戦国時代の姫・女武将一覧

光姫(櫛端光)
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光姫(櫛端光) 光姫(櫛端光)
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「黒田官兵衛」(別名:黒田如水・黒田孝高)と言えば、「織田信長」や「豊臣秀吉」、そして「徳川家康」という戦国時代の覇者である「三英傑」(さんえいけつ)に仕えて重用され、「軍師」としても高く評価された戦国武将のひとり。そんな黒田官兵衛は愛妻家としても知られており、その妻の名は「光姫」(てるひめ/みつひめ)と言いました。今回は、黒田官兵衛の活躍を陰ながらに支え続けた妻、光姫の生涯をご紹介します。

光姫の誕生と黒田家に嫁ぐまで

光姫(櫛端光)のイラスト

光姫(櫛端光)

「光姫」(てるひめ/みつひめ)は、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)を治めていた守護大名の赤松家に仕える重臣・櫛橋家(くしはしけ)の娘として、1553年(天文22年)に生まれました。

父は「志方城」(しかたじょう:現在の兵庫県加古川市)城主「櫛橋伊定」(くしはしこれさだ)で、母は不明。

光姫には、兄の「櫛橋政伊」(くしはしまさこれ)や姉の「妙寿尼」(みょうじゅに)など、7人の兄妹がいました。

光姫は15歳のときに、8歳上の「黒田官兵衛[黒田孝高]」(くろだかんべえ/くろだよしたか)と結婚。

この頃の黒田官兵衛は、赤松家の配下にあった小寺家の家臣となっており、この結婚をきっかけに、父の「黒田職隆」(くろだもとたか)より黒田家の家督を譲られています。

1568年(永禄11年)には、光姫と黒田官兵衛の間に、長男「松寿丸」(しょうじゅまる)のちの「黒田長政」(くろだながまさ)が誕生しました。

戦乱に巻き込まれる黒田家

織田信長の台頭で揺れる播磨

松寿丸が生まれたその頃、「織田信長」は室町幕府の再興に奮闘していた、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)の上洛の願いを聞き、その警護にあたろうとしていました。しかし、実は織田信長は天下統一を果たすために、足利義昭を利用しようとしていたのです。

そのような経緯のなかで織田信長が目を付けたのが、京都から近い播磨の地。さらに、織田信長は九州や四国なども手に入れたいと考えていました。ところが、播磨周辺には中国地方の覇者である「毛利元就」(もうりもとなり)が控えていたのです。

黒田官兵衛

黒田官兵衛

そして1569年(永禄12年)、黒田官兵衛に初めてのピンチが訪れます。

黒田家と龍野赤松家(たつのあかまつけ)の間で、「青山・土器山の戦い」(あおやま・かわらけやまのたたかい)が勃発したのです。

そこで、赤松家本家12代当主の「赤松義祐」(あかまつよしすけ)は、「小寺政職」(こでらまさもと)に出陣を命じます。

このとき黒田家は小寺家に属して戦いますが、小寺政職は「置塩城」(おきしおじょう:現在の兵庫県姫路市)に籠城してしまい、わずか300の兵の黒田軍は孤立してしまいました。

しかし、黒田官兵衛の策で奇襲攻撃などを仕掛け、黒田軍は何とか撤退に成功。同じく撤退した龍野赤松軍が土器山に陣を張り、黒田軍に夜襲を仕掛けたのです。黒田軍は、これに屈することなく反撃し、最終的には黒田軍が勝利を収めました。

この戦いのあと黒田家は織田信長に謁見し、赤松家と小寺家と共に織田信長の配下に入っています。また、この頃すでに黒田官兵衛は「豊臣秀吉」とも面識があり、豊臣秀吉の手配により、織田信長への謁見が実現したのです。

夫と息子の安否を案ずる光姫

織田信長の配下に付いたことで、黒田家には様々な敵が増え、いくつもの合戦に参陣します。1577年(天正5年)に「親織田派」である小寺軍と毛利水軍が対峙した「英賀合戦」(あがかっせん)では、黒田官兵衛が立てた作戦により船を奇襲したうえで、近隣の農民達にを大量に持たせ、援軍が来たように見せかけました。これにより、毛利水軍を撤退させることに成功したのです。

この戦いにおける武功を織田信長も認め、中国征伐を命じた豊臣秀吉の配下に、黒田家と小寺家を置くことを決めます。黒田官兵衛は、織田信長と豊臣秀吉への忠誠の意志を示すために居城の「姫路城」(現在の兵庫県姫路市)を豊臣秀吉に譲り、まだ10歳であった息子・松寿丸を人質として豊臣秀吉に差し出したのです。

ねね(高台院)

ねね(高台院)

このとき、松寿丸の面倒を見ていたのが、豊臣秀吉の妻「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)でした。

