「長篠城」(ながしのじょう:現在の愛知県新城市)の城主「奥平定能」(おくだいらさだよし)の嫡男「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)の正室は、「徳川家康」の長女「亀姫」(かめひめ)でした。天下人への道をまっしぐらに駆け上がった戦国武将・徳川家康の娘・亀姫は、政略結婚の「道具」として奥平信昌に嫁いだのです。
江戸幕府初代将軍・徳川家康の娘という、最高級ブランドを携え誇り高く生きた亀姫が、嫁ぎ先の奥平家の運命にどのようにかかわっていったのか、その人間像を含めてご紹介します。
「亀姫」(かめひめ)は1560年(永禄3年)、駿府(現在の静岡県静岡市)にて誕生。
父親は「松平元信」(まつだいらもとのぶ)のちの「徳川家康」、母親は「瀬名姫」(せなひめ)のちの「築山殿」(つきやまどの)です。
長女として生まれた亀姫には、1歳違いの同母兄「松平信康」(まつだいらのぶやす)がいました。
徳川家康は、1549年(天文18年)から「駿府城」(すんぷじょう:現在の静岡県静岡市)の城主「今川義元」(いまがわよしもと)の人質となっていましたが、今川義元は徳川家康をきちんと養育し、元服させました。
さらには、今川家の有力重臣「関口親永」(せきぐちちかなが)の娘・瀬名姫を養女にし、1557年(弘治3年)に徳川家康のもとへ嫁がせたのです。
人質でありながら、このように厚い処遇を受けた徳川家康は、今川義元の期待に応えて初陣を果たし、戦功を挙げています。
ところが今川義元は、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)において「織田信長」の軍に討たれました。そして、徳川家康はそれを機に今川家から決別し、その同年に亀姫が誕生したのです。
亀姫は、1562年(永禄5年)母・築山殿と共に「岡崎城」(現在の愛知県岡崎市)へ移ります。
同年、徳川家康は完全に今川家と断交。今川義元から賜った「元」の字を返還して「家康」に改称し、織田信長と「清洲同盟」(きよすどうめい)と称される軍事同盟を結んだのです。
1573年(元亀4年/天正元年)、「武田信玄」が没した年に徳川家康と織田信長の連合は、信濃伊那地方と東三河を結ぶ交通の要衝であり、戦略的に重要だった「長篠城」(ながしのじょう:現在の愛知県新城市)を落とします。
そして、「亀山城」(現在の愛知県新城市)別称「作手城」(つくでじょう)を拠点とし、もとは徳川家の傘下にいた武田方の「奥平定能」(おくだいらさだよし)と「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)父子を調略して帰参させ、長篠城主にしようとしたのです。その見返りこそが、徳川家康の娘・亀姫との婚約でした。
武田信玄亡きあとの奥平家にとって、武田家は求心力を失っていたこともあり、武田方から寝返って徳川家康と強く結び付くことは、お家を存続させるために重要な手段だったのです。
しかし同時に、この寝返りは大きな痛みを伴うものでもありました。なぜなら奥平信昌はこのとき、その新妻であった「おふう」や、弟の「千丸」(せんまる)などを人質として武田家に差し出しており、武田家を裏切ることは彼らの命が保証されないことを意味します。しかし奥平信昌は、亀姫の輿入れを条件に徳川家康からの帰参の要望を受け入れたのです。
奥平家の徳川方の寝返りに激怒した「武田勝頼」(たけだかつより)は、実際に、奥平家からの人質を処刑しています。
奥平家当主として、このような決断を下した奥平信昌は非情にも思えますが、亀姫を正室として迎えることで奥平家にもたらされる将来の希望は、大切な家族の命を失ってもそれを相殺するに値するほど重い価値があったと判断したのです。
奥平信昌は、このような経緯を経て長篠城に入ることとなり、武田軍からの攻撃に備えました。
武田家の家督を相続した武田勝頼は、1575年(天正3年)奥平家討伐のために約15,000の大軍を長篠城へと送ります。
そのとき、500の兵しか持たなかった奥平側は苦戦を強いられることに。しかし、奥平信昌は必死の籠城で抗戦し、織田・徳川の援軍到着まで持ちこたえ、武田軍を撃退することに成功。そのあとの「長篠の戦い」においても武田軍に大勝しています。
このように、大きな武勲を立てた奥平家を高く評価した徳川家康は、亀姫の奥平家への輿入れを実行。1576年(天正4年)亀姫17歳、奥平信昌22歳のときのことでした。
亀姫の夫・奥平信昌は、1575年(天正3年)、現在の愛知県新城市に「新城城」(しんしろじょう)を築城します。同城で過ごす15年間で亀姫と奥平信昌の間には、4男1女の子どもが誕生しました。
