「督姫」(とくひめ)は「徳川家康」の娘として生まれ、北条氏に嫁ぎます。しかし、北条氏滅亡により徳川家に戻り、今度は池田家へ嫁ぐことになりました。波乱万丈の人生を歩んだ督姫でしたが、最終的には9人もの子どもを生んだ「肝っ玉母さん」です。ここでは、徳川家康の娘として生まれた督姫の生涯について「言経卿記」(ときつねきょうき)や「徳川実紀」(とくがわじっき)、「池田氏家譜集成」(いけだしかふしゅうせい)などの歴史資料をもとに紐解きます。
1582年(天正10年)の「本能寺の変」で「織田信長」が横死すると、甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)や信濃国(しなののくに:現在の長野県)が無主状態になりました。これを機に、督姫の父・徳川家康は北条氏直と甲信地方の領土争いを始めます。
当時、徳川氏と北条氏を比べると、国力や兵の動員数は北条氏が上でした。しかし、信濃国の豪族を取り込むことについては、徳川氏が一枚上手だったと言われています。このように両者の力は伯仲しており、戦うとすれば両者ともに大きい打撃を受けると考えられていました。
そこで、旧織田領の甲斐と信濃は徳川氏、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)を北条氏が治めることで和睦します。その証として1583年(天正11年)、督姫が北条氏直の正室として嫁ぎました。
督姫の祖母は「今川義元」の妹にあたります。昔から北条家は、今川家と婚姻を繰り返していたため、今川の血を引く督姫は徳川家からの人質という扱いではなく、北条家の一員として素直に受け入れられました。
政略結婚ではありましたが、督姫と北条氏直の夫婦仲は良く2人の女児に恵まれます。そのまま順風満帆な生活が続くと思われた矢先、四国と九州を平定した「豊臣秀吉」から、北条氏直とその父「北条氏政」(ほうじょううじまさ)に上洛命令が下りました。
これにしたがうことは、北条氏が豊臣家にしたがうことを意味するため、北条氏政親子は上洛を引き延ばします。督姫の父・徳川家康も、北条氏直と北条氏政へ翻意するよう交渉しましたが、うまくいかず、1590年(天正18年)に豊臣秀吉は「小田原の役」を開始したのです。
同年7月、北条氏は豊臣秀吉に降伏し「小田原城」(現在の神奈川県小田原市)を開城。
督姫の夫・北条氏直は義父・徳川家康による助命嘆願によって、助命されたものの高野山へ流罪となり、謹慎生活を送ります。
豊臣秀吉は、すぐに北条氏直を赦免。1591年(天正19年)に河内国(かわちのくに:現在の大阪府)1万石を与えました。
督姫は北条氏直のもとへ赴きますが、北条氏直は敗北による精神的ショックから立ち直れず病に伏せたまま死亡し、北条氏は断絶となりました。
これを機に督姫は、父・徳川家康の下に戻ります。督姫に悲しいできごとは続き、1593年(文禄2年)に北条氏直との間に授かった2人の女児のうち「摩尼姫」(まにひめ)を亡くしました。
夫・北条氏直と娘の摩尼姫との死別も経験するなど、短期間に悲しいできごとが続いた督姫でしたが、豊臣秀吉の命で2回目の結婚をすることとなります。その相手は、徳川家と因縁のある池田家でした。この再婚によって督姫は、池田家へ繁栄をもたらしたのです。
1594年(文禄3年)に豊臣秀吉の肝いりで、督姫は三河(みかわ:現在の愛知県東部)15万石の吉田城主「池田輝政」(いけだてるまさ)に嫁いだのです。このとき、北条家伝来の「酒呑童子絵巻」(しゅてんどうじえまき)と「後三年合戦絵詞」(ごさんねんかっせんえことば)を持参。
池田輝政には、すでに中川家から迎えた正室「糸姫」(いとひめ)がいましたが、産後の肥立ちが悪かったことを理由に離縁し、継室として督姫を迎えました。
結婚後、池田輝政・督姫夫妻は池田輝政と糸姫の間の子である長男の「池田利隆」(いけだとしたか)の正室に、督姫と北条氏直の娘「万姫」を嫁がせるべく許嫁(いいなづけ)とします。
