「小野お通」(おののおつう)は、和歌や琴、書画、舞踊といった諸芸に卓越した才能を発揮した、戦国時代きっての才女と名高い女性です。出生や来歴など、その人生の多くが謎に包まれていますが、信州上田の戦国大名「真田信之」(さなだのぶゆき)と深い関係があった女性としても有名。ここでは、多くの歌や書画などが残された、謎多き戦国の才女・小野お通についてご紹介します。
「小野お通」(おののおつう)の出生については史料がなく、一説では1567年(永禄10年)頃に誕生したと言われていますが、正確な生年は不明。
また、出自や経歴に関しても諸説あり、どれが正しいのかは分かっていません。
そのなかでも最も有力なのは、美濃国(みののくに:現在の岐阜県)の地侍(じざむらい)で、織田家の家臣となった「小野正秀」(おののまさひで)の娘だったとする説。
小野氏は、諸国を巡り芸を披露する「遊芸人」(ゆうげいにん)の一族でした。そのような家に生まれたとされる小野お通は、幼少の頃より諸芸を学び、通じていたと考えられています。
小野お通は「おつう」と呼ばれるのが一般的。その他にも「阿通」、「於通」と書く場合や、「おづう」と呼ばれることもあります。
そんな小野お通が歴史に登場したのは、「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の家臣「塩川志摩守」(しおかわしまのかみ:または伯耆守[ほうきのかみ]とする説も)に嫁いだ頃。
しかし、小野お通は塩川志摩守とすぐに離縁し、公家に仕えた侍とされる「渡瀬羽林」(わたせうりん)と再婚後、1女を儲けました。
この間、古典学者である公卿「九条稙通」(くじょうたねみち)のもとで和歌を学び、「寛永の三筆」と称される公卿「近衛信尹」(このえのぶただ)から書を学んだと考えられています。小野お通は、和歌の才能に長けており、公卿のもとで和歌や書を学ぶ等、当時の女性としては、かなりの高等教育を受けていました。
そののち、小野お通は「豊臣秀吉」の正室「北政所」(きたのまんどころ)である「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)に才能を認められ、豊臣家に仕官。1598年(慶長3年)には、豊臣秀吉が主催した有名な「醍醐の花見」(だいごのはなみ)に参加していた記録が残っています。
謎多き才女と言われる小野お通は、高等教育を受け当代きっての女流書家として活躍していました。その才能は和歌や書画、絵画、琴、舞踊など、諸芸百般に秀でていたと言います。
そんな小野お通の和歌の師匠にあたる人物が、関白藤原氏の嫡流ともされる公卿の九条稙通です。九条稙通は、1507年(永正4年)に「九条尚経」(くじょうひさつね)の嫡男として生まれ、1533年(天文2年)には、関白及び、藤氏長者(とうしのちょうじゃ:藤原氏一族全体の氏長者)ともなった身分の高い人物。
母方の祖父にあたる「三条西実隆」(さんじょうにしさねたか)からの影響で古典研究者としても知られており、書写の「古今集秒」をはじめとする多くの書物を残しました。また、小野お通は能筆家である公卿・近衛信尹に師事し、書画を修めます。
近衛信尹は、織田信長が元服するときの烏帽子親(えぼしおや)を務めている人物で、近衛信尹の「信」の字は、織田信長から授かったもの。
近衛信尹と織田信長は、そののちも親交があったと言われ、一説では、父親亡きあとの小野お通が織田家で庇護されていた際、織田信長が小野お通の才能を感じ、高等教育を受けさせたのではないかと考えられています。
しかし、九条稙通や近衛信尹にお通が師事することとなった経緯や理由に関しては史料がなく、明確な答えは分かっていません。
小野お通が描いた書は、のちに「お通流」と呼ばれ、当時の女筆(にょひつ)を代表する物となりました。一説によると、豊臣家での仕官では侍女達への教育のみならず、豊臣秀吉の側室「淀殿」(茶々)や「細川忠興」(ほそかわただおき)の正室「細川ガラシャ」にも、学問や和歌などの手ほどきをしたと言われています。
また「徳川家康」からも評価されており、「関ヶ原の戦い」のあと豊臣家の懐柔のために「豊臣秀頼」(とよとみひでより)へ、自身の孫娘である「千姫」を輿入れさせた際の介添女房頭として、小野お通を抜擢したのです。
1598年(慶長3年)、小野お通は豊臣秀吉が開催した醍醐の花見に出席。その席では、こんな和歌を詠んだと伝わっています。
「花見ればいとど心も若みどり をひせぬ春に逢ひ老の松」
「あかざりし花に心を遺しつつ 我が身は宿にかへりぬるかな」
上の歌は、春の花を自身になぞらえて詠み、下の歌は、花を愛でるのも良いが、早く帰って好きなことをしたいという心境を詠んだもの。この歌から、小野お通は、才覚と自信に満ち溢れ、自ら道を切り開いていく強さや、教養の高さが見て取れます。
山形県酒田市にある「本間美術館」には、小野お通が描いたとされる「霊昭女図」(れいしょうじょず)が収蔵。狩野派(かのうは)の「狩野光信」(かのうみつのぶ)を踏襲した作風を描いた小野お通は、画家ではありませんでしたが、多くの絵画を残しました。
多くの絵画作品が現在まで残されているのは、小野お通が武家だけでなく、公家や寺家とも密接な交流があったためと考えられています。
