代の槍部隊が行なっていたのは、「叩く」ことでした。
「織田信長」が有していた槍部隊が、三間半(約6.4m)の長大な槍を携えていたように、戦国大名の軍に属する槍部隊が携えた長槍は、戦国時代を象徴する武具のひとつ。
長い槍をしならせて敵の頭部などを叩く攻撃の破壊力は凄まじく、「突き」の10倍を超える衝撃を与えたとも言われています。
槍を戦国時代の合戦における武具の中心的存在たらしめていた要因は、凄まじい破壊力があったことだけではありません。
その扱いが比較的容易だったことで、大量に動員した足軽に槍を持たせることが可能となり、大規模化した合戦形態に適合していたのです。これにより、槍部隊を活用した新たな戦略も考案されます。
それは織田信長が始めたと言われている「槍衾」(やりぶすま)です。槍先を前面に向け、隙間を作らないように槍部隊を並べることで、敵の騎馬隊の侵入を防いだ槍衾は、戦国時代の標準的な戦略となりました。
時代劇や映画などでは、「当世具足」を身にまとった武将が、「刀剣」を手に1対1で斬り合うという合戦シーンを目にすることがあります。
しかし、前述のように、戦国時代に行なわれていた大規模な集団戦では、接近戦においての中心は槍でした。戦場に臨んだ兵は皆、腰に刀剣を佩用(はいよう)していましたが、日の目を見る場面は限られていたと言われています。
戦場において、刀剣が使用される場面は、2つに大別することが可能です。
前者はまさに「刀折れ矢尽きる」絶体絶命の状況で、後者は、今まさに武功を挙げようとする瞬間だと言えます。刀剣は、両極端な場面で戦場に登場したのです。
戦国時代においても、「弓」は主力武器として用いられていました。もっとも、「源平合戦」に代表されるような騎馬武者が一対一で矢を放ち合う「騎射戦」(きしゃせん)ではありません。大規模な集団戦へと変貌していた戦国時代では、組織化された弓部隊が一斉に矢を射掛けるスタイルへと変化。
「浮世絵」などではよく目にする光景ですが、敵に矢の雨を降らせることで、進撃を妨げるという狙いがあったと言われています。戦国時代における弓は、集団戦を象徴する武具でもあったのです。
鉄砲伝来によって、廃れていったというイメージのある弓ですが、実際は、戦国時代後期においても主力の武器として用いられていたと言われています。
当時の鉄砲は、単発式の火縄銃だったため、連射によって、敵にダメージを与えるということは難しい状況。「長篠の戦い」において、織田信長が鉄砲部隊の組織的な運用を試みるなど、試行錯誤の段階でした。
また、鉄砲の数の確保と、射撃技術の習熟にも時間を要したため、合戦における武器としての弓の価値が大きく下落したわけではなかったのです。