「浅井長政」(あざいながまさ)と「お市の方」の間に生まれた「お初」(おはつ)のちの「常高院」(じょうこういん)は、14歳までに2度の落城を経験。悲劇を生き延びながらも姉妹愛を重んじ、嫁いだ京極家の繁栄も支え続けた浅井3姉妹の次女・お初の生涯をご紹介します。
「常高院」(じょうこういん)の名でも知られる「お初」(おはつ)は、1570年(永禄13年)に、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)「小谷城」(おだにじょう:現在の滋賀県長浜市)に拠点を持つ戦国武将「浅井長政」(あざいながまさ)と、「織田信長」の妹「お市の方」との間に、3姉妹の次女として生まれました。
父・浅井長政と母・お市の方は、伯父・織田信長と浅井家の同盟に際した政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったとされています。
姉はのちに「豊臣秀吉」の側室となる「茶々」(ちゃちゃ)のちの「淀殿」(よどどの)、妹はのちに徳川幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の正室となる「お江」(おごう)のちの「崇源院」(すうげんいん)。
血筋の良いこの3姉妹は、戦国時代における天下の覇権争いに深くかかわる女性として、歴史に名を残すことになります。
1574年(天正2年)に織田信次が戦死したのち、織田信長の居城「岐阜城」(現在の岐阜県岐阜市)に転居し、しばらくは穏やかな時間を過ごしたお初達でしたが、1582年(天正10年)に「明智光秀」が謀反を起こし「本能寺の変」によって織田信長と嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)が急逝。明智光秀は「山崎の戦い」によって豊臣秀吉に討たれましたが、織田家の後継者争いに、お市の方と3姉妹も巻き込まれていきます。
本能寺の変のあと、母・お市の方は織田家の宿老「柴田勝家」(しばたかついえ)に再嫁し、お初達は越前国(えちぜんのくに:現在の福井県)「北ノ庄城」(きたのしょうじょう:現在の福井県福井市)のちの「福井城」に転居。
しかし、柴田勝家は翌年の1583年(天正11年)、織田家の覇権争いである「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)において豊臣秀吉に敗れ、北ノ庄城にて母・お市の方と共に自害したのです。
お市の方は豊臣秀吉に宛て、娘達の助命嘆願書を書き、城から3姉妹を逃がしました。そうして保護されたお初達3姉妹は、実父、養父を共に滅ぼした豊臣秀吉の庇護下に入ることとなったのです。
1587年(天正15年)、お初が18歳のときに豊臣秀吉の計らいで、7歳年上であった「京極高次」(きょうごくたかつぐ)のもとへ嫁ぎます。
京極高次は、南北朝時代の婆沙羅大名(ばさらだいみょう:南北朝時代に流行した、派手な振る舞いや服装を好む美意識で、下克上の萌芽[ほうが:新しい物事が起こりはじめること]となった)「佐々木道誉」(ささきどうよ)直系の子孫で、お初とは同じ小谷城で生まれた幼馴染。さらには従兄弟同士でもあったこの2人は、恋愛結婚だったと言います。
京極高次は、本能寺の変の折に明智光秀に味方をする等、決して武将としての能力が高いとは言えず、京極高次の妹「竜子」(たつこ)が豊臣秀吉に気に入られた恩恵で大名として出世しているので、当時は「蛍大名」というあだ名が付けられていました。
お初と京極高次の夫婦仲は良好で、竜子との関係も良く、竜子が豊臣秀吉に嫁いだときに受けた「知行地」(ちぎょうち:土地・化粧料とも呼ばれる)を、お初が譲られているほど。2人の間には子供ができませんでしたが、お初は側室の息子を引き取り、京極家の嗣子として育て上げました。その子がのちの「京極忠高」(きょうごくただたか)で、血がつながっていなくとも、誰よりもお初を慕っていたと言います。
ついに1614年(慶長19年)には、「大坂冬の陣」が勃発。
お初は徳川家康に両家の仲介を頼まれ、豊臣家側の交渉役を担うこととなりました。お初は、息子・京極忠高の陣中で徳川家側の交渉役「阿茶局」(あちゃのつぼね)のちの「雲光院」(うんこういん)と会談します。
この会談で大坂城(現在の大阪城)の外堀を埋めるなどの条件を付け、一旦は和睦となりますが、翌年1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」で、再び豊臣家と徳川家が対立。
お初はこのときも大坂城へ入り、最後まで和睦に尽力しましたが、姉・茶々の決意は固く大坂城は落城してしまいます。
徳川家康の孫で「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の妻「千姫」らの助命嘆願も聞き入れられず、茶々とその息子・豊臣秀頼は、自刃しました。
姉・茶々を救えなかったことを無念に思ったお初の思いを記した物が、彼女の眠る墓所「常高寺」(じょうこうじ:福井県小浜市)に残されています。
もともと仲の良い3姉妹でしたが、長姉・茶々が亡くなった大坂の陣以降、江戸城内にてお初と妹・お江は会うことが増え、仲良く過ごしている姿が頻繁に目撃されました。
徳川家の天下となると、お初はお江と徳川秀忠の四女である「初姫」(はつひめ)を、京極家の当主となったお初の息子・京極忠高に嫁がせます。これは、徳川家の血を入れることで京極家の安定を図ろうとしたためですが、この2人の夫婦仲は非常に悪く、20歳で早世した初姫の今際の際でさえも、京極忠高は外遊していたと伝わるほど。お初の余生は2人の関係に悩まされる日々となったのです。
1633年(寛永10年)お初は3姉妹のなかでは一番長寿の64歳で永眠。
最後まで波乱万丈な人生を過ごしたとも言えますが、彼女の手腕が京極家をのちの世まで繁栄させたことに違いはありません。
そのあと、京極忠高も45歳という若さで亡くなりますが、跡継ぎがいなかった京極家の領地が「改易」(かいえき:領地没収)とならなかった理由のひとつに、お初の功績があったためだと伝わっています。
お初は、戦国の世の厳しさを味わいながらも、嫁いだ先の京極家の繁栄を成し得て、侍女達からも大変好かれていたと伝わる優しい人柄でした。お初が亡くなったときには、侍女達が一斉に剃髪をしたという話が残されているほど、人望の厚い女性だったのです。