「徳川家康」の寵愛を受けて育った養女「満天姫」(まてひめ)。しかし、江戸幕府を創設した人物の養女である満天姫は、幸せばかりの人生ではありませんでした。政略結婚や家督争いによる多くの試練が待ち受けています。満天姫がどんな道を歩んできたのかをご紹介します。
「満天姫」(まてひめ)は、戦国武将「松平康元」(まつだいらやすもと)の娘として誕生しました。
松平康元の母は「於大の方」(おだいのかた)という人物。於大の方は、夫「松平広忠」(まつだいらひろただ)が亡くなると、実家である水野家の指示で松平家から離縁させられてしまいます。
そののち、於大の方が「久松俊勝」(ひさまつとしかつ)に再嫁し、その久松俊勝と於大の方の間に産まれた子が、松平康元です。
また、於大の方の子として松平康元の他に有名な人物といえば「徳川家康」。松平康元と徳川家康は異父兄弟にあたります。
つまり満天姫は徳川家康の姪であり、のちに満天姫は徳川家康の養女となりました。
1598年(慶長3年)に「豊臣秀吉」が亡くなると、まだ幼い豊臣秀吉の遺児「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を誰が支えるか「五大老」内で意見が対立します。
豊臣秀頼を支える人物こそが豊臣政権の中心となるからです。
五大老とは、豊臣政権内で中枢を担っていた、徳川家康、「毛利輝元」(もうりてるもと)、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)、「前田利家」、「宇喜多秀家」の5人のこと。さらに、豊臣政権で政務を司る「文治派」と、戦働きを得意とする「武断派」に分かれて対立は激化します。
このとき、五大老のなかでも多くの石高と兵力を持っていた徳川家康は、豊臣政権を掌握しようと画策。その策のひとつとして、武断派の諸将達を仲間に引き込むことを考えました。
そこで徳川家康は、武断派のなかでも実力のある「福島正則」(ふくしままさのり)の息子と、徳川家康の養女となっていた満天姫との婚儀を計画。
1599年(慶長4年)に11歳となった満天姫は、福島正則の息子「福島正之」(ふくしままさゆき)に嫁ぎました。そこには、豊臣家の有力家臣であった福島正則を味方に付けたいという、徳川家康の目論見が潜んでいたのです。
満天姫の嫁ぐ相手である福島正之は、福島正則の実子ではありません。
福島正則は、長男を幼い内に亡くしており、そのあとも男子に恵まれませんでした。
そのため、跡継ぎとして姉婿「別所重宗」(べっしょしげむね)の息子を養子に貰います。
しかし、満天姫が嫁ぐ前年の1598年(慶長3年)に、福島正則に男子が誕生。幼名を、福島正則と同じ「市松」(いちまつ)と名付けられ、市松は父から目一杯可愛がられて育ちます。福島正則は、実子である市松が生まれたことで、市松を跡継ぎにしたいと考えるようになりました。
しかし、福島正則はすでに養子の福島正之を嫡子に定めており、その上、徳川家から満天姫を迎えています。徳川家の手前、市松に家督を継がせる訳にはいかず、福島正則の思惑通りに物事を進めることができずにいました。
そのような複雑な状態のまま数年が過ぎ、満天姫と福島正之との間に男子が生まれます。嫡子の子であるため、いずれ福島家の後継者になる子です。満天姫と福島正之は大いに喜びましたが、福島正則はますます憂鬱な気持ちを膨らませていきました。
福島正之は、養父・福島正則が自分を疎んじていることに気付きはじめ、苛立ち心が荒れていきました。正常な心理状態を保てなくなった福島正之は、突然通行人に鉄砲を向けて発砲、そして福島正則の葬儀の真似をするなどの奇行に走るようになります。
1607年(慶長12年)に福島正則は、福島正之の様子を「近頃は乱行を行なうなどして狂疾である」(近頃、粗暴な行ないが増え様子がおかしい)として江戸幕府に直訴。福島正則としては、この機に乗じて福島正之を排除してしまおうと考えていました。
福島正則の訴えを受けた江戸幕府は、福島正之を幽閉処分に決定。福島正之は幽閉された先で1608年(慶長13年)に亡くなりました。この死に関しては、うつ症状や自律神経失調症による心神耗弱が原因ではないかと考えられています。
江戸幕府には、福島正之の処分は奇行が原因だと伝わっていましたが、満天姫は、夫・福島正之への福島正則の態度や、日に日に心身ともに弱っていく理由を知っていました。
通常、嫁ぎ先の夫が亡くなれば嫁は尼削ぎをして寺に入るか、実家へと戻るのが習わしでしたが、真実を知る満天姫を福島正則は手元から離そうとはしません。寺に入れるならばまだしも、満天姫を実家の徳川家に帰した場合、真相が徳川家康の耳にも入ってしまうからです。
その事態を恐れた福島正則は、満天姫を強引に市松の妻にしてしまいます。
夫・福島正之とともに悩み、苦しんできた満天姫にとって、市松は憎むべき相手でした。しかも、福島正之が亡くなった当時、市松の年齢はたった9歳で、満天姫は20歳。10歳も年が離れ、加えて憎い相手との婚姻では夫婦生活が上手くいくはずもありません。
それでも、養父・徳川家康の決めた婚姻を破ることはできず、満天姫は必死に堪えつつ福島家に居続けました。
当時、身分ある女性の輿入れには、実家から乳母や家臣などの身辺の世話をする者達が付いていくのが一般的。そして、嫁ぎ先の様子を実家に伝える役目も担っていたのです。そのため、福島家の異変を徳川家康も気付いていたと言われています。
