戦国時代における価値観は「強さ=偉大さ」。すなわち、合戦における勝者がすべてを手にする一方で、敗者はそれまで築き上げてきたものを失うといった構図でした。
そのため、合戦に参加する武士達を突き動かしていたのは、武功を挙げること。合戦における武功は立身出世するための近道だったと言えます。武士達は、戦場において自らの存在価値を証明するために、命をかけていたのです。
このような風潮だったため、戦国大名達にとって、合戦後の論功行賞など後始末は、ある意味で合戦以上の重要な意味を有していました。
一般的に、合戦の終了は大きく3つに分類することができます。
合戦の決着については勝者と敗者の明暗が分かれました。
ひとつ目のケースとして、「桶狭間の戦い」では、今川軍の総大将「今川義元」が討ち取られ、「関ヶ原の戦い」では、西軍の大将格だった「石田三成」が敗走中に捕らえられたことで、完全に終結です。
また、2つ目のケースでは「豊臣秀吉」による天下統一の総仕上げの合戦となった1590年(天正18年)の「小田原征伐」は、「北条氏直」(ほうじょううじなお)が降伏して「小田原城」を明け渡したことで、幕を下ろしました。
3つ目のケースとしては、「備中高松城」の水攻めを行なっていた豊臣秀吉が、「織田信長」の訃報を受けて「毛利輝元」らとの間で講和を締結。「中国大返し」を経て「明智光秀」との「山崎の戦い」に臨んだ逸話が有名です。
討ち死にとならなくとも、敗れし者を待っていたのは過酷な運命でした。
もっとも、降伏して許された場合は、そのあとに家臣として臣従することもありました。
合戦で敗れた武士が自刃することは、ある意味で「武士らしい最期」でもあります。なぜなら、武士にとって、命を惜しむことは恥であるという考えがあったからです。それゆえ、主君が自ら自刃することと引き換えに家臣達の助命嘆願を行なったケースもありました。
こうした精神からすると、敵に捕らえられて処刑されることは、戦場で自らの命を決着できなかったとも言え、武士としては恥ずべき最期だったとも言えるのです。
処刑は、河原などにおいて公開されるのが一般的でした。その際、敗軍の将は「罪人」として扱われ、町中を引き回された挙句、斬首などによって命を絶たれたのです。
また、処刑されなかった場合でも、遠隔地に強制移動させられる流刑となる場合もありました。例えば、関ヶ原の戦いにおいて、西軍に与した「真田昌幸」(さなだまさゆき)、「真田信繁[幸村]」親子らは、紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県)九度村へと幽閉されたのです。
その他、豊臣秀吉と戦って敗れた四国の雄「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)のように、降伏して敵将に赦免されたあと、家臣として仕えるケースもありました。
前述した他に、敗者となった武将達が、直面した危機として、「落ち武者狩り」があります。合戦によって、田や畑が兵達に踏み荒らされた農民達は、農作物の収穫ができなくなってしまい、生活の糧を失うことになりました。
その恨みを晴らす手段として、農民達による略奪や殺害が行なわれていたのが落ち武者狩り。敗走する武将や流罪となって流刑地に移動している武将(罪人)も落ち武者とみなして襲撃。
「当世具足」や刀剣などを奪い取り、換金等を行なうことで、生活の足しにしていました。真偽については諸説ありますが、山崎の戦いで敗れた明智光秀が落ち武者狩りに遭って絶命したという逸話が有名です。
なお、落ち武者狩りがなくなったのは、天下統一した豊臣秀吉が、こうした慣習を禁じるお触れを出したことによると言われています。
敗者が過酷な運命をたどった一方で、勝者には自らの武功を主君にアピールする絶好の機会がありました。それが「首実検」(くびじっけん)です。
すなわち、敵将の首級を上げた武士が主君(総大将)の下にその首を持ち込み、その首が誰であるのかを鑑定する作業。第三者による厳重な検査によって真正であると認定された場合には、莫大な褒賞が与えられたと言われています。
首実検には、一定の手続きがありました。合戦場の近くにある寺などに首が集められて洗われ、名札と共に首台に載せられます。
そして、勝ち鬨(かちどき)を上げたあと、総大将が臨場すると、首実検を開始。まず、首が誰なのかを確認すると、他者の証言をもとに、その首級を上げた者を確定していくのです。特に首級の確認は論功行賞に大きく関係するため、捕虜となった敵方の人間に確認をさせることもありました。首実検が終わると、首は獄門台でさらされたのです。
戦国武将には多数の影武者がいたと言われ、真贋の判定が困難となったこともありました。首実検にまつわる逸話としては、「大坂夏の陣」において、「徳川家康」をあと一歩のところまで追い詰めた真田信繁(幸村)が知られています。
真田信繁(幸村)にも、多数の影武者が存在していたと言われ、合戦後の徳川家康の下には多数の真田信繁(幸村)の首が持ち込まれました。難儀した徳川家康は、真田信繁(幸村)の縁者に判定を委ねたのです。
その結果、「西尾仁左衛門」(にしおにざえもん)の持ち込んだ首が、真田信繁(幸村)の首であると認定されました。
武士達が命をかけて戦った理由は、武功を挙げて出世すること。
首級の数などに応じて恩賞が与えられるため、死に物狂いで戦いに臨んだのです。それだけに、論功行賞において公平性の確保は最も重要なことでした。
この処理を誤った場合、家臣などの不満がくすぶり、合戦の勝利によって得た以上のダメージを受けてしまうこともあったのです。そこで、軍を率いる武将が配置していたのが「軍監」(ぐんかん)。
軍目付(ぐんめつけ)とも呼ばれていた彼らの役割は、合戦における兵士達を観察することでした。その中で、兵士達の規律違反の有無や戦功を大将に報告したのです。
戦後処理において、総大将は軍監からの報告をもとに論功行賞を行なったとされるほど、重要な役割を担っていたと言えます。
論功行賞において、総大将(戦国大名)からは様々な褒賞が与えられました。
褒賞品としては、愛用している刀剣や甲冑をはじめ、陣羽織などが一般的です。意外な人気を誇っていたのが茶器。織田信長は、「名物狩り」によって多数の名物茶器を強制買収し、それらを褒賞として家臣に与えていました。
その「価値」は、一国に相当したとも言われ、家臣達はこぞって褒賞品として茶器を所望したと言われています。
「武田勝頼」(たけだかつより)を自害に追い込んだ「滝川一益」(たきがわかずます)は、「甲州征伐」の褒賞として、関東管領(かんとうかんれい)の地位と所領などを与えられましたが、所望していた茶器「珠光小茄子」(じゅこうこなす)ではなかったことに落胆した逸話は有名です。
また、勝利によって得た敵の領地を譲り受けることも、経済力に直結するものであり、武士達にとって、大きな関心事だったと言えます。もっとも、戦国時代は言わずと知れた下剋上の時代。家臣が主君を倒してのし上がることは日常茶飯事でした。
そのため、領地の加増によって家臣が大きな力を得た場合、自らの地位が脅かされる恐れがあったのです。家臣をねぎらいつつ、制御可能な程度の分配を行なうという「さじ加減」も重要だったと言えます。