大河ドラマの大ブームを巻き起こしたのは、80年代に放送された「独眼竜政宗」でした。そんな「伊達政宗」は、現代でもゲームなどで人気の高い戦国武将のひとりなのです。この伊達政宗の母でもあり「独眼竜」の影響から極悪扱いされてしまった「最上義光」(もがみよしあき)の妹でもある「義姫」(よしひめ)。彼女は気が強くて、伊達政宗を疎んじた鬼母のようなイメージを持っている人も多いでしょう。ここでは、そんな義姫の人生をご紹介します。
「義姫」(よしひめ)は、「羽州探題」(うしゅうたんだい)の最上家に誕生しました。
羽州探題とは、現在の東北地方を統括する役目を任された、名門の家系です。
義姫の生まれた最上家は、第56代「清和天皇」(せいわてんのう)の流れを汲む、室町幕府の将軍となった足利家の分家筋にあたる、斯波氏(しばし)の血筋でした。
この斯波氏の流れを汲む最上家と大崎家が、羽州探題の役目を室町幕府から任されていたのです。
ところが、義姫の祖父「最上義定」(もがみよしさだ)が家を継いだ頃、急速に力を付けてきた戦国武将「伊達稙宗」(だてたねむね)が登場。
独眼竜政宗でお馴染みの「伊達政宗」の曾祖父にあたる伊達稙宗は、最上義定に戦を仕掛けて勝利し、当時の室町幕府第10代将軍「足利義稙」(あしかがよしたね)に取り入り「奥州探題」(おうしゅうたんだい:室町幕府の地方職名)の地位を手に入れました。
1514年(永正11年)に起きた「長谷堂の戦い」(はせどうのたたかい)で、伊達稙宗に最上義定は負けてしまい、和睦の証として伊達稙宗の妹と婚姻関係を結びます。
このときから、最上義定と伊達稙宗は、長きに亘るしがらみを作ることになりました。義姫もそのような状況のなかで、伊達家第16代当主となった「伊達輝宗」(だててるむね)と結婚することになるのです。
1548年(天文17年)、義姫は「最上義守」(もがみよしもり)の娘として、山形の地で生まれました。幼少期のエピソードはほとんどありませんが、父である最上義守は「義姫が男子であれば、この家の当主にしたかった」という逸話があるので、男勝りだったことは間違いありません。
兄である「最上義光」(もがみよしあき)は、のちに最上家当主となりますが、義姫とは2歳違いの兄妹です。父と兄弟の男達と最上義光は、跡目争いの絶えない険悪な関係でしたが、義姫とは大人になってからも、手紙を頻繁にやり取りするほど仲の良い兄妹でした。
「応仁の乱」から始まった戦乱の世。親と子、兄と弟、家臣の分裂などの権力や領土を巡る群雄割拠の戦国時代は、日本中で起きていました。
戦国時代や武将達の話は「戦国三英傑」(せんごくさんえいけつ)と呼ばれる「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」がどうしてもメインとなって進みます。この三英傑の居住地である三河(現在の愛知県東部)、尾張(現在の愛知県西部)などは、京に近いということもありますが、三英傑に注目すると東海地方と関西方面が表舞台になってしまいます。
一見、何事もないようなイメージのある東北地方でも、戦国時代はそれなりに戦はありましたが、天下取りに名を上げようという勇ましい武将はいませんでした。東北地方は、京から遠いということもありますが、半年間は雪に覆われてしまう地域です。そのため戦はありましたが、田植えや稲刈り、そして冬になるとある程度で手打ちとする特徴がありました。
東北の大名達は、婚姻関係もそれぞれ結んでおり、敵対する家同士も親戚だらけということもあって、決着の付かぬまま、冬を迎えるという小競り合い状態だったのです。
1564年(永禄7年)義姫17歳のときに、まだ当主になったばかりで21歳の伊達輝宗の正室となるべく、米沢(現在の山形県)に嫁いできました。
この時期、中央ではすでに織田信長が力を付け、駿河(するが:現在の静岡県)・遠江(とおとうみ:静岡県)の守護大名「今川義元」を討ち果たした頃です。
東北では、まだ領土争いと御家騒動などで、中央に目を向けるような余裕はありませんでした。
義姫が嫁いだ頃、伊達家もまた義父の「伊達晴宗」(だてはるむね)と、夫の伊達輝宗の間に確執があり、あまり落ち着くような状況ではありませんでした。そのせいか、義姫は中々子宝に恵まれずにいました。武家の妻として嫁いだのなら、男子を上げることが女性の使命です。医学もほとんど進んでおらず、不妊治療もできなかった時代。義姫を始め、当時の女性達のプレッシャーは想像を超えるものだったと言えます。
