【あらすじ】「壇ノ浦の戦い」に向かう途中、船上で刺客に襲われた源義経。楠木武は、源氏水軍の侍大将である梶原景時に源義経暗殺の嫌疑をかけるが、当の源義経にその場を収められてしまう。楠木武は、飄々とした態度の源義経に戸惑うのであった。
だが、なぜ景時は義経を必要以上に敵視するのだろう。
新参者に過ぎない楠木にとって、東国武士のしきたりや序列などは分からない面が多い。それでひとりの武人として、軍才で遠く及ばないゆえの嫉妬ならば理解もできる。楠木も以前、同じ感情を持っていたからだ。よほどのできた人間でもなければ、自分よりも年下の、しかも人を舐めきった男に、自分の手の届かない巨大な才能があるとは、容易に認めたがらないものだ。
義経が範頼のように温厚な性格だったなら、景時との衝突などなかったかもしれない。年長者を立てる礼儀をわきまえていれば、景時はたとえ年少者であっても大いなる敬意を持って義経をもり立てたに違いない。
だが残念ながらそうではなかった。義経は巨大すぎる軍才を振りかざすだけの礼儀を知らない子どもに過ぎなかったし、景時も凝り固まった思考の枠から抜け出せない狭い器量しか持ち合わせていなかった。両者の組み合わせが、どれだけ源氏の利益を損ねてきたか、楠木は遺憾に思えてならない。
これで次の戦では、本当に勝てるのだろうか。
思わずそんなことを考えてしまう。何か大きな落とし穴が待ち受けている感じがして、気持ちが落ち着かなくなってしまった。
そのとき、陸上の範頼軍から軍議のための船が着いた。
「おう、楠木。達者でいるか」
船には範頼の他に何人かの随員がおり、その中に平宮和実の姿もあった。
「平宮殿、よくぞ来られました」
「なに、この近海はすでに源氏が制しているからな。危険なのは平氏が寄った長門国の周囲だけよ。それよりどうだ。『闇の者』の気配は察せられたか」
「それがどうも奴ら、梶原殿に取り憑いているようで」
「なんと!よりにもよって梶原殿にか……。それは参ったな」
「私もどうして良いか分からず。途方にくれていたところです。平宮殿、何か良い知恵はありませんか?」
「知恵と言われてもなぁ……」
渋い表情を浮かべて考え込む平宮。それでもすぐに面を上げると、
「状況が違うから俺の事例は当てはめられん。だが……」
そう言って平宮は人の少ない場所に来ると、彼が『闇の者』と戦った当時の話を語りだした。
時の偉人は平清盛。平宮は遣使(けんし)として清盛の警護に就き、平治の乱を勃発から終結まで戦い抜いた。『闇の者』は後白河天皇の寵愛を受けた藤原通憲や異様な立身出世を成し遂げた藤原信頼に取り憑き、社会に混乱と戦乱を招いていた。清盛は彼らに変わる勢力として後白河帝に利用されながらも、一度は『闇の者』を権力の中枢から廃し、世に平安をもたらすことに成功した。
だがそれも長い歴史から見れば一瞬のこと。清盛は『闇の者』に取り憑かれこそしなかったものの権力欲に取り憑かれ、権力を握ってからは一族を次々と登用し、平氏はこの世の春を謳歌した。その結果が自らの基盤である武士達の反乱を呼び、現在の一族滅亡の危機を迎えているわけだが……。
「考えてみると因果なものよ。俺は自分が守った清盛殿の子息達を今度は滅ぼそうとしているのだからな。歴史の神も残酷な真似をするものだ」
話を終えた平宮は、感慨深そうな顔で呟いた。だが彼がどのように『闇の者』を退けたか、肝心なところはうやむやになったままだ。
楠木は思いきって平宮に聞いた。
「結局、平宮殿はどうやって人に憑いた『闇の者』を退治されたのでしょう」
「退治だと?退治などしておらんよ」
「していない!?ならどうして……」
「焦るな焦るな。俺が退治できなかっただけで、きちんとその後退治されているさ。お前さんも知っている神刀とその使い手によってな」
「神刀とその使い手、ですか……」
その時代ごとに現れる神刀とその使い手。確かに彼らでなければ『闇の者』を滅することはできないと聞く。だがこの時代、彼らはまだ出現していない。ならばどうして、景時に取り憑いた『闇の者』を排除することができるのか。
「そうだな、取り憑いた人間の意識を奪い、その望みを絶ち斬るとか、大きな挫折感を味わわせるとか、かな?」
「もっとはっきりした方法を教えて下さい!この期に及んでは平宮殿だけが頼りなんです!」
「血相を変えて詰め寄られてもだな。俺だってこの程度しか分からんのだよ」
なりふり構わず戦ったところで、返り討ちにされるだけだ。それに、神刀無くして『闇の者』が退治できないのは以前から聞かされていた。なら、どうすれば『闇の者』の脅威を取り除くことができるだろう。楠木の混迷は深まるばかりだった。
「焦る気持ちは理解できる。お前は真面目すぎるから何でも完璧にこなしたいのだろうが、世の中には焦っても解決しないことなんていくらでも……って、以前も同じことを言った気がするな」
平宮は首をかしげながら立ち上がった。そして、
「状況は俺が想像したより悪いようだ。俺も梶原殿の周囲を探ってみる。だがくれぐれも先走った真似はしないように。とにかく九郎殿の身辺警護だけに注意するんだ。あの方に危害が及ばんように、な」
念を押すように告げると、平宮はその場から去っていった。
平宮の助言通り、楠木は義経の警護に注力した。軍議は翌朝からとのことで、範頼は景時が自分の船で催した宴席に出ているらしい。平宮も同席しているらしく、時折、使いと名乗る密偵らしき者が現れては、その場で得た梶原の情報を伝えてくる。
どうやら梶原以外も義経を警戒する勢力があるらしい。どうやってこれらの情報を得たのか、楠木には見当が付かなかったが、その勢力が鎌倉にいる頼朝側なのか、京都の後白河法皇の側なのか、さすがにそこまで深くは調査できないようだ。
「やれやれ、ご苦労なことだね」
義経は密偵からの報告を聞き終えると、小さな声で呟いた。
「義経様……」
「ただでさえ平氏の他に『闇の者』なんて厄介な相手がいるのに、さらにちょっかいかけてきた馬鹿がいるとは思わなかったよ」
憤る言葉とは裏腹に、義経は薄ら笑いを浮かべている。
どうやら相手に心当たりがあるようだ。
「義経様、誰が貴方様を警戒しているのですか?」
「さあね、心当たりがありすぎて逆に見当がつかないよ」
義経は曖昧な表情ではぐらかすと、見る者の寒気を誘うような凄惨な笑みを浮かべた。
「でもこれも自業自得ってやつかな……、俺って男はつくづく信用されない人間らしいね」
それ以上は楠木がいくら聞いても、義経は言を左右して何も答えようとはしなかった。
楠木は危うすぎる義経の立場を案じながらも、その状況すら楽しんでいるような彼に、不安と不気味なものを感じていた。