「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)の城主「荒木村重」(あらきむらしげ)の妻であった「荒木だし」(あらきだし)は、「今楊貴妃」(いまようきひ)と称されるほど、絶世の美女でした。ここでは、荒木だしが壮絶な最期を遂げるまでに、夫・荒木村重をどのように支えていたのか、その生涯を通して見ていきます。
一説によれば、1558年(弘治4年/永禄元年)に生まれたと伝わる「荒木だし」(あらきだし)。
しかし、その正しい生年については、資料によって3年ほど誤差があり、はっきりとは分かっていません。
また、その出自については「立入左京亮宗継入道隆佐記」(たてりさきょうのすけむねつぐにゅうどうりゅうさき)に、「大坂にて川那う左衛門尉と申す娘」とあったことから、父は「石山本願寺」に仕えた「川那部家」(かわなべけ)の人物、母は「田井源介」(たい/たのいげんすけ)の娘とする説があります。
この他にも、「前田家文書」では「織田信長」の側室「生駒の方」(いこまのかた)と、その最初の夫とされる「土田弥平次」(つちだやへじ/どたやへじ)との間に生まれた娘とする説もあり、出自に謎が多い人物です。
「だし」と言う名前は「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)の城郭にある「出し」(だし:城郭の出丸[でまる]のこと)に居住していたことから命名されたと伝えられ、本名は「ちよほ」、または「梶」(かじ)だと言われています。
一方、キリスト教の洗礼名「Daxi」が由来であり、荒木だしはキリシタンであったとする説もありますが、後述する辞世の句に「西方浄土」(さいほうじょうど:仏教における極楽浄土)への憧れを詠んでいることから、この説は疑問視されているのです。
やがて荒木だしは「池田城」(現在の大阪府池田市)城主「池田勝正」(いけだかつまさ)に家臣として仕えていた、「荒木村重」(あらきむらしげ)のもとへ嫁ぎます。荒木村重は「池田長正」(いけだながまさ)の娘を正室として迎え、池田家の一族衆となっていました。
そのため、荒木だしは荒木村重の継室、または側室であった可能性が高いと推測されています。また、2人の年齢は20歳以上離れていたと伝えられていますが、夫婦仲は良く子どもを儲けていました。
1578年(天正6年)10月に勃発した、織田家と別所家(べっしょけ)による「三木合戦」(みきかっせん)において、荒木村重は織田方の「豊臣秀吉」軍に付き従います。
そんななかで、織田信長のもとに「荒木村重が石山本願寺と内通している」という情報が舞い込みました。
石山本願寺は、織田信長より矢銭(やせん:軍用金)5,000貫や同寺の明け渡しを要求されたことなどから敵対するようになり、何度も戦を繰り返していたのです。
当初、織田信長は荒木村重に対して「母を人質に出し、荒木村重本人が安土城[あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市]まで弁明に来たら許す」と寛大な条件を提示します。
しかし荒木村重は、同城に向かう道中、近隣に居城を構えていた「中川清秀」(なかがわきよひで)と「高山右近」(たかやまうこん)から「織田信長は一度疑うと許さぬ人、毛利家と組んで籠城したほうが良い」と助言を受けたのです。
結局、荒木村重は有岡城に留まって籠城し、織田信長に反旗を翻しました。すると、織田信長は荒木村重を説得すべく「明智光秀」や豊臣秀吉など家臣達を派遣。ところが荒木村重は説得に応じることなく、毛利家に援軍の要請を出し続けたのです。その一方で、中川清秀と高山右近は織田信長に寝返り、1579年(天正7年)には有岡城を織田軍に包囲されてしまいました。
最終的に毛利家の援軍も現れなかったため、荒木村重は真夜中にわずかな側近と共に有岡城を脱出。自身の息子が城主だった「尼崎城」(あまがさきじょう:現在の兵庫県尼崎市)へ逃走。
織田信長からは「尼崎城と花隈城[はなくまじょう:現在の兵庫県神戸市]を明け渡せば、有岡城に残る妻子の命を助ける」と条件が出されます。これは、荒木村重を高く評価していた織田信長が見せた、最大限の譲歩と言える取引でしたが、荒木村重は城を明け渡すことを固く拒否。
これにより織田信長は、有岡城に残る荒木だしを含む人質達の処刑を決めたのです。
荒木だしが詠んだ辞世の句をご紹介します。
<現代語訳>
消えゆく自分は惜しむことなど何もないが、母として子を思う気持ちだけが煩悩となり、悟りの妨げになってしまう
<現代語訳>
残していく子のことを思うと哀れで悲しい
<現代語訳>
盛りが来ぬうちに嵐が吹き、梢から無駄に散る桜のようだった
<現代語訳>
心のなかの月はしっかりと磨いてあるからこそ、光と共に西方浄土へ行く
荒木だしは有岡城から護送される際、荒木村重との間に儲けた子を、密かに乳母の懐へ忍ばせ、脱出させたと伝えられています。生きながらえた子を思う母としての心が込められた辞世の句となったのです。
また、荒木だしは処刑される前、辞世の句の他に夫・荒木村重へ歌を贈っています。
<現代語訳>
私は、霜にあたり枯れた八重葎(やえむぐら)のようです。あとは大坂湾に沈み、海の藻屑となるだけでしょう
これを受けて荒木村重から贈った、荒木だしへの返歌は下記です。
<現代語訳>
天の架け橋を踏み鳴らすように大坂で奮闘したが、儚い夢になるとは思ってもいなかった
これら一連の歌からは、夫のために潔く命を捨てる決意を固めた荒木だしと、自身の失態によって妻を失うことになった荒木村重の無念さが窺えます。