戦国時代において、天下統一を果たしたことで有名な武将「豊臣秀吉」。彼は、通称「なか」漢字表記で「仲」と呼ばれる「大政所」(おおまんどころ)により、この世に生を受けました。大政所は、1度目の夫を亡くしましたが、そののち「織田信秀」(おだのぶひで)に仕えていたと伝わる「竹阿弥」(ちくあみ)と婚約し、「豊臣秀長」(とよとみひでなが)と「朝日姫」(あさひひめ)を生んでいます。
豊臣秀吉が天下の覇者となったそのときまで、側に居続けた大政所。今回は、豊臣秀吉を支えた彼女の歴史や、成してきたことについて解説します。
「なか」は、1513年(永正10年)に尾張国愛知郡御器所村(おわりのくにあいちぐんごきそむら:現在の愛知県名古屋市昭和区)にて誕生。
美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)の刀工「関兼定」(せきのかねさだ)の娘とも言われていますが、その真相は定かではありません。
織田家の足軽(または雇い兵)として、もしくは農民として働いていたとも言われる「木下弥右衛門」(きのしたやえもん)のもとに嫁いだ「大政所」(おおまんどころ)は、1534年(天文3年)に「日秀尼」(にっしゅうに)を、1537年(天文6年)には「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)のちの「豊臣秀吉」を生んだと伝えられています。
貧しいながらも幸せに過ごしていた家族でしたが、1543年(天文12年)、夫である木下弥右衛門が亡くなってしまったのです。
そのあとは、織田家に仕えていた「竹阿弥」(ちくあみ)と再婚することとなり、2人のあいだに「豊臣秀長」(とよとみひでなが)と「朝日姫」(あさひひめ)を授かったと言われています。
ここでできた織田家との繋がりがなければ、豊臣秀吉は「織田信長」と出会うことがなかったのかもしれません。織田信長に仕え、のちに出世を果たした豊臣秀吉の母・大政所は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、激動の時代を生き抜いてきた女性だったのです。
竹阿弥の出生については、詳しい記録は残されていません。一説には、戦場で負傷した木下弥右衛門が出家し、竹阿弥と名前を変えたとも伝えられていますが、その詳細ははっきりとは分かっていないのです。
「織田信秀」(おだのぶひで)の「同朋衆」(どうぼうしゅう:主君の側近くに仕え、芸能や茶事などを行なった僧の姿をした者)であったと言われている竹阿弥ですが、大政所との出会いなどについても、明らかにはされていません。
このように謎の多い竹阿弥は、豊臣秀吉が大きく出世したときには、すでに亡くなっていたと言われています。2人の夫に恵まれた大政所でしたが、両者とも死別してしまうという辛い人生を歩んできたのです。
下層民であった木下弥右衛門と大政所のあいだに生まれた豊臣秀吉。
子どもの頃から、下層民として一生を終えるのではなく、出世して自身の名を広めたいと考えていました。
しかし、豊臣秀吉は2番目の父親と言われている竹阿弥とは考えが合わなかったのか、15歳の若さで家を飛び出しています。
このとき豊臣秀吉は、まだ名前を木下藤吉郎と名乗っており、今川家の陪臣(ばいしん:家臣に仕える家臣)として仕えたあとに、織田信長の家来として働き始めたのです。
織田信長の家臣として働いた木下藤吉郎は、機転の利いたアイデアでどんどん出世をしていきます。織田信長の草履を、自身の懐に入れて温めておいたと言うかの有名な逸話も、木下藤吉郎ならではの策略と言えるでしょう。
木下藤吉郎は、実際に織田信長に気に入られ、その右腕として織田家の勢力拡大に力を尽くしました。そして、出世を果たした木下藤吉郎は「羽柴秀吉」(はしばひでよし)と名前を変え、「長浜城」の城主となったのです。
それ以降の羽柴秀吉は、正室「おね」(北政所)と仲良く暮らしたと言われています。
織田信長に好かれていた豊臣秀吉が、織田信長のことを崇拝していたことは明らかでした。豊臣秀吉は、主君である織田信長に、将来的には自分の力のすべてを捧げるぐらいの意気込みで、戦に参陣していたのです。
しかしそんな矢先、織田信長が1582年(天正10年)に勃発した「本能寺の変」において、家臣であった「明智光秀」の謀反によって襲撃され、自害してしまいます。
このときの織田信長は、中国地方を討伐中であった豊臣秀吉を援助するために、出陣していた最中でした。明智光秀も、その中国征伐の友軍として招集命令が下っており、豊臣秀吉がいない今が絶好の機会だと考え、本能寺の変を企てたのかもしれません。
そして、織田信長は急襲に耐え切れず、本能寺に火を放って自刃。天下統一の夢を果たせず、この世を去ってしまったのです。豊臣秀吉にとって、忘れられない大事件となってしまいました。
本能寺の変が起こった際には、豊臣秀吉の妻である北政所と大政所は共に、伊吹山(いぶきやま)の山麓にある「大吉寺」(だいきちじ)へと逃げ込みました。これは、明智光秀の残党による襲撃を恐れての行動だったのでしょう。早めに逃げたこともあって、難を逃れることに成功したのです。
中国討伐から帰って来た豊臣秀吉は、織田信長が討たれたことに憤怒し、明智光秀の討伐に全力を注いだと言われています。その結果、「山崎の戦い」にて明智光秀は大敗し、小栗栖(おぐるす:現在の京都市伏見区)で殺害されてしまうのです。
天下統一を目指した豊臣秀吉は、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて「大坂城」(現在の大阪城)を築城。そして、完成した同城に正室・北政所と母親の大政所を住まわせたのです。
