【あらすじ】楠木武は、船に訪れていた平宮和実に助言を求める。平宮和実は源義経身辺警護に注意するよう念を押した。 楠木武は平宮和実の助言にしたがいながらも、危うすぎる源義経の立場を案じていたが、その状況すら楽しんでいるような源義経に、不安と不気味なものを感じていたのだった。
翌朝から始まった軍議は、半日あまりで終了した。範頼はすぐに陸地に待たせた自らの陣地へと引き上げるらしい。当然、平宮も範頼にしたがってこの場を離れることになる。
「私などに、本当に義経様をお守りできるのでしょうか?」
「心配するな。お前はあのときの俺よりしっかりしている」
不安げに見送る楠木に答えると、平宮は何気なく腰に下げた太刀を寄こしてきた。
「……あの、これは?」
「ほう、安綱か……、これは結構な業物だぞ」
いつの間に現れたのだろう。義経が楠木の肩越しに渡された太刀を覗き込んだ。
刀長は2尺6寸5分あまり、全体に優美な反りがある。鞘から抜いて刀身を見れば、冷気を発するような見事な刃文が流れていた。
「これと同じ太刀を観たことがあるな。確か祖先の頼光だかその配下の渡辺綱だかが、酒呑童子を斬った刀だったかな。あれ、牛鬼だっけ?」
首をかしげる義経をよそに、楠木は安綱を返そうとした。
「そんな立派な太刀を私などに、もったいないです!」
「いや、いいんだ。こいつは今の俺よりお前にこそ必要だと思うからな。それにこれくらいの刀でなければ、『闇の者』を退けるのも難しかろう」
平宮はそう言って迎えの船に飛び乗ると、範頼の船とともに陸地へと戻っていった。
「楠木殿であられますか?」
船が去ってすぐに、楠木は連絡役の兵に呼び止められた。
「そうですが何か」
「ただいまの船で運ばれた荷物の中に、貴方に宛てた手紙がありまして」
「私に?誰だろう」
受け取って差出人を見ると、そこにはか細い文字で春章とだけ書かれていた。
「……春章か。何だろう」
白樺春章は京都の古い神社の神主で、楠木にとっては古くからの友人だ。一番の近い者と言っても良い。女性と見まごうばかりの美貌の持ち主で、市街はもちろん宮中の女官達にも熱心な信者がいるらしく、神社は大した知名度もないくせにずいぶんと繁盛しているらしい。
だが普段の軽薄さとは裏腹に、春章は腕利きの退魔師という側面があり、そちらでもかなりの成果を上げている。さらにある刀剣を供養した際に「歴史の神」に出会ったことで、遣使(けんし)の役割も請け負っており、楠木はそちらの面でも結構な助力を受けていた。
手紙には景時に取り憑いた『闇の者』の気配と、さらに巨大な影が蠢いているとあった。加えて、わざわざ義経への警護を厳密にと書かれているところからすると、近々何かあるに違いない。
自分ひとりでは事足りぬかも知れない。楠木はやむを得ずこの日、義経軍に合流した武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)と那須与一(なすのよいち)のもとを訪ねた。
「弁慶殿、少々よろしいか」
「おお、楠木殿。拙僧になに用かな?」
武蔵坊弁慶。その強面と小山のような体格で知られており、長刀を持たせれば武士100人に匹敵する豪傑だ。だが普段は温厚で人当たりもよく、意外に口も達者なことから、多くの者達から信頼されている。
本来であれば楠木ではなく弁慶が義経に張り付いて警護するはずが、義経の副官的な立場から、やむなくこの日まで瀬戸内海に根城を置くいくつかの水軍を周り、味方に付くよう交渉にあたっていた。
「九郎殿の警護について、弁慶殿に相談したい件がありまして」
「まさか、九郎様に何かあったと申すか?」
強面の太い眉がぴくりとした。
