かつて「明智の妻こそ天下一の美女」という噂がありました。明智とは、戦国武将「明智光秀」のこと。妻は「明智熙子」(あけちひろこ)です。少ない史料をたどっていくと、明智熙子の美貌は東美濃随一で、たいへん心が美しい女性であったことが分かります。明智熙子とはどんな出自で、どのような女性であったのかを詳しくご紹介します。
「明智熙子」(あけちひろこ)とは、戦国武将「明智光秀」の正室です。
明智光秀と言えば、主君「織田信長」を、1582年(天正10年)「本能寺の変」で討ったことが有名。
しかし、明智光秀は謀反人と見なされ、三日天下で終わりました。
そのため処分されたのか、明智光秀や妻についての史料は、ほとんど残っていません。
しかし、少ない史料をたどっていくと、明智熙子は相当「美しい女性」であったことが分かったのです。
明智熙子とは、明智光秀の妻としての呼び名。
「細川家記」によると、室町時代後期の1530年(享禄3年)生まれで「妻木勘解由左衛門範熙の女」(つまきかげゆざえもんのりひろのおんな)であると記載されています。
女とは娘という意味。つまり、明智光秀と結婚する前は「妻木範熙」(つまきのりひろ)の娘と明記されているのです。なお、細川家記とは、娘「玉/珠」(たま:のちの細川ガラシャ)の嫁ぎ先、肥後細川家の記録です。
生家の妻木家は、清和源氏土岐氏の庶流。美濃国(現在の岐阜県)の守護「土岐頼貞」(ときよりさだ)の九男「土岐頼基」(ときよりもと)の子「土岐頼重」(ときよりしげ)が、「明智城」(現在の岐阜県可児市)を与えられ「明智頼重」(あけちよりしげ)と名乗ったのちに「妻木城」(現在の岐阜県土岐市)を築きました。そして妻木城を与えられ、城主となったのが妻木家の一族です。
なお、明智家は明智頼重の直系。明智家と妻木家は親戚同士で、明智熙子と明智光秀は幼い頃から顔なじみであったことが伺えます。
ところで「ひろこ」という名前は、父の名前が範熙でその子だから熙子と、後世に付けられた可能性が高いと言えます。「熙」の文字には「光り輝く」という意味があり、とても雅やか。明智熙子は東美濃随一の美女だったという記録もあり、体を表した呼び名であると言えるのです。
明智光秀と明智熙子が結婚したのは、1540年(天文9年)から1550年(天文19年)の間ではないかと言われています。
NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、2人は幼いときに結婚の約束をして、成人した2人がその約束を覚えていたという、心温まる逸話が描かれていました。
しかし、この結婚には見逃せない逸話がもうひとつあります。
実は明智熙子は結婚前、「天然痘」(てんねんとう)という病に罹ってしまったのです。天然痘とは、天然痘ウイルスによる伝染病。高熱が出て、全身に発疹が生じて膿疱化し、死亡率がとても高い恐ろしい病気です。死に至らない場合でも、全身に醜い痘痕(あばた:膿疱の跡)が残るのが特徴でした。日本では奈良時代から流行が繰り返され、多数の死亡者を出しましたが、1979年(昭和54年)に根絶しています。
熙子は一命を取りとめたものの、左頬に痘痕が残ってしまったのです。明智家から熙子に縁談が来たときに、熙子はその痘痕を恥じ、明智家には妹の「芳子」を嫁がせて欲しいと両親に懇願します。両親も明智家との縁談をなくしたくないと考え、芳子を嫁がせることにしたのです。
しかし、明智光秀は「人の容貌はすぐに変わるけれど、心の美しさは変わらない」と、芳子ではなく熙子を妻に選びます。熙子はとても感動し、嫁ぐ決心をしたのです。明智光秀がそう思うほど、熙子は以前から心が美しい女性であったことが分かります。
2人はめでたく結婚しますが、波乱万丈な運命が待ち受けていました。
まずは、1556年(弘治2年)「長良川の戦い」が勃発します。
これは、明智光秀が仕えていた「斎藤道三」(さいとうどうさん)がその息子「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)と争い、敗死する戦い。
斎藤道三側にいた明智光秀も斎藤義龍に攻められ、明智城は落城。この結果、明智家は明智光秀の母方の親戚を頼り、越前国(現在の福井県)へと逃れることにしたのです。
