「織田信長」を父に持ち、会津若松の礎を築いた「蒲生氏郷」(がもううじさと)に嫁いだ「冬姫」(ふゆひめ)。織田家の血を引き、明晰な判断力を持った冬姫は、乱世の波に揉まれながらも蒲生家に大きく貢献しました。ここでは、冬姫の生涯をご紹介します。
幼少期について詳しいことが分かっておらず、謎の多い冬姫ですが、1569年(永禄12年)当時、織田家の人質であった「蒲生氏郷」(がもううじさと)と婚姻を結びます。この婚姻の前年、近江六角氏の家臣であった「蒲生賢秀」(がもうかたひで)が織田家に臣従したことで、蒲生氏郷は織田家に人質として送られることとなったのです。
利発な少年であった蒲生氏郷に、才を見出した織田信長は自らの手で元服させます。「大河内城の戦い」で初陣を果たし、見事敵の首を討ち取ってみせた蒲生氏郷に、織田信長は次女・冬姫を与え、娘婿として織田家中に迎え入れました。
婚姻が結ばれた当時の年齢は、蒲生氏郷が14歳、冬姫が12歳(もしくは9歳)のこと。婚姻が済んだのち、冬姫は蒲生家の居所である近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の「日野城」に移りました。2人の関係は、戦国時代における夫婦のなかでも特に良好だったと伝わっています。息子と娘をひとりずつ(2人ずつの説もあり)授かり、蒲生氏郷は側室を娶りませんでした。
こののち、蒲生賢秀から家督を受け継いだ蒲生氏郷は当主となり、織田信長の後継として突出する「豊臣秀吉」に臣従。「小牧・長久手の戦い」や「小田原の役」などの合戦で活躍して武功を挙げ、豊臣秀吉の天下統一に貢献しました。
奥州の戦国武将「伊達政宗」、「南部信直」(なんぶのぶなお)らが小田原の役に遅参し、恭順の姿勢が認められなかったことにより、豊臣秀吉は奥州の諸大名らを減封し、領土仕置をします。
この「奥州仕置」によって、蒲生氏郷は1591年(天正19年)、伊達政宗が退いたのちの陸奥国会津(むつのくにあいづ:現在の福島県会津若松市)「黒川城」に配置換えとなりました。
蒲生氏郷はこの黒川城を、蒲生氏の家紋に因み「鶴ヶ城」(つるがじょう:現在の会津若松城)と名前を変更。
また、城下町も故郷の日野にあった「若松の杜」に因み、「会津若松」と改め、92万石の大大名となりました。
1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は朝鮮へ進攻。「文禄の役」に蒲生氏郷も出兵予定でしたが、朝鮮へ渡る前に体調を崩し、療養することになります。冬姫はもちろんのこと、蒲生氏郷を重用していた豊臣秀吉も、名医の手配をするなど精一杯のサポートをしましたが、1595年(文禄4年)40歳で夫・蒲生氏郷は死亡。
このとき、蒲生家の家督を継いだ、蒲生氏郷と冬姫の嫡男「蒲生秀行」(がもうひでゆき)はまだ13歳という若さであったため、蒲生家ではお家騒動が起こってしまいます。
このことが豊臣秀吉の耳に届き、蒲生秀行にはまだ統率する力が足りないとして、会津若松92万石の石高が、下野国宇都宮(しもつけのくに:現在の栃木県宇都宮市)12万石にまで減封されてしまいました。
このお家騒動は「蒲生騒動」と言われていますが、蒲生家減封の理由は蒲生秀行の統率力以外に、冬姫がかかわっていたとする説があります。
蒲生氏郷が亡くなった当時、冬姫はまだ30代でした。織田家の血筋には「美形」が多かったと言う通説があり、織田信長の娘であった冬姫も、美しい姫だったと言われています。
美しい未亡人であった冬姫に、大の女好きとして知られる豊臣秀吉が声を掛けないはずはなく、再三に亘って冬姫に上京を求めました。上京をすれば、豊臣秀吉の側室とされることを感じ取っていた冬姫は、剃髪し出家したのちに上京。出家をすれば側室とされることはないため、これを見た豊臣秀吉は怒り、蒲生家の所領を減封したのだとする説もあるのです。
しかし本来、夫が亡くなれば出家をすることは、当時では普通のことであったため、真相は定かではありません。夫以外に嫁ぐつもりはないという意思表示による機転であったとしても、夫婦の良好な関係性を考えれば頷ける話です。
この蒲生騒動により、冬姫は夫が築き上げた居所すら移動せざるを得なくなってしまいます。息子・蒲生秀行は「徳川家康」の三女「振姫」(ふりひめ)を妻とし「関ヶ原の戦い」では東軍に加勢。そのことで会津若松に再び戻ることができ、蒲生氏は60万石まで加増されました。
しかし、蒲生秀行は30歳という若さでこの世を去ります。蒲生家の家督は、10歳の冬姫の嫡孫「蒲生忠郷」(がもうたださと)が継ぎますが、わずか26歳でこの世を去りました。
このあと、蒲生秀行の次男「蒲生忠知」(がもうただとも)が家督を継ぎますが、石高は半分以上減らされ、伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)「松山城」へ移封。蒲生家が絶えなかったことに冬姫は安堵しましたが、蒲生忠知までもが早世してしまい、蒲生家の歴史は幕を閉じることとなってしまったのです。
冬姫の晩年は京都で過ごし、1641年(寛永18年)、冬姫は84歳(もしくは81歳)で死去。
冬姫のお墓は「知恩院」(ちおんいん:京都府京都市)に建てられました。
天下統一に手を掛けながらも、その途中で殺害されてしまった父や自分の夫、息子、孫までもの最期を看取り、蒲生家が途絶える瞬間を目の当たりにした冬姫の人生は、多くの悲しみを抱えた人生であったとも言えます。