「一体何があった。事と次第ではお主、ただではおかんぞ」
弁慶が血相を変えるのも無理はない。義経とは五城大橋での出会いから、主従を越えた固い絆で結ばれているのは誰もが知るところだ。
「申し訳ありませぬ。私の言葉が足りませんでした。でもご安心下さい、義経殿は無事ですよ。此度は何かあったということではなく、起きないようにするためにご協力をいただきたい、そのための相談です」
「そうであったか。それは失礼つかまつった。どうも拙僧、九郎様の話となると時折、我を忘れてしまう傾向があり……、すまんのう」
弁慶は顔をふっと赤らめると、恥ずかしそうに頭を下げた。
「弁慶殿、楠木殿が困っておられますぞ。面を上げられよ」
背後から凜と鈴の音を思わせる綺麗な声が聞こえた。
那須与一資隆。藤原北家に連なる豪族で下野国に根城を置く那須一族の弓の名手だ。見た目は眉目秀麗な美男子で、体の線こそ細く一見ではとてもそうは見えない。だが先日の「屋島の戦い」で見事、扇の的を射貫いてからは、その剛胆さと冷静沈着ぶりで、敵味方の武士達から一目も二目も置かれていた。
彼らの協力が得られるならば、これほど心強いものはなかった。
楠木は景時にまとわりつく不穏な影と、近々に起きるであろう義経暗殺の件を2人に話した。
「何のことはない。自業自得じゃないですか」
「与一殿、何をおっしゃる」
「大体ね、あの方は人を馬鹿にしすぎるんですよ」
そう言って与一は壁にもたれかかり、窓の外に目をやった。
「九郎殿は紛れもなく戦の天才ではあります。あの方に従えば連戦連勝間違いなし。此度の大戦でも西国で勢力を盛りかえした平氏をことごとく撃破している。もちろん次の戦だって勝つでしょう。平氏にとっては疫病神そのものでしょうね。でも、それは源氏だって同じこと。あの方は自分が面白ければ何だってやる人だ。その気になれば、鎌倉殿にだって反旗を翻すでしょうね。もちろんそうしたところで、どれだけの武士が九郎殿に従うかは分かりませんが」
与一の話ももっともだった。
義経は内心で何を考えているか分からないが、時折見せる不穏な表情や、味方といざこざを起こすところは、あえて平時に乱を起こそうとしているように思えてならない。
さらにどんな戦でも先陣をきって敵陣へと突撃するなど、勇猛さは賞賛すべきではあるものの、一番首は武士の誉れ、誰もが欲しい栄誉だ。それを真っ先に取りに行くのは、総大将がすべき行ないではない。
その点、景時の言い分はもっともで、義経は大将の器にはないのかもしれない。
とは言え、義経の人格や将としての器の欠如が、暗殺を放置する理由にはならない。何しろ義経は「歴史の神」に選ばれた偉人だ。彼が倒れたらのちの世に大きな影響があるに違いなかった。遣使(けんし)としては何としても、偉人を守りきらなくてはならない。
「与一殿。此度の戦で源氏を勝利に導く、ただその一点のみを理由として、此度だけ義経様を守るのに手を貸してはいただけませんか」
「楠木殿?」
「戦ののちはさておくとして、此度の戦では義経殿が必要です。なにしろ兵達はあの方を崇拝しています。我が軍はまさに義経様の存在を拠り所に統率がとれていますからね。加えて義経殿は不思議な求心力をお持ちです。義経殿を廃して景時殿を総大将にしたところで、戦は上手く運ばないでしょう」
「さよう、景時殿は拙僧からしても勇猛果敢、天晴れな武勲の持ち主なれど、残念ながら九郎様ほどの求心力はお持ちではない」
弁慶はもっとだといった顔で頷いてみせる。だが彼がいくら公平を装おうとしても、その言葉はどうしても義経寄りに聞こえてしまい、楠木も与一も苦笑してしまう。