藁にもすがる思いで、義姫も神仏に子宝祈願をしました。出羽三山(でわさんざん)にある湯殿山(ゆどのさん:現在の山形県)で、「長海上人」(ちょうかいしょうにん)に祈祷をお願いし、湯殿の湯に浸した「幣束」(へいそく)を渡されます。
幣束とは、神社などでよく見る白い紙の付いた神仏に捧げる物で、義姫はそこに「親孝行で、立派な子を授かるように」とお願いして、自分の寝る部屋の屋根に祀りました。願いを込めてからすぐなのか、数日後なのかは不明ですが、ある夜義姫は不思議な夢を見ます。それは、枕元にひとりの年を取った僧侶が立ち「宿を貸して欲しい」と義姫に頼む夢でした。
翌朝、その夢の話を夫に相談しました。また夜になり眠りにつくと、再び現れた僧侶に義姫は「どうぞお宿り下さいませ」と伝えます。すると、その僧侶は義姫のお腹に消えたのです。
それからまもなくして、1567年(永禄10年)に、伊達家待望の男子が誕生しました。「梵天丸」(ぼんてんまる)と名付けられたその子こそ、奥州(おうしゅう:現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)の覇者・伊達政宗となるのです。
昔の女性は「3年子なきは去れ」と言われるほど、女の役目は家を守ることの他に、子供を産むことが重要とされていました。子宝に恵まれない女性は離縁されるか、武家であれば側室を増やすかです。17歳で嫁いだ若き義姫も、3年ほど子宝に恵まれませんでしたが、伊達輝宗は側室を持ちませんでした。
夫の伊達輝宗は、伊達家のなかではどちらかと言えば穏健派。義姫とは、最上家との諍いがあると揉めることもありましたが、伊達政宗をとても可愛がりました。結婚してから義姫は、城の東側に居住するようになっており「お東の方」とも呼ばれています。
待望の嫡男であった伊達政宗は、幼い頃「天然痘」(てんねんとう)という病に掛かり、右目を失明することになりました。
母親の気持ちとして、病に掛かった不憫な息子を自分の手で育てたかったのでしょうが、伊達輝宗は武家の嫡男として守役(もりやく)を付けます。
我が子を手元から離されてしまった義姫は、翌年に生まれた次男の「伊達小次郎」(だてこじろう)を溺愛したと伝えられています。
伊達政宗が、母の愛を十分味わえたか否かは分かりませんが、父である伊達輝宗は伊達政宗をとても可愛がり、立派な武将にするために高名な禅僧を呼んで、伊達政宗を学ばせました。伊達政宗の師になったのは、「武田信玄」も崇拝していた臨済宗(りんざいしゅう)の和尚「快川紹喜」(かいせんじょうき)の弟子「虎哉宗乙」(こさいそういつ)です。
それだけでなく、伊達輝宗は伊達政宗の力になりそうな若い家臣達も選びました。そのうちのひとりは、のちに伊達政宗の片腕とも呼ばれるようになる「片倉小十郎景綱」(かたくらこじゅうろうかげつな)ですが、彼は武士の出ではなく「神職の家の子」です。
身分を問わず、これと言った人物を取り立てるのが伊達輝宗は得意で、自分の片腕となった「遠藤元信」(えんどうもとのぶ)も、もとは「寺の息子」でした。のちの伊達政宗の当主としての力量や、片倉小十郎景綱の活躍からも伊達輝宗の人を見抜く目は、あながち間違いではなかったことが分かります。
義姫が男勝りだと言われる所以は、とある逸話が残されているから。自ら2度も戦場に駆け付け、自分の婚家と実家の戦を止めに出ているのです。伊達家は伊達政宗の曾祖父の代に、奥州探題という役職を力で手に入れたために、周辺のいざこざが増えていきました。
元々は羽州探題のなかで斯波氏の流れを汲む最上家が、出羽国(でわのくに:現在の秋田県の一部と山形県の一部)を任され、奥州を分家筋の大崎家が守っていました。そこに突然、大崎氏の役目を奪い取る形で、伊達家が奥州探題となってしまったことで戦が増えていくのです。
東北は親戚だらけだと言いましたが、義姫の兄である最上義光の正妻は大崎の娘なので当然、親戚関係にありました。伊達家としても、伊達輝宗の叔父が大崎に養子へと出ているので、こちらも親戚関係。そのようななかで、最初に起きた戦は、義姫の兄である最上義光と自分の夫である伊達輝宗が対決することになったのです。
1578年(天正6年)に起きた「柏木山の戦い」(かしわぎやまのたたかい)は、最上家と対立していた「上山城」(かみのやまじょう:現在の山形県上山市)の城主である「上山満兼」(かみのやまみつかね)が伊達輝宗に援軍を頼んで、最上義光を攻めてきた戦いです。このとき、義姫は兄と夫両軍の間に、輿(こし)または駕籠(かご)に乗り戦場に駆け付け、睨み合う両軍に和睦を懇願して戦を止めてしまいました。
