戦国時代の姫・女武将一覧

おたあジュリア
/ホームメイト

おたあジュリア おたあジュリア
文字サイズ

「おたあジュリア」は、謎の多い女性とされています。朝鮮で生まれたものの、幼少時に戦乱に巻き込まれ日本へと連れて来られました。成長後は、キリスト教の洗礼を受け、この教えのもとキリシタンとして人々を導いていくことを選びます。「徳川家康」に仕える侍女となるものの、3度の流罪に見舞われるなど波乱万丈な人生。ここでは、おたあジュリアとは、どのような人物であったのかをご紹介していきます。

キリシタンとして育てられた「おたあジュリア」

出生から実名まで謎の多い人物

おたあジュリアのイラスト

おたあジュリア

「おたあジュリア」という女性の、出生や実名について詳細に記された史料は、実は今なお発見されておらず、分かっていることは朝鮮出身であることだけです。

一説によれば、捕虜となった李氏朝鮮の両班(りゃんばん:李氏朝鮮の最上位の身分階級)の子供であるとも言われています。

そして、おたあジュリアという名前についても、本名ではなく日本名である「おたあ」と、洗礼名である「ジュリア」とを組み合わせたものです。

キリシタン大名・小西行長に養育される

おたあジュリアが、朝鮮から日本へやってきたことには「豊臣秀吉」が大きく絡んでいます。

天下統一を果たした豊臣秀吉は、次なる領地拡大のために朝鮮侵略を目論み、朝鮮征伐軍と共に、1592年(天正20年)に朝鮮に侵攻。このときの「文禄の役」で、平壌(ぴょんやん)にいた幼いおたあジュリアを保護したと言われています。

日本へ連れてこられたおたあジュリアには、当然身寄りなどありません。そこで、キリシタン大名として名が知られていた「小西行長」(こにしゆきなが)に引き取られます。

徳川家康の侍女になるまで

小西行長

小西行長

おたあジュリアを引き取った小西行長の影響もあり、おたあジュリアはキリスト教の洗礼を受け、次第にその信仰にも目覚めていきました。

また小西行長の生家が、和泉国堺(いずみのくにさかい:現在の大阪府堺市)で薬種問屋(薬屋)を営んでいたこともあり、薬学への造詣も深かったと言います。

そして、小西行長が設立した施薬院(貧しい人々を世話する施設)を手伝いながら、慈悲深く聡明な女性へと成長していきました。

しかし、「関ヶ原の戦い」を境に、おたあジュリアの人生は大きく変わります。

小西行長は、西軍として参戦するものの、結果は西軍の大敗という形で幕を閉じました。そして、小西行長はこの戦いに敗れたことにより処刑。これにより小西家は没落の一途を辿り、おたあジュリアも生活に窮していきます。

そこで、以前よりおたあジュリアの才気を聞き及んでいた「徳川家康」が、侍女として「駿府城」(現在の静岡県静岡市葵区)へと召し上げることにしました。こうして、おたあジュリアは小西家から駿府城へと移ったのです。

徳川家康は、1605年(慶長10年)に、嫡男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に将軍職を譲っていました。1607年(慶長12年)には、徳川家康は駿府城に移り「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として、さらなる実権を掌握。

おたあジュリアを召し上げたのは、この頃であると考えられています。

おたあジュリアは、侍女として徳川家康に仕えつつも、キリシタンとしての祈りの時間や、聖書を読むことを怠りませんでした。仕事を終えた夜、共に仕えていた他の侍女や家臣達を、キリスト教の教えに導いていたと伝わります。

合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

おたあジュリアの流罪

侍女として徳川家康に仕えて来たある日、おたあジュリアは徳川家康に側室になるよう求められます。しかし、同時にキリスト教棄教の要求をされたため、おたあジュリアは側室になることを拒否しました。

この頃の江戸幕府とキリスト教宣教師達との関係は、実はあまり良好とは言えませんでした。布教活動を行なう宣教師達の活動は日本各地に広がり、対する日本の神仏勢力の抗議活動も活発化。加えて、宣教師達とキリシタン大名達による収賄事件が発覚したことをきっかけに、江戸幕府はキリスト教の禁止に踏み切ります。

1612年(慶長17年)に「禁教令」により、キリスト教の布教を禁止。江戸幕府は、家臣達のなかにいるキリシタンの捜査を行ない、該当した者は、改易処分や切腹などの厳しい処置が取られました。

そのなかで、おたあジュリアもキリシタンとして裁かれることになります。徳川家康は、処罰が確定する前にキリスト教信仰を捨てるよう説得。しかし、これを聞き入れることのなかったおたあジュリアは、駿府城から追放され最初の流刑地「伊豆大島」へと行き着きます。

流刑地でも、おたあジュリアは決して自棄になることなく、キリシタンとしての誇りを持ち、その使命を全うするよう務めました。熱心な信仰生活を送るなか、あるときは見捨てられた病人を保護し、またあるときは流されていた罪人達に教えを説くなど、献身的な活動を行ないます。

そんな生活が続くなか、徳川家康からは自らへの恭順を条件に赦免(罪を許すこと)の打診が送られてきますが、おたあジュリアはキリシタンであることを望み、徳川家康からの再三の要求を拒否し続けました。拒否する毎に「新島」・「神津島」へと流刑地を転々とすることになります。