「そうでしょうね。景時殿は優秀な方ですけど、義経様と比べては一段も二段も落ちてしまいます。これはやむを得ざるところですが、我が方をとりまとめているのは景時殿の才覚ではなく、九郎殿の武勇。目下のところ代替できるものはありますまい」
「加えて我が軍は、兵士に比べて船での戦が不慣れです。連戦連勝でお気付きの方も少ないと思いますが、我が軍は主力が東国武士。あとは、近隣諸国の武士を糾合した寄り合い所帯に過ぎません。1度の敗戦が軍の瓦解を招く可能性だってあるのです。ここはどうあっても勝利の象徴として義経殿には、ご無事でいただき、我が軍の陣頭に立っていただかなくてはならないのです」
「楠木殿の御意見はもっともです。どのみち、この戦が終わるまでは九郎殿の存在が必要な訳だ」
本当は与一も判っていたのだろう。頭では理解はしていても、義経に抱いた複雑な感情のせいで、快く引き受けるにはためらいがあったようだ。
聞けば、かの「扇の的」では外したら切腹せよと厳命されていたらしい。
しかも本来、扇を射る役は与一ではなく、義経が指名した武士であったと言うが、尻込みして逃げてしまったため、扇を射る役がたらい回しになり、かといって逃げるのは源氏の恥と、義経はもっとも最終的に断りづらい立場の与一に押し付けたらしい。
結果、射落とせたからよかったものの、与一にとっては命を失いかねない、危険きわまりない役目だったという。
「ご両名にはまもなく始まる戦の準備もありましょう。ですがそこはお味方の勝利のため、曲げて義経様の警護にお力添えいただきたい」
そう言って頭を下げる楠木に、弁慶が力強く言った。
「面を上げられよ楠木殿。貴殿に頼まれるまでもなく、九郎殿をお守りするのは拙僧の役目だ。納得したのなら貴様も助力せよ。那須与一」
「私はやはり九郎殿という御仁を好かぬのでありますが……」
上から目線の弁慶に与一は冷たい目を向ける。
「それ以上に無用な人死にが出るのを看過できませぬ。渋々ではありますが協力させていただきますよ。楠木殿」
棘のある言葉はともかく、弁慶と与一が協力してくれるのは嬉しかった。
楠木は内心安堵しながら、2人と義経の警備について話し合った。
「先頭を行く梶原殿の船より大船団発見との報告!」
平氏の根拠地である彦島まであと半日あまりというところで、突然、当直の武士から報告が入った。時刻は卯の刻あたり、夜が明ける寸前だ。
「ずいぶん、早いな」
義経は首をかしげた。
「上から何か見えないか?」
櫓に登った武士に弁慶が聞くと、特に異常はないようだ。
「そうか……、面白くなってきたじゃないか」
義経はやはり楽しそうだ。
「義経様!」
「危険です、どうか中にお隠れを」
当直の兵達が声をかける。だが義経は甲板に仁王立ちしたまま身じろぎもしない。それどころか与一に意味ありげな視線を向けると、
「無用さ。この船には那須与一がいるんだ。もし前みたいに闇に乗じて弓を引く馬鹿がいても、相手より先に射殺してくれるさ。だろう、与一?」
「まあ、微力は尽くしますよ」
「だから弓の心配はしなくていいよ。与一が外すわけがないんだから」
そこで義経は得意げに鼻を鳴らすと、楠木達を見回した。
「いまから緊張する必要なんてないさ。俺達はただ待てばいいんだからね。もちろん、待っているのは平氏ではなく景時殿だがね。どんな手を使ってくるかは分からないけど、遅かれ早かれ彼はこの場に現れるよ」
そう言い終えるやいなや、伝令が義経のもとに走り寄った。
「あの、梶原殿がお供の方と小舟で来られまして、至急、義経殿にお取り次ぎをと……」
「いいよ。ここにお連れして」
伝令が一礼して、景時のもとへと戻っていく。すぐにドンドンと甲板に響くような足音を鳴らしながら、景時と数人の郎党が現れた。