ではなぜ、福島正之が亡くなったあと、満天姫を連れ戻そうとしなかったのかと言うと、実は徳川家康は福島正則の力を恐れていたからです。
徳川家康は、朝廷から征夷大将軍に任じられ、盤石な地位を固めつつありました。しかし、本心で徳川家に従っていない大名家の離反を警戒していたのです。なかでも福島正則は、豊臣秀吉に幼い頃から仕えていた豊臣恩顧の武将。
そのため、満天姫が帰ってきた場合、徳川家と福島家の結び付きはなくなり福島正則が離反することも考えていました。または、満天姫が帰された場合、徳川家康の別の養女を、今度は福島正則の妻として与えることなども想定していたと言います。
しかし、時の流れとともに状況は変化。福島正則と同じく豊臣恩顧の武将「加藤清正」が亡くなるなど、豊臣秀吉を慕っていた武将達が鬼籍に入りはじめます。さらに、江戸幕府は「武家諸法度」(江戸幕府の作った大名の法律)に背いたとして、豊臣家にかかわりのあった武将達を改易し、領地を没収。少しずつ豊臣家に恩のあった武将達を処断していくにつれ、福島正則は徳川家康にとって脅威ではなくなっていきました。
ついに徳川家康は、福島家に対し強硬な姿勢を取り、満天姫の離縁を断行します。
満天姫は、福島正之との間に授かった長男のちの「大道寺直秀」(だいどうじなおひで)を連れ、徳川家に戻りました。
そののち満天姫は、津軽弘前藩(現在の青森県弘前市)藩主「津軽信枚」(つがるのぶひら)に再嫁します。満天姫は再嫁する前、徳川家康に「関ヶ原合戦図屏風」が欲しいとせがみました。
関ヶ原合戦図屏風とは、1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の戦い」の様子を描いた屏風です。描いたのは、土佐派の絵師「土佐吉光」(とさよしみつ)だと言われていますが、詳細は不明。これは、絵師を戦場に呼び描かせたこともあり、実際の戦いの様子に最も近いと言われる屏風です。
徳川家にとって重要な美術品でしたが、満天姫の身の上を不憫に思った徳川家康は、屏風の一部を譲ることを許可します。
満天姫が再嫁した津軽信枚には「辰姫」(たつひめ)という正室がすでにいました。この辰姫は「石田三成」の三女です。石田三成と関係の深かった津軽信枚の兄「津軽信建」(つがるのぶたけ)が、関ヶ原の戦いで敗走の手助けをしました。その際に預かったのが辰姫と、石田三成の次男「石田重成」(いしだしげなり)です。こうした縁もあり、津軽信枚は辰姫を正室へと迎えていました。
しかし、正室がすでにいるからと言って、徳川家康の養女を側室にする訳にいきません。そこで津軽信枚は、辰姫を側室へ降格し、津軽藩の飛び地領・上州大舘村(現在の群馬県太田市)へと向かわせます。こうして満天姫を正室として迎えました。
それでも、津軽信枚は辰姫を忘れることができず、「参勤交代」で江戸と国元を行き来する毎に、辰姫と逢瀬を重ねます。その結果、辰姫は身籠り、1619年(元和5年)に男児「平蔵」を出産。
しかし、辰姫は1623年(元和9年)に亡くなり、平蔵は上州大舘村から江戸の弘前藩邸へと移り、養育されることになりました。1631年(寛永8年)に、津軽信枚が亡くなると、平蔵は跡を継いで津軽藩3代藩主「津軽信義」(つがるのぶよし)となります。
満天姫と福島正之との間に生まれた子は、弘前藩の家老「大道寺直英」(だいどうじなおひで)の養子となり、大道寺直秀と改名。また、満天姫と津軽信枚が儲けた子は、弘前藩の支藩黒石藩の祖「津軽信英」(つがるのぶふさ)となります。津軽信枚を亡くしていた満天姫は、出家して「葉縦院」(ようじゅういん)と号していました。
この頃、大道寺直秀は福島家の血を引き継いでいることを、頻繁に口に出すようになります。それは、福島正則が「一国一城令」に背き、城を無断で修復したことにより、改易されていたことが要因です。
福島家は、広島藩(現在の広島県)49万石から信濃国高井野藩(しなののくにたかいのはん:現在の長野県上高井郡)3,000石に減封。福島正則は、1624年(寛永元年)に他界。市松から名を改めた嫡子「福島忠勝」(ふくしまただかつ)も22歳の若さでこの世を去り、かつて徳川家に脅威を与えていた福島家も、その権威を完全に失っていたのです。
大道寺直秀は、そんな福島家を再興させたいと考えはじめました。そんな我が子の行動が、津軽家の迷惑になると考えた葉縦院は、当然、大道寺直秀を諌めます。しかし、大道寺直秀は考えを改めることはありません。それどころか、江戸へ赴き幕府に、自身を当主として福島家再興を訴えると言い出します。
葉縦院は、幾度も「福島家再興をやめなさい」と伝えましたが、その言葉が大道寺直秀に届くことはありませんでした。そこで葉縦院は、ある覚悟を決めます。
江戸へ出発を決めた大道寺直秀が、葉縦院のもとへ挨拶に訪れました。この機会が最後の好機だと考えた葉縦院は、大道寺直秀に旅立ちの挨拶にと、酒に毒を混ぜ毒殺しました。
葉縦院は、我が子を手にかけてでも、骨を埋める覚悟をした津軽家を守ったのです。
そこには、夫・津軽信枚や子である大道寺直秀に対する強い思いがあり、それと同時に婚家に尽くす献身的で健気な姿がありました。
50歳でその人生の幕を閉じた葉縦院は、青森県弘前市にある「長勝寺」(ちょうしょうじ)に眠っています。