そののち、豊臣秀吉が関白に就任した際には、大政所に「従一位」(じゅいちい)と言う異例の高位を与えられています。これは、大政所が豊臣秀吉の母親であったことが、その背景にあったと推測されており、このときから大政所の生活は、大きく変化していくのでした。
従一位の官位を授かったと同時に、なかと言う名前から大政所と呼ばれるようになったのです。大政所とは、関白である人物(ここでは豊臣秀吉)の母親に対して、天皇が贈る尊称のことを意味します。
織田信長に尊敬の念を持ち、出世を狙っていた豊臣秀吉。彼は、優しい性格でありながら、実は冷血な人間であったとも歴史上で語られています。
なぜなら、出世のためには手段を選ばないときもあれば、権力のある人物を懐柔(かいじゅう:上手く手懐け、自身の思う通りにすること)するためには、自分の身内を捧げる手段を採っていたからです。
例として、「徳川家康」を抱き込むことを企てた豊臣秀吉は、妹である朝日姫を側室として送り込むにとどまらず、自分の母親である大政所をも、その人質として、徳川家康に送り込みました。
豊臣秀吉に屈することを避けていた徳川家康でしたが、ここまでされてしまうとどうしようもありません。仕方なく重い腰を上げ、属従する決断をしたのです。
そののち、大政所は約1ヵ月の人質生活を終え、大坂城へと戻ってきています。ただ、大政所はもともと体調を崩しやすく、このときから、しばしば病気がちになってしまいました。
戦国時代において人質になることは、お互いの家同士の関係をより深いものにしていくという意味合いが込められています。同じような事柄には政略結婚などがありますが、結婚した当事者同士が上手くいけば問題ありません。
しかし、家同士がもし争いになった場合には、真っ先に人質に危害が及んでしまう可能性が出てきてしまうのです。嫁や人質として他の家に行くことは、そう言った危険性を含んでおり、見せしめとして殺されてしまうことも、戦国時代においては多々ありました。
そんななか、人質になった大政所や側室として嫁いだ朝日姫は、そうした覚悟ができていたのでしょう。覚悟を伝えたからこそ、徳川家康は豊臣秀吉に懐柔されることを承諾し、自ら属従するという結末を選んだのです。
ただ、女性側としては何もしない訳ではなく、良き妻でありながら良き人質として動き、両方の架け橋的存在へとなっていこうと努力していきます。戦国時代においては、女性にも女性なりの戦い方があり、誇りを持って乱世を生き抜いていったのです。
1587年(天正15年)になると、豊臣秀吉の政庁兼邸宅となる「聚楽第」(じゅらくてい/じゅらくだい)が、京都に完成しました。豊臣秀吉らは、大政所と共に聚楽第へ居を移したと伝えられていますが、病気がちだった大政所は、豊臣秀吉を聚楽第に置いて大坂城へと戻ります。
大政所は、もともと体が弱かったということもありますが、病気は悪化の一途を辿ることとなりました。1588年(天正16年)、大政所への見舞いに訪れた朝日姫は、一度は徳川家康のいる駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部)に帰国したものの、再び戻り、聚楽第に住んだとされているのです。
聚楽第に住み始めた朝日姫でしたが、1590年(天正18年)、享年47歳で亡くなりました。
朝日姫は、徳川家康の側室でもあったことから、「小田原の役」(おだわらのえき)の最中にもかかわらず、「東福寺」(とうふくじ:京都府京都市)に葬ったと伝えられています。
このときにはまだ、大政所は存命であったので、娘が先に亡くなってしまったことに対して気落ちをしてしまったことでしょう。そのあとも大政所は、何度も病気と闘う生活を続けることとなったのです。
朝日姫が亡くなったことにより、大政所の心情は複雑なものとなっていきました。豊臣秀吉に対して、さらなる体調不良を訴えるようになったのです。
そして、自分の身に危険が迫っていると感じたのでしょう。大政所は、豊臣秀吉に対して「自分の墓を作って欲しい」と願い出ています。自分の母親が危篤状態であることを案じた豊臣秀吉は、母親のために土地を探し、大政所専用のお寺の建築を始めました。
このお寺は、1590年(天正18年)8月には完成しましたが、そのときには大政所の体調も良くなっており、お墓を準備する必要がなくなったのです。
豊臣秀吉が母親のためを思い、一生懸命に作ったお墓でしたが、大政所の体調が戻ったことを大変喜んだと言われています。これは、豊臣秀吉がどれだけ深く母親のことを愛していたのかが窺える逸話です。
一度は体調が良くなった大政所でしたが、1591年(天正19年)に息子である豊臣秀長が、病気で亡くなったことを知らされます。朝日姫に続き、豊臣秀長までもが亡くなったことが大政所の身体に、さらに負担を掛けてしまったのか、再び体調を崩し、とうとう死の間際まで病気が進んでいました。
この頃、豊臣秀吉は肥前国名護屋(ひぜんのくになごや:現在の佐賀県唐津市)におり、「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)に京都を預けていました。しかし、豊臣秀次は豊臣秀吉に心配をかけまいと、大政所の状況について連絡することを躊躇ってしまうのです。
なんとか最善を尽くした豊臣秀次でしたが、時すでに遅し。意を決して大政所が重篤であることを伝え、豊臣秀吉が急いで上洛している最中に、大政所は享年77歳で聚楽第で亡くなってしまいました。このとき、大きな衝撃を受けた豊臣秀吉は、卒倒してしまったと言われています。
そののち、大政所の遺骨は京都の「大徳寺」(だいとくじ)内にあった「天瑞寺」(てんずいじ)の寿塔(じゅとう:生前に建てておく塔婆[とうば])に納められました。こうして大政所は、天下統一を果たした息子を愛した母親としてその生涯を終え、現世に名を残していったのです。