「早川殿」(はやかわどの)は「海道一の弓取り」と称され、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部、北東部)を中心に勢力を拡大した「今川義元」(いまがわよしもと)の嫡男「今川氏真」(いまがわうじざね)の正室です。今川家と北条家における政略結婚でありながら、両家が決裂しても離縁することなく、最期まで添い遂げた2人は、戦国時代のおしどり夫婦として知られています。愛を貫き、戦国の世を生き抜いた早川殿の生涯を史実と共にご紹介します。
「早川殿」(はやかわどの)は、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)を治めた戦国大名「北条氏康」(ほうじょううじやす)の娘です。
出生年や生母、実名などは明らかになっていませんが、北条氏康とその正室「瑞渓院」(ずいけいいん)の長女であったと考えられます。
早川殿は、1554年(天文23年)「今川氏真」(いまがわうじざね)が、17歳のときに姉女房(夫よりも年上の妻)として嫁入りし、5人(男4人、女1人)の嫡子を儲けました。
駿河国の今川家と相模国の北条家は、もともと「駿相同盟」を結ぶなど、良好な関係でした。
しかし、1537年(天文6年)に、今川義元が北条家と敵対関係にあった甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)の「武田信玄」と「駿甲同盟」を結んだことから、両家の関係が悪化。1537年(天文6年)、ついに北条家が今川領に攻め入り、「河東の乱」(かとうのらん)に発展していきます。今川軍には武田家の援軍があったものの、戦いは10年間にも及びました。
本来、武田家は北部へ、北条家は東部へ、今川家は西部へ向けて勢力を拡大したいというのが本心。そこで今川義元は、武田家・北条家と同盟関係を結び、関係の修復を図ります。
これが、戦国時代における和平協定として名高い「甲相駿三国同盟」(こうそうすんさんごくどうめい)です。
この同盟は、それぞれの嫡子を嫁がせる婚姻同盟であり、1552年(天文21年)に今川家の娘「嶺松院」(れいしょういん)が武田家へ、1553年(天文22年)に武田家の娘「黄梅院」(おうばいいん)が北条家へ、1554年(天文23年)に北条家の娘早川殿が今川家へ嫁ぎました。
三国同盟が結ばれたことで、武田家は信濃国(しなののくに:現在の長野県)全域へ、北条家は関東へ、今川家は尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)攻略に向けて、それぞれに勢力を拡大していくのです。
今川義元の死後、当主となった早川殿の夫・今川氏真。しかし父のような武人の器量はなく、領内でくすぶっていた不満が爆発し始めます。
なかでも今川氏真を苦しめたのが、家臣のひとり「松平元康」(まつだいらもとやす)のちの「徳川家康」です。
松平家の人質として今川家に預けられていた徳川家康は、今川義元死後の混乱に乗じ、松平家の居城「岡崎城」(現在の愛知県岡崎市)へ帰還。さらに、今川家の仇である織田信長と手を組み、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の「牛久保城」(うしくぼじょう:現在の愛知県豊川市)へ侵攻します。
今川氏真は、三河国を取り戻そうと乗り込むも、あえなく敗北。離反した国衆を誅殺するなど当主の意地をみせますが、窮状を脱するに至りません。また、窮地にしてなお、歌会や茶会を開く今川氏真の文化人気質も、今川家を衰退させた原因と言われています。
早川殿の実父・北条氏康を頼り伊豆「戸倉城」(とくらじょう:現在の静岡県)を経て、小田原・早川の屋敷に移り住んだ今川氏真と早川殿。なお、早川殿の名前はこの地名からきています。
1570年(元亀元年)には、長男「今川範以」(いまがわのりもち)が誕生しますが、その翌年の1571年(元亀2年)に、頼みの綱であった実父・北条氏康が死去。あとを継いだ早川殿の弟「北条氏政」(ほうじょううじまさ)は、今川家の宿敵である武田家と和睦し、今川氏真の殺害を画策します。
早川殿は、実の弟に裏切られ四面楚歌と言える状況。今川氏真は、今川家を滅亡へ導いた徳川家康を頼り、浜松へ身を寄せる決断をしました。生き延びるために恥もプライドも捨てた今川氏真。早川殿は、それでも離縁せず共に浜松へ移り住みます。
浜松では、今川氏真と早川殿の間に3人の男児が生まれました。実の家族の裏切りに耐え、苦難を乗り越えた2人の絆が見えるようです。しかし、武田家による今川氏真の暗殺の動きは止まず、その動きをいち早く察知した早川殿は、自身の知人を集めて船を手配し、今川氏真と共に浜松を脱したとの逸話も残っています。