ところが万姫は、1602年(慶長7年)に病気で亡くなってしまいました。
督姫と池田輝政の仲は非常に良く、万姫の死を乗り越えながら5男2女に恵まれます。
また、武将としての池田輝政は「関ヶ原の戦い」前夜に「岐阜城」(現在の岐阜県岐阜市)に立てこもっていた、「織田秀信」(おだひでのぶ)を下すなど活躍。
合戦後には、督姫の父・徳川家康の娘婿として播磨国姫路(はりまのくにひめじ:現在の兵庫県姫路市)52万石へ転封され、初代姫路藩主になり、国持ち大名として政治的地位を獲得すると共に、従四位下(じゅしいげ)、右近衛権少将(うこのえごんしょうしょう)に任じられました。
関ヶ原の戦い以降、徳川一門以外の大名において少将以上の任官は、1600年(慶長5年)に叙任された「福島正則」(ふくしままさのり)に次ぐできごとでした。この事実は、池田輝政が初期徳川政権において、重用されていたことを示しています。
さらに、1611年(慶長16年)には、二条城で義父・徳川家康と「豊臣秀頼」(とよとみひでより)との会合に同席。翌年には、正三位参議(しょうさんみさんぎ)と松平姓を許され「松平播磨宰相」(まつだいらはりまさいしょう)と称されました。徳川政権下において、徳川一門以外の大名が参議に任官されたことは、池田輝政が初めて。5人の息子達にも大禄が与えられ、池田家の石高は合計100万石となり、池田輝政は「西国将軍」と呼ばれるようになりました。
こうして繁栄を誇っていた池田家に事件が発生します。ある日、徳川から従えてきた老女が、督姫と池田輝政の前で「御当家の繁栄は、督姫君の御輿入れと御威光によるものです」と話したのです。
これに対し、池田輝政は「そうではない。池田輝政の軍功により督姫を妻にし、禄も増えた。妻の威光などではない」と叱り飛ばしたと言われています。しかし、直後に老女を密かに呼び寄せると「我が家の繁栄は、実はそなたの言う通り。だが、女は褒めれば付け上がる。妻の前では決して言うでない。」と頼んだとされているのです。
このエピソードから分かるように、督姫あっての大出世と考えていたことから、池田輝政は終生、督姫を大事に扱ったと伝えられています。
そのあと、1612年(慶長17年)1月に池田輝政は中風(ちゅうふう:脳血管の疾患)を罹患。同年8月には回復し、駿府(すんぷ:現在の静岡県)と江戸を訪れ徳川秀忠と拝謁し、播磨へ帰国しました。池田輝政が中風を患ったと聞いた徳川家康は、薬を遣わしましたが、その甲斐なく1613年(慶長18年)1月に姫路で亡くなります。享年50歳でした。
同年5月には夫・池田輝政の死去に伴い、督姫は駿府を訪れています。家督は、池田輝政と糸姫の間の子である池田利隆が継ぎました。そして1615年(慶長20年)、徳川家康の娘として絶大な影響力を維持したまま、督姫は41歳で亡くなります。
督姫と池田輝政との間に生まれた子供達は、督姫の絶大なる影響力により、ほぼ全員が歴史に名を残すこととなりました。徳川家康の威光を使ってでも、子供達のためを思い奔走した督姫の肝っ玉母さんぶりと共に、子ども達の人生を紹介します。
岡山城主「小早川秀秋」が亡くなると、督姫は強引に幕府を動かしました。
1603年(慶長8年)に、5歳の第1子「池田忠継」(いけだただつぐ)を岡山城主にし、池田輝政の嫡男・池田利隆を池田忠継の執政代行とします。
第2子「池田忠雄」(いけだただかつ)には、1610年(慶長15年)に9歳で淡路国(あわじのくに:現在の兵庫県)6万石を与え、「由良城」(ゆらじょう:兵庫県)の城主としました。
第3子「池田輝澄」(いけだてるずみ)は6歳、第4子「池田政綱」(いけだまさつな)は7歳で、徳川家康より松平姓を下賜されています。
督姫が再婚した池田輝政には、すでに正室の糸姫や側室との間に池田利隆をはじめ、「池田政虎」(いけだまさとら)、「池田輝高」(いけだてるたか)、「池田利政」(いけだとしまさ)ら4人の男児がいました。しかし、督姫は第1子の池田忠継を生んだ際、池田忠継を次男とします。