1590年(天正18年)、徳川家康が関東移封となると同時に、奥平信昌は3万石で「宮崎城」(現在の群馬県富岡市)へ入城。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に従軍後は、初代「京都所司代」(きょうとしょしだい)に就任し、1601年(慶長6年)には、美濃国加納(みののくにかのう:現在の岐阜県岐阜市)10万石へと加増転封となったのです。
このような奥平信昌の出世は、彼自身の武功はもちろん、正室の亀姫が徳川家康の娘であったこともその背景にあったと考えられています。
ところが1614年(慶長19年)、立て続けの不幸が亀姫に訪れました。同年8月に三男の「奥平忠政」(おくだいらただまさ)が、11月に長男の「奥平家昌」(おくだいらいえまさ)が死没。その上、夫の奥平信昌までが翌年に亡くなってしまったのです。
亀姫は出家し「盛徳院」(せいとくいん)と号しました。そして、亡くなった奥平家昌の長男「奥平忠昌」(おくだいらただまさ)が、わずか7歳で父の跡を継ぎ「宇都宮藩」(現在の栃木県宇都宮市)10万石の藩主となり、亀姫は奥平忠昌の後見役となったのです。
奥平忠昌は、1619年(元和5年)下総国古河藩(しもうさのくにこがはん:現在の茨城県古河市)に転封となりました。
これに亀姫が不満を募らせていたなか、1622年(元和8年)に「宇都宮城」(現在の栃木県宇都宮市)において、その城主となっていた「本多正純」(ほんだまさずみ)が、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の暗殺計画を企てたとする事件が起こります。
徳川秀忠はこのとき、徳川家康の7回忌のため「日光東照宮」(現在の栃木県日光市)で参拝。その帰路に宇都宮城で宿泊する予定になっていました。しかし、本多正純が同城の湯殿に釣天井を仕掛け、暗殺しようとしていたことを知った徳川秀忠は、城には寄らず「江戸城」(現在の東京都千代田区)へと戻ったのです。
この事件によって本多正純は、配流の刑(はいるのけい:追放刑)に処され、本多家も改易となってしまいました。そのおかげで奥平忠昌は、再び宇都宮藩へと戻ることができましたが、実際には湯殿に仕掛けなどなく暗殺計画もなかったと伝えられています。
それではなぜ、このような事件が起こってしまったのでしょうか。
その黒幕こそが、亀姫であったのではないかと噂されました。その理由は、孫の奥平忠昌が宇都宮藩から古河藩へ転封となった際に、新しく宇都宮藩の藩主となった人物が本多正純であったため。亀姫は、この本多正純に対して並々ならぬ怨念を持っていました。
その背景にあったのは、亀姫の娘「千姫」(せんひめ)にまつわるできごと。千姫の夫の父であり、小田原藩(現在の神奈川県小田原市)の初代藩主であった「大久保忠隣」(おおくぼただちか)が、この本多正純に失脚させられていたのです。
さらに亀姫は、奥平忠昌が宇都宮藩主だったときの知行が10万石であったのに対し、本多正純の知行が15万5,000石となっており、大幅に差を付けられたことについても不満に思っていました。
このような状況から、この事件の展開が亀姫の願った通りとなったこともあり、亀姫が仕組んだとする陰謀説が囁かれるようになります。
徳川家康の娘であり、徳川秀忠の異母姉でもあった亀姫であれば、徳川秀忠に告げ口をすることは、可能であったかもしれません。事件の真相は明らかにはなっていませんが、とにかく亀姫は、孫の奥平忠昌とその領地を守ることができたのです。
そして亀姫は1625年(寛永2年)、加納の地において、66歳でその生涯を終えました。
宇都宮城釣天井事件からも窺えるように、なかなか気性の激しい女性であったと伝えられている亀姫の性格が分かる、逸話をいくつかご紹介します。
前述したように、亀姫が後見役をしていた孫の奥平忠昌が、宇都宮から下総国古河藩へ国替となったとき、亀姫はそれが口惜しくてたまりませんでした。
そこで亀姫は引越しの際に、通常は城内に残しておくべき障子や襖、畳、さらには庭に生えている竹に至るまで、すべて持って行こうとしたのです。その移動中に、宇都宮城の新城主となる本多正純の家臣が呼び止め咎めたために、それらすべてを返還する事態になったと伝えられています。
亀姫の母親・築山殿も、かなり気の強い性格の女性でした。亀姫の気性の激しさは、おそらく母親譲りだったと言われています。
それを伝えているのが、亀姫の夫・奥平信昌の転封先となった岐阜県の「加納城」(かのうじょう:岐阜県岐阜市)の近くに残る「十二相神」(じゅうにそうしん)の墓。そこには嫉妬深い亀姫の勘気に触れて、手討ちにされた12名が祀られているのです。
奥平家の発展のために夫に尽くしながらも、夫を支えるためにどこか恐ろしい一面があった亀姫の気質が分かる逸話だと言えます。