2度目に義姫が駆け付けたのは、兄と息子の戦いです。1588年(天正16年)に起きた「大崎合戦」(おおさきがっせん)は、最上義光と伊達政宗の対決となりました。
伊達家、最上家の親戚である大崎家のなかで御家騒動が起きたとき、大崎家の重臣達が伊達政宗に援軍を要請。伊達家と大崎家は、奥州探題の地位と領土を巡り宿敵でもあったので、これはチャンスとばかりに伊達政宗は、1万もの大軍を引き連れて出陣しました。もちろん最上義光も大崎家は妻の実家ですから、大崎方として5,000の兵を出して参戦。
兄と息子の対決を止めようと、義姫はまたしても自ら両軍の間に駕籠で駆け付けました。しかも今回は、甲冑を身に着けて戦も辞さずの姿勢で義姫は中山峠に陣取ったのです。
義姫は妹として、または母として2人を説得し続けますが、今度は兄も息子も中々首を立てに振らず、山のなかで義姫はなんと約2ヵ月半も居座ったのです。この時義姫は、すでに41歳になっています。四十路は初老と言われますが、人生50年と言われていた当時では、十分に老齢と呼んでいい年齢。頑なに山を下りない義姫を見た両者はついに根負けし、ようやく和睦を結ぶことになりました。
この逸話から、義姫の男勝りで肝の据わった根性を垣間見ることができるのです。
伊達政宗の人生を語る逸話に、母である義姫に毒を盛られ、殺されそうになったという話があります。
1590年(天正18年)中央ではすでに、豊臣秀吉が天下統一目前を迎えていました。最後まで配下に付かないと抵抗を続けていた、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)の戦国大名「北条氏政」(ほうじょううじまさ)を討つべく、豊臣秀吉は全国の大名達を集結させていたのです。
まだ24歳の若き伊達政宗は、中央の事情もあまり把握しておらず、北条と同盟を組んだまま、豊臣秀吉のもとへすぐさま駆け付けませんでした。再三の小田原参陣を断り続けていた伊達政宗は、ようやく出向く決心をしたのですが、豊臣秀吉は相当怒っている可能性もあり、死ぬ覚悟を持って参陣することに。その直前に、別れの挨拶で母のもとを訪れた伊達政宗の膳に、義姫が毒を盛って殺そうとしたと伝えられています。
しかし、この逸話が詳しく書かれた文献「伊達治家記録」(だてじけきろく)は、江戸時代に書かれたので毒殺事件の信憑性はとても低いのです。伊達治家記録では、毒殺事件は母の義姫と弟の伊達小次郎が計画したもので、伊達政宗が弟を成敗したと書かれていますが、こちらもやはり真相は分かっていません。
政略結婚ではありますが、義姫はその役目を飛び越えて、婚家と実家どちらも守りたい気持ちがとても強い人でした。義姫38歳の頃、夫である伊達輝宗はすでに隠居し、伊達政宗に家督を譲っていましたが、まだ若い伊達政宗は母に似たのか血気盛んで、奥州の覇者になろうとあちこちで戦を始めたのです。
そのことで、伊達政宗に敗北して領土を取られた、「二本松城」(現在の福島県二本松市)の城主「畠山義継」(はたけやまよしつぐ)は、挨拶と仲介のお礼という偽りで伊達輝宗のもとを訪れ、そのまま伊達輝宗を拘束しました。
父親拉致の報告を聞いて駆け付けた伊達政宗。畠山義継は、伊達輝宗に日本刀を突き付けて逃亡を図りますが、伊達輝宗は伊達政宗に「私ごと撃て!」と叫んだため、伊達政宗は総攻撃を仕掛け、伊達輝宗は亡くなります。これに伴い、義姫は四十路前に未亡人になったことから、髪を下ろして「保春院」(ほしゅんいん)と名乗りました。
夫亡きあとも義姫は戦場に駆け付けたり、47歳のときには突然伊達家から家出し、実家の最上家に戻ったりもしています。義姫の晩年のことですが、最上家は徳川家康が天下を取り、兄の最上義光が亡くなったことで、御家騒動が起こり御家取り潰しとなってしまいました。
そのことで、義姫はようやく伊達家へ戻り、最後は伊達政宗の建てた「仙台城」(現在の宮城県仙台市)にて、76歳でこの世を去りました。
母子で久々の再会を果たしたとき、2人が贈りあった歌があります。
母は息子の成長を喜び「双葉より植えた小松も、大きく伸びた」と詠み、息子である伊達政宗は「ずっと会いたいと思っていた母と会えました、どうか長生きしますように」という意味の返歌をしたのです。
義姫は当時の姫から見ると、自分の意志を持ち、行動する常識はずれな姫ではありますが、実家や婚家、そして息子を守るために、じっと耐えることができなかったとも言えます。鬼母や男勝りと不評の多い義姫は、人一倍愛情深い女性だったのです。