5人の男児を生んだ督姫は、長男こそ池田輝政の嫡男・池田利隆としましたが、次男に池田忠継、三男に池田忠雄、四男に池田輝澄、五男に池田政綱、六男に「池田輝興」(いけだてるおき)としました。次いで池田輝政と側室との間に生まれた子で、年齢では次男に当たる池田政虎を七男とします。同様に年齢では、三男に当たる池田輝高を八男、同じく四男に当たる池田利政を九男として扱いました。
このように、督姫は徳川家康の威光を背景として、我が子の処遇を決めていきます。督姫がこのような行動に出た要因として、先に嫁いだ北条氏の末路を目の当たりにしたことが、大きいと言われているのです。
事実、督姫や徳川家康の死後、江戸幕府では新しい体制が構築されました。「姫路城」(ひめじじょう:現在の兵庫県姫路市)は外様の池田家ではなく、徳川譜代の酒井家、本多家、松平家が城主となり、池田家は鳥取へ移封となったのです。
もっとも、池田輝政の系譜に当たる池田家は、徳川家康の娘・督姫の血筋であったことから、他の外様大名より高い家格を与えられています。督姫の影響力の大きさを示すこととなりました。
督姫と池田輝政の息子達は、全員藩主となり国を治めています。
第1子の池田忠継は、5歳で備前国岡山(びぜんのくにおかやま:現在の岡山県岡山市)28万石に入封。執政代行として異母兄・池田利隆が岡山城へ入り、池田忠継は姫路城に留まりました。のちに16歳となった池田忠継は、父の遺領のうち、母・督姫の化粧料だった西播磨10万石を分与され、計38万石を領します。
第2子の池田忠雄は、7歳で元服。9歳で淡路洲本城(あわじすもとじょう:現在の兵庫県洲本市)に6万3,000石を領しました。政務は重臣が行ない、池田忠雄は姫路城に留まります。岡山藩主であった兄・池田忠継が17歳で早世したことから、岡山藩の跡を継ぎました。これにより、洲本藩は廃藩となります。岡山城へ入ることとなった池田忠雄は、池田忠継の遺領38万石から、督姫の化粧料10万石を兄弟に分与しました。
第3子の池田輝澄は、兄の池田忠継が早世し、遺領から播磨国宍粟郡(しそうぐん)3万8,000石を分与され、山崎藩主に。また従四位下に昇進し、侍従に任じられます。弟・池田政綱の死後、新たに播磨国佐用郡(さよぐん)3万石を与えられ、6万8,000石となりました。
第4子の池田政綱は、兄の池田忠継死去に伴い、遺領の3万5,000石を分与され、赤穂藩を立藩。従四位下に昇進し、藩の基礎を固めるなど若くして手腕を見せました。
第5子の池田輝興は、兄の池田忠継が死去すると、遺領から佐用郡など2万5,000石を分与され平福藩(ひらふくはん)の藩主となります。しかし幼少だったことから、藩政は家臣団によって執り行なわれました。成長してからは従五位下、右近大夫に叙任されます。藩政においても民政安定化に尽力し、赤穂藩主であった兄の池田政綱が亡くなると、跡継ぎがいなかったことから一時的に改易されます。しかし、徳川家康の外孫にあたるため、幕命で特別に池田輝興が赤穂藩主となることが許されました。その際、1万石を加増され3万5,000石となり、従四位下を叙任します。
息子達だけでなく、娘達もまた藩主の正室として生きました。娘は「千姫」(せんひめ)と「振姫/孝勝院」(ふりひめ/こうしょういん)の2人です。
長女の千姫は、丹後国宮津藩(たんごのくにみやづはん:現在の京都府宮津市)の2代目藩主であった、「京極高広」(きょうごくたかひろ)の正室となり、3代藩主「京極高国」(きょうごくたかくに)を生みました。
次女の振姫は仙台藩の2代目藩主、「伊達忠宗」(だてただむね)の正室になります。「伊達光宗」(だてみつむね)ら2男1女を儲けました。伊達光宗は19歳で早世したため、側室だった「貝姫」(かいひめ)の息子で、振姫の養子となった「伊達綱宗」(だてつなむね)が仙台藩の3代藩主となります。