このとき、明智熙子は妊娠中。明智光秀が身重の明智熙子を背負って、険しい山道を逃れ歩いた逸話が残っています。明智熙子にしてみれば、結婚早々、住居がなくなり身重で旅をするなど、安心して出産ができない状況になってしまい不安であったに違いありません。
運良く越前国に辿り着いたものの、明智光秀の士官先(就職先)は見付かりませんでした。明智光秀は、仕方なく「称念寺」(しょうねんじ:現在の福井県坂井市)に寺子屋を開き、子ども達に文字を教えます。
そこへ、越前国の戦国大名「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の家臣と連歌会を行なうチャンスがやってくるのです。しかし、連歌会は主催者が酒宴などを用意しなければなりません。明智家の家計は苦しく、まるで資金がありませんでした。そこで、見かねた明智熙子は、自分の美しい長い黒髪を売って費用を工面したと言われているのです。
連歌会は無事に成功。明智光秀は、朝倉義景に士官することができました。これこそ、明智熙子が「糟糠の妻」(そうこうのつま:貧しさを共にしてきた妻は、自分が富裕になっても大切にする)と言われる理由です。
この話を知った「松尾芭蕉」は、のちに「月さびよ 明智が妻の 咄[はなし]せむ」と、明智熙子の心の美しさを謳っています。
やがて、夫・明智光秀は織田信長に仕えるようになり、見事に出世。明智熙子は痘痕がありましたが、明智の妻こそ天下一の美女と言われるようになりました。
これを聞いた織田信長はその噂を確かめたくてたまりません。なんと織田信長は、後ろから明智熙子を抱きしめ、明智熙子はそれを扇で打って撃退する事件が起きたのです。
これは「松平忠明」(まつだいらただあきら)著の「落穂雑談一言集」に書かれた逸話。織田信長が明智光秀に嫌がらせをするようになったのは、このときの恨みだと考える歴史家もいるほどの大事件だったのです。
明智光秀はこれを知ると、明智熙子によく似た妹・芳子を織田信長の側室にして対処し、うまく難を逃れます。なお、芳子は1581年(天正9年)に死去した際「信長一段のキヨシ也」と書かれています。キヨシとはお気に入りという意味。明智光秀のとっさの判断は功を奏したと言えるのです。
このように、明智熙子は結婚してから苦労ばかりでしたが、3男4女に恵まれます。
のちに長女は「明智左馬之助」(あけちさまのすけ)の正室に。三女・玉/珠は「細川忠興」(ほそかわただおき)の正室となり細川ガラシャと呼ばれるのです。
細川ガラシャと言えば、戦国一の才色兼備。その美しさは、母親・明智熙子から受け継がれた物だったのです。
苦労の多い結婚生活でしたが、明智熙子にとって良かったのは、夫との関係が死ぬまで相思相愛だったこと。明智光秀は、明智熙子以外に側室を持たず、お互いにとても大切にしたと言われています。
1576年(天正4年)明智光秀は「天王寺の戦い」のあと、過労で倒れてしまいます。そのとき、明智熙子は神道家「吉田兼見」(よしだかねみ)に祈禱を祈願。これは、吉田兼見著「兼見卿記」(かねみきょうき)に書かれています。
そののち、明智光秀は回復しますが、今度は看病疲れで明智熙子が倒れてしまうのです。明智光秀もまた吉田兼見に祈禱を祈願。本当に夫婦共に思い合っていたことが分かります。
しかし、残念ながらこの年に明智熙子は亡くなってしまうのです。
当時は妻が先に亡くなった場合、夫が葬儀に参列する慣習はありませんでしたが、それでも明智光秀は妻・明智熙子の葬儀に参列したことが、明智熙子が眠る「西教寺」(さいきょうじ:現在の滋賀県大津市)の過去帳に記されています。
それほどまでに、明智熙子は明智光秀に愛されていたと言えるのです。
ただし、実は明智熙子は1582年(天正10年)に起きた本能寺の変まで生きていて、明智光秀が討たれたあと、家臣達に自害するのではなく生き延びるようにと説き、自らは娘婿・明智左馬之助に介助され自害したなど、諸説あります。
明智の妻こそ天下一の美女と噂された明智熙子。「美女」と呼ばれた女性は数多くいますが、単なる「容貌」だけではなく、「心」までも美しいと高く評価された女性は、明智熙子だけと言っても過言ではありません。