「おたあジュリア」は、謎の多い女性とされています。朝鮮で生まれたものの、幼少時に戦乱に巻き込まれ日本へと連れて来られました。成長後は、キリスト教の洗礼を受け、この教えのもとキリシタンとして人々を導いていくことを選びます。「徳川家康」に仕える侍女となるものの、3度の流罪に見舞われるなど波乱万丈な人生。ここでは、おたあジュリアとは、どのような人物であったのかをご紹介していきます。
「おたあジュリア」という女性の、出生や実名について詳細に記された史料は、実は今なお発見されておらず、分かっていることは朝鮮出身であることだけです。
一説によれば、捕虜となった李氏朝鮮の両班(りゃんばん:李氏朝鮮の最上位の身分階級)の子供であるとも言われています。
そして、おたあジュリアという名前についても、本名ではなく日本名である「おたあ」と、洗礼名である「ジュリア」とを組み合わせたものです。
おたあジュリアを引き取った小西行長の影響もあり、おたあジュリアはキリスト教の洗礼を受け、次第にその信仰にも目覚めていきました。
また小西行長の生家が、和泉国堺(いずみのくにさかい:現在の大阪府堺市)で薬種問屋(薬屋)を営んでいたこともあり、薬学への造詣も深かったと言います。
そして、小西行長が設立した施薬院(貧しい人々を世話する施設)を手伝いながら、慈悲深く聡明な女性へと成長していきました。
しかし、「関ヶ原の戦い」を境に、おたあジュリアの人生は大きく変わります。
小西行長は、西軍として参戦するものの、結果は西軍の大敗という形で幕を閉じました。そして、小西行長はこの戦いに敗れたことにより処刑。これにより小西家は没落の一途を辿り、おたあジュリアも生活に窮していきます。
そこで、以前よりおたあジュリアの才気を聞き及んでいた「徳川家康」が、侍女として「駿府城」(現在の静岡県静岡市葵区)へと召し上げることにしました。こうして、おたあジュリアは小西家から駿府城へと移ったのです。
徳川家康は、1605年(慶長10年)に、嫡男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に将軍職を譲っていました。1607年(慶長12年)には、徳川家康は駿府城に移り「江戸の将軍」に対して「駿府の大御所」として、さらなる実権を掌握。
おたあジュリアを召し上げたのは、この頃であると考えられています。
おたあジュリアは、侍女として徳川家康に仕えつつも、キリシタンとしての祈りの時間や、聖書を読むことを怠りませんでした。仕事を終えた夜、共に仕えていた他の侍女や家臣達を、キリスト教の教えに導いていたと伝わります。
侍女として徳川家康に仕えて来たある日、おたあジュリアは徳川家康に側室になるよう求められます。しかし、同時にキリスト教棄教の要求をされたため、おたあジュリアは側室になることを拒否しました。
この頃の江戸幕府とキリスト教宣教師達との関係は、実はあまり良好とは言えませんでした。布教活動を行なう宣教師達の活動は日本各地に広がり、対する日本の神仏勢力の抗議活動も活発化。加えて、宣教師達とキリシタン大名達による収賄事件が発覚したことをきっかけに、江戸幕府はキリスト教の禁止に踏み切ります。
1612年(慶長17年)に「禁教令」により、キリスト教の布教を禁止。江戸幕府は、家臣達のなかにいるキリシタンの捜査を行ない、該当した者は、改易処分や切腹などの厳しい処置が取られました。
そのなかで、おたあジュリアもキリシタンとして裁かれることになります。徳川家康は、処罰が確定する前にキリスト教信仰を捨てるよう説得。しかし、これを聞き入れることのなかったおたあジュリアは、駿府城から追放され最初の流刑地「伊豆大島」へと行き着きます。
流刑地でも、おたあジュリアは決して自棄になることなく、キリシタンとしての誇りを持ち、その使命を全うするよう務めました。熱心な信仰生活を送るなか、あるときは見捨てられた病人を保護し、またあるときは流されていた罪人達に教えを説くなど、献身的な活動を行ないます。
そんな生活が続くなか、徳川家康からは自らへの恭順を条件に赦免(罪を許すこと)の打診が送られてきますが、おたあジュリアはキリシタンであることを望み、徳川家康からの再三の要求を拒否し続けました。拒否する毎に「新島」・「神津島」へと流刑地を転々とすることになります。
ポルトガル人神父「フランシスコ・パチェコ」は、おたあジュリアが1619年(元和5年)に神津島を離れたことを書簡に記録。
このフランシスコ・パチェコ神父の援助のもと、一時期は大坂に移り住み、そののちは長崎県に移動したと伝わりますが、そのあとの消息は分からないままです。
しかしながら、おたあジュリア終焉の地の候補に神津島があります。この神津島の郷土史家「山下彦一郎」(やましたひこいちろう)氏が、神津島にある供養塔が、おたあジュリアの墓である可能性が高いと主張したためです。
以来、神津島では毎年5月に「ジュリア祭」を開催し、おたあジュリアの慰霊を偲んでいます。