戦国時代は、合戦が常態化していた時代。戦場において自分の身を守る「当世具足」は、戦国武将達にとっては「晴れ着」のような存在でもありました。
当世具足は、「当世」(今現在)の「具足」(甲冑)を意味する言葉であり、現在の甲冑のことで、その仕様について決まったルールはありません。そこで、戦国武将達は自らの思想・世界観を反映させ、意匠を凝らした当世具足を身にまとって戦場に赴いたのです。
ここでは、戦国時代の「戦闘服」たる当世具足について掘り下げます。
戦場における戦国武将達の個性的な出で立ちは、戦国時代の「華」でもありました。
彼らが身にまとう当世具足は、独創的で、その思想や世界観などが反映された1領だったのです。
例えば、兜の前立に「愛」の一文字を掲げた「直江兼続」(なおえかねつぐ)。愛という文字に込められた思いの中身については諸説ありますが、ここに直江兼続の思いが込められていることに変わりはありません。
このように、具足は着用する戦国武将の「分身」でもあったのです。
当世具足は合戦において実際に着用されていました。そのため、制作当時のままで現存している具足はほとんどありません。戦国武将達は、合戦で傷んだ箇所を修復しながら、具足を着用していたのです。
そのため、見た目とは裏腹に、随所に実用的な工夫が施されていました。敵の攻撃から生命・身体を守るため、胴部分は鉄板などを用いて防御力を強固にした一方で、腰下を守る「草摺」(くさずり)と胴をつなぐ「揺糸」(ゆるぎのいと)を長くすることで機動性を確保。
さらに、一見派手な兜の立物は薄い木で制作され、異形の兜(変わり兜)の制作では、質素な造りの鉄兜の上に紙を幾重にも貼り重ね、乾燥後に原型を抜き取って漆で固める「張貫」(はりぬき)の手法が用いられました。
これは、戦場で木の枝などに引っかかってしまった際に、折れたり曲がったりすることで、そこから抜け出しやすくするための配慮だったとも言われています。
戦国武将達とは違い、足軽・一般兵達の装いは簡素でした。経済的に困窮していた者も多かったと言われている彼らに、自前の具足を用意する余裕はありません。
そこで、主君が「御貸具足」(おかしぐそく)と呼ばれる具足を用意し、貸し出していました。御貸具足は、円錐状の簡素な「陣笠」と、「桶側胴」(おけがわどう)などで構成され、陣笠と胴には、家紋などのマークが描かれています。
これは、混乱している戦場において、敵と味方を一目で区別するための目印。戦国時代の主力部隊だった槍部隊を形成していた足軽・一般兵達も、こうした簡素な具足を身にまとって敵と戦っていたのです。
派手さはありませんが、胴の強度など性能の面については、戦国武将が身に付けていた物と遜色なかったとも言われています。
自らの思想や世界観を反映させた独創的な具足を身にまとっていた戦国武将がいた一方で、大将から足軽・一般兵までが揃いの具足を身に着けて戦場に赴く軍も存在していました。
統一した具足で戦った例として知られているのが「武田信玄」率いる「武田の赤備え」や「井伊直政」率いる「井伊の赤備え」、さらには「真田信繁[幸村]」率いる「真田の赤備え」など。
燃えるような赤い具足を身にまとい、一致団結した兵士達が戦場において奮闘したことで、「赤備え伝説」を紡いでいったのです。
井伊の赤備えは江戸時代も続き、「彦根藩」の藩士達は、「第二次長州征伐」や「鳥羽・伏見の戦い」においても、赤い具足を身にまとって新政府軍と戦いました。
また、「伊達政宗」が初代藩主を務めた「仙台藩」では、黒ずくめの具足が定番となっていたと言われています。