豊臣秀吉とねねは、子宝には恵まれませんでしたが、その分、人質の子ども達を我が子のように可愛がっています。

そんななかで、黒田官兵衛は豊臣秀吉の参謀として、各地を飛び回るようになっていましたが、夫と息子の帰りをひとりで待つ光姫に災難が降りかかりました。

光姫の実家である櫛橋家が毛利方に寝返り、それに呼応するかのように小寺家、そして織田家の家臣であった「荒木村重」(あらきむらしげ)が、反旗を翻したのです。

そこで黒田官兵衛は、荒木村重を説得するため「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)に単身で乗り込みます。しかし拘束されてしまい、そのあと1年近く音信不通となってしまったのです。

このことが原因で、黒田官兵衛も謀反の嫌疑を掛けられることになり、織田信長は松寿丸を殺すように「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)に命じます。ところが、竹中半兵衛の機転によって松寿丸は匿われ、命を救われたのです。一方で、光姫の兄・櫛橋政伊は織田家に敗北し自刃。

夫は行方不明であり、さらに息子は殺されたかもしれない状況下で、光姫は不安なまま、ひとりの時間を過ごすしかなかったのです。

軍師になった夫と帰りを待つ光姫

1年の幽閉生活を送っていた黒田官兵衛は、家臣達に救い出されて謀反の嫌疑も晴れ、息子の松寿丸も姫路に帰って来ました。しかし、この頃の黒田官兵衛は、ようやく播磨を平定した豊臣秀吉の軍師として中国征伐を行なっていたため、姫路で家族と過ごす時間はほとんどありませんでした。

そのような状況のなかで、光姫と黒田官兵衛は1582年(天正10年)、15年ぶりに子宝に恵まれ、次男「黒田熊之助」(くろだくまのすけ)が誕生します。同年、世間では時勢を揺るがす大事件「本能寺の変」が起きて家臣であった「明智光秀」の謀反により織田信長は、この世から突如去ってしまいました。

このときの黒田官兵衛は、豊臣秀吉と共に現在の岡山県岡山市にあった「備中高松城」(びっちゅうたかまつじょう)へ侵攻している真っ最中。本能寺の変が起きた翌日に、織田信長の死を知った黒田官兵衛は、これを好機として豊臣秀吉に京都へ戻るように進言します。これにより豊臣秀吉は「中国大返し」を果たして、明智光秀を討つことができたと伝えられているのです。

光姫が30代になると、黒田官兵衛は豊前国(ぶぜんのくに:現在の福岡県東部)に領土を与えられますが、同国は息子の黒田長政に任せ、光姫と黒田官兵衛は大坂の「伏見屋敷」で暮らしています。

そんななか、1597年(慶長2年)に、光姫と黒田官兵衛にとって悲しいできごとが起こりました。それは、次男・黒田熊之助が亡くなってしまったこと。「慶長の役」(けいちょうのえき)のために朝鮮へ出兵していた父と兄を追って、黒田熊之助は、留守を任されていた「中津城」(なかつじょう:現在の大分県中津市)から脱出。朝鮮へ向かおうとした船が転覆し、わずか16歳の黒田熊之助は、海のなかに消えてしまったのです。

陰ながら夫を支え続けた光姫

徳川家康」が天下を取ることを決定付けた、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」。その直前、大坂に残されていた光姫は「石田三成」率いる西軍が、大坂にいる諸大名の妻子を、人質にしようと画策していたことを知って逃亡。家臣達の助けにより、中津城まで辿り着くことができました。

一方で、黒田官兵衛は天下のチャンスを狙っていたのか、徳川家康と石田三成に対して領土安堵の密約を結んでいます。さらには、近隣の農民達に金を下賜することで自軍の兵になって貰い、大軍を作って準備をしていたのです。

また、同合戦において息子の黒田長政は、徳川方に属しています。そして最終的に、徳川家康が天下人となると、黒田長政の武功により筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県西部)に52万石を与えられ、黒田官兵衛も完全に隠居して福岡で光姫と暮らすことができました。

しかし、体調が芳しくなかった黒田官兵衛は、伏見に湯治へと向かったまま59歳で亡くなりました。これに伴って光姫は出家し、「照福院」(しょうふくいん)と号します。光姫は浄土宗の信者でしたが、黒田官兵衛はキリシタンだったため葬儀は宣教師によって行なわれたのです。

結婚生活のほとんどを夫と過ごせなかった光姫でしたが、夫の代わりに黒田家を守っていたことで、黒田官兵衛の心の支えになっていたと考えられます。そして黒田官兵衛も、最愛の妻がいたからこそ過酷な状況のなかでも様々な知恵や策を用いて、黒田家を存続させることができたのかもしれません。

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