小野お通の絵画には、書画を師事した近衛信尹の書いた作品と近似している点が多くあると言われており、「柿本人麿自画賛」(かきのもとひとまろじがさん:センチュリー文化財団蔵)が特に有名。他にも「豊臣秀吉像」(金戒光明寺蔵)や「徳川家康像」(大養寺蔵)が、小野お通の作品として残されています。
多くの書画や和歌を描く中で、武家にとどまらず公家、寺家とも親交があった小野お通。その顔の広さや人脈は芸事のみならず、戦にも活かされました。
小野お通は、仕えていた豊臣秀吉の正室・高台院が隠棲すると、徳川家へ仕官することとなります。1603年(慶長8年)、豊臣秀頼へと嫁ぐ千姫の付き人として、大坂城(現在の大阪城)に入城。小野お通は、大坂城で淀殿などとも親交を深めたのです。
そののち、1614年(慶長19年)に「大坂冬の陣・夏の陣」が勃発。
大坂夏の陣では、大坂冬の陣後の講和によって、大坂城における防御の要である堀がほとんど埋め立てられており、無防備な状態でした。
そのようななかで小野お通は、千姫の命を守るために、徳川軍についた武将達との交渉役を担い、千姫が大坂城から逃げ出すための手引きをしたと言います。
小野お通は、自身の人脈を最大限に利用し奔走しますが、これにより、淀殿から内通者と見られてしまいました。そして、小野お通は大坂城から追放されてしまったのです。
小野お通の働きもあり、無事に大坂城から脱出することができた千姫は、自身の夫である豊臣秀頼と姑である淀殿の命だけはと、祖父・徳川家康に助命嘆願をします。しかし、その助命嘆願は聞き入れてもらえず、豊臣秀頼と淀殿は大坂城内で自害することとなりました。
大坂夏の陣では、豊臣軍から寝返った武将が大坂城に火を放ったり、徳川軍の雑兵によって民衆から乱妨取り(らんぼうどり:暴力を使って物を奪い取ること)が行なわれたりするなど、町中が混乱状態。そんななかで千姫の命を守ったという逸話からも、小野お通が交渉術にも長けた優秀な人物だったことが伺えます。
小野お通と言えば、信濃国松代藩(しなののくにまつしろはん:現在の長野県北東部)の初代藩主「真田信之」(さなだのぶゆき)との関係が有名。2016年(平成28年)の大河ドラマ「真田丸」でも、真田信之が小野お通に思いを寄せる場面が描かれていました。2人は、1587年(天正15年)頃、父「真田昌幸」(さなだまさゆき)と共に、京都府で豊臣秀吉に謁見した際に出会ったのではないかと言われています。
真田信之の正妻としてよく知られているのは、徳川四天王である「本多忠勝」の娘「小松姫」。
2人の夫婦仲は良く、小松姫が旅先で亡くなってしまったときに、真田信之は「真田家の光が消えた」と言って悲しんだという逸話もあるほど。
そんな真田信之ですが、小野お通のことが好きだったのではないかとする説があります。
小松姫のように、武勇に秀でた名門の家が出自の妻と、諸芸百般に通じた雅な小野お通。夫婦仲は良かったものの、正妻とは正反対である異性に心を奪われるのも不思議ではありません。
なお、一説では小野お通は当時、とても高名な女流書家だったため、小松姫が真田信之に「そろそろ京の人を迎えてみてはどうか」と、小野お通を側室に薦めていたとも言われています。
しかしながら、小松姫の死後も、2人は離れた場所で書簡のやり取りをしているため、小野お通は真田信之の側室にはならなかったという説が一般的です。
真田勘解由家(さなだかげゆけ)には、1622年(元和8年)、真田信之が国替えで、上田城から松代城へ移動することが決まった際に、小野お通に宛てた手紙が現存しています。内容は、小野お通が真田信之に宛てた見舞状の返書として「松代は多くの名勝があるところです。一度遊びに来て欲しい」というもの。真田信之が小野お通に思いを寄せていたかどうかは分かりませんが、2人は仲が良く、気心の知れた関係であったことが推察されます。
1615年(元和元年)、大坂冬の陣での活躍で、徳川家康により徳川方に寝返るよう誘いを受けていた「真田信繁/真田幸村」(さなだのぶしげ/さなだゆきむら)を説得するため、兄の真田信之は弟と面会。しかし、真田信繁は兄の説得にも応えず、この面会は真田信之・真田信繁兄弟の今生の別れとなった逸話があります。一説では、この面会の助力をしたのが小野お通であったと言われているのです。
のちに、徳川秀忠から真田信之が真田信繁に面会したことを咎められた際、小野お通が徳川家康から受け取った、真田兄弟の面会を依頼する書簡を保管していたため、不問となったという話もあります。
小野お通の娘である「小野お伏」(おののおふせ)のちの「宗鑑尼」(そうかんに)は、幼い頃より親交があったと言われる、真田信之の次男「真田信政」(さなだのぶまさ)のもとに側室として嫁入り。そして、のちの真田勘解由家の祖となる「真田信就」(さなだのぶなり)を生みます。
小野お伏は当初、息子に「真田」を名乗らせることを断っていたと言いますが、真田信政の根気強い説得により、真田家の分家として真田勘解由家が成立しました。そののち、真田家宗家の嫡流の早世が重なり、真田信就の7男「真田信弘」(さなだのぶひろ)が真田家宗家に養子へ入り、真田家を継ぐことに。
小野お通は真田信之の側室とはなりませんでしたが、死後に小野お通の血流が真田家へ入り、真田信之と小野お通は親類となったのです。