おたあジュリアの最期

神津島

神津島

ポルトガル人神父「フランシスコ・パチェコ」は、おたあジュリアが1619年(元和5年)に神津島を離れたことを書簡に記録。

このフランシスコ・パチェコ神父の援助のもと、一時期は大坂に移り住み、そののちは長崎県に移動したと伝わりますが、そのあとの消息は分からないままです。

しかしながら、おたあジュリア終焉の地の候補に神津島があります。この神津島の郷土史家「山下彦一郎」(やましたひこいちろう)氏が、神津島にある供養塔が、おたあジュリアの墓である可能性が高いと主張したためです。

以来、神津島では毎年5月に「ジュリア祭」を開催し、おたあジュリアの慰霊を偲んでいます。

おたあジュリアをSNSでシェアする

名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク) 名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)
名古屋刀剣ワールド/名古屋刀剣博物館(名博メーハク)では、重要文化財などの貴重な日本刀をご覧いただくことができます。
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「戦国時代の姫・女武将一覧」の記事を読む


朝日姫

朝日姫
天下人「豊臣秀吉」の妹であった「朝日姫/旭姫」(あさひひめ)。すでに尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の農民に嫁いでいた朝日姫でしたが、天下を取りたい兄の夢のために、長年連れ添った夫と無理矢理離縁させられ「徳川家康」の正室となりました。ここでは、朝日姫が徳川家康に嫁ぐことになった背景を、天下統一を果たすまでの兄・豊臣秀吉が歩んだ道のりと共に紐解いていきます。

朝日姫

阿茶局(雲光院)

阿茶局(雲光院)
「徳川家康」の21人にも及んだ正室・側室のなかで、ひときわ異彩を放つ女性がいます。甲冑に身を包み、徳川家康と共に戦場を駆け抜け、大坂冬の陣では豊臣方との交渉にあたった「阿茶局」(あちゃのつぼね)です。今回は、徳川家康から厚い信頼を受け、表舞台でも裏方としても活躍した阿茶局について、人柄やその生涯を見ていきます。

阿茶局(雲光院)

綾御前(仙桃[洞]院)

綾御前(仙桃[洞]院)
「上杉謙信」の異母姉であった「綾御前」(あやごぜん)は、上杉家の将来を大きく変えていくこととなった重要人物です。政略結婚や上杉謙信亡きあとの後継者争いなど、上杉家の発展や存続のために、その力を注いでいたと伝えられています。上杉家のために生きたとも言える綾御前は、果たしてどのような人物だったのでしょうか。そこで今回は、綾御前に焦点を当てて、彼女の歴史や生涯について解説します。

綾御前(仙桃[洞]院)

明智熙子

明智熙子
かつて「明智の妻こそ天下一の美女」という噂がありました。明智とは、戦国武将「明智光秀」のこと。妻は「明智熙子」(あけちひろこ)です。少ない史料をたどっていくと、明智熙子の美貌は東美濃随一で、たいへん心が美しい女性であったことが分かります。明智熙子とはどんな出自で、どのような女性であったのかを詳しくご紹介します。 明智熙子 YouTube動画

明智熙子

荒木だし

荒木だし
「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)の城主「荒木村重」(あらきむらしげ)の妻であった「荒木だし」(あらきだし)は、「今楊貴妃」(いまようきひ)と称されるほど、絶世の美女でした。ここでは、荒木だしが壮絶な最期を遂げるまでに、夫・荒木村重をどのように支えていたのか、その生涯を通して見ていきます。

荒木だし

お江(崇源院)

お江(崇源院)
ドラマなどでも取り上げられることが多い有名な「お江」(おごう)こと「崇源院」(すうげんいん)。権力がひしめき合う時代で、女性のなかでも特に強い権力を持っていました。しかし、彼女は生まれながらにして順風満帆な人生を送っていた訳ではありません。むしろ、波乱万丈の苦労人と言っても過言ではないほどです。お江とはどんな姫だったのか、その生い立ちから見ていきましょう。江~姫たちの戦国~お江(崇源院)が主人公の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。

お江(崇源院)

犬姫

犬姫
「織田信長」の妹と言えば「お市の方」が有名ですが、もうひとりの妹「犬姫」(いぬひめ)をご存知でしょうか?お市の方は「絶世の美女」だったとよく言われますが、その妹の犬姫も美しい女性だったのです。織田信長の戦略によって、2度も政略結婚をさせられるなど、波乱万丈な人生を歩んだ犬姫の生涯をご紹介します。

犬姫

栄姫

栄姫
「栄姫」(えいひめ)は、福岡藩初代藩主「黒田長政」(くろだながまさ)の継室(けいしつ:後妻のこと)となった女性です。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が始まる直前に黒田長政と結婚し、大坂で戦乱に巻き込まれます。はたして栄姫とは、どのような人物だったのでしょうか。ここでは栄姫の生涯と、栄姫にかかわりの深い人物達についてご紹介します。

栄姫

お市の方

お市の方
戦国時代の覇者「織田信長」の妹であった「お市の方」(おいちのかた)。戦国一と言われるほどの美貌の持ち主であったと伝えられています。お市の方は、最初の夫であった「浅井長政」(あざいながまさ)と兄の織田信長が戦うことになり、夫が兄によって自刃に追い込まれるなど、波乱万丈の生涯を送った女性です。ここでは、戦国の世に翻弄されたお市の方が歩んだ道のりと、その3人の娘達についてもご紹介します。 これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。 どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

お市の方

注目ワード
注目ワード