【あらすじ】白樺春章からの手紙には、梶原景時に『闇の者』の気配があることや、源義経の警護を厳密にするよう書かれていた。そこで楠木武は、義経軍に合流した武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)と那須与一(なすのよいち)の元を訪ね、彼らの協力を得ることに成功する。そして夜明け前、梶原景時と郎党達が、楠木武と源義経の船へと押しかけて来たのだった。
「義経殿、好き勝手なさるのもここまでですぞ!御身には鎌倉殿に対する反逆の嫌疑がかかっておる」
「は?何のことだ」
不快げに眉をひそめる義経。景時はその顔を見ると、ここぞとばかりに周りの船にも聞かせんばかりの大声で口上を叫んだ。
「とぼけるのも大概にされよ。この梶原景時、鎌倉殿より頂いた大権をもって御身を拘束し、水軍を我が管轄下に置く!者ども異論はないだろうな!」
景時の言い草に、楠木はもちろん義経側の一党はしばし呆然となった。だがすぐに弁慶と与一が景時に詰め寄る。
「馬鹿な、何を証拠に!」
「これはさすがに横暴だ!梶原殿、お気は確かか!?」
「ふむ、武蔵坊と那須殿か。証拠と言えば無論、先日の軍議でのことよ。攻め手の一番手を儂が承らんとしたところ、義経殿は自らが戦陣に立つと言って聞く耳を持たぬ。勇敢なのは結構だが、総大将が先鋒を務めるなど、古今東西聞いたこともない邪道中の邪道。義経殿は自らが先鋒に立って平氏に撃ちかかると見せかけ、逆に我が軍を混乱に落とし入れる計画に違いない。探せば証拠も見つかるはずじゃ」
景時は身勝手な話を言い放つと、引き連れた郎党に船内の捜索を命じた。
「止めんか、本船は総大将の座乗艦なるぞ!者ども控えい、控えるのだ!」
弁慶は叫びながら両手を挙げて、郎党達を遮ろうとする。
「ははは、無駄だ無駄だ!こ奴らは儂の命にしか従わぬよう術をかけておる。怪我をしたくなくば大人しくしておれ」
勝ち誇る景時の前で、弁慶達は取っ組み合いを始めた。楠木は彼らの小競り合いに加わることなく、ひとり義経の盾となるべく景時の前に立ちはだかる。
そのまましばしの間、楠木をはさんで義経と景時のにらみ合いが続いた。
「あのさぁ……」
どれくらいそうしていただろう。義経が痺れを切らしたように口を開いた。
「にらんでないでかかって来いよ、『闇の者』とやら。俺の命が欲しいんだろう?」
ほうと大きく目を見開くと、景時、いやもはや『闇の者』と呼ぶべきこの者は、唇に残忍な笑みを浮かべ、人間とは思えないような濁った声で義経を嘲弄した。
「平泉なんぞの田舎で長く過ごすと京の雅も忘れるようだの、この無粋者め!望みとあればその首、すぐに叩き斬ってくれるわ!」
「させるか!」
腰の物に手をかけて『闇の者』が1歩、足を踏み出す。そうはさせじと楠木は安綱を引き抜き、義経を庇うように両腕を広げた。
「邪魔をするな青二才。少し考えたほうが良いぞ。いま義経を殺したほうが、後々そのほうらのためにもなるぞ」
「何の世迷いごとを……」
楠木は眼光鋭く睨み付ける。だが『闇の者』はその視線をやすやすと受け止めると、今度は懐柔するような甘い声でこんな言葉を囁いた。
「我はお前達のために言っているのだ。本当はお前にも分かっているのだろう。義経殿は本来、我らに近しい存在。やがて人の世に災いをもたらすに相違ない」
「うるさい!黙れ!」
と口にしたものの、楠木は内心迷っていた。『闇の者』の言葉には心当たりがありすぎた。味方の混乱を招くような景時との仲違い、時折見せる悪鬼のような笑顔。それらはいずれ、義経が日の本に災いをもたらす暗示のように思えてならなかった。
構えた切先が楠木の迷いを表すかのようにわずかに揺れる。
そのとき、楠木の背後で義経が口を開いた。
「俺は今、無性に腹が立っている」
その声には普段は表に出さない、明らかな怒りの色が混じっていた。
義経は楠木を押しのけて前に出ると、腰に佩いた名刀「薄緑」を引き抜き、切先を『闇の者』に突き付けた。
「さっきから好き放題言いやがって。俺がお前達『闇の者』に近いだって? 冗談じゃない、俺はお前らみたいに裏からこそこそ手を回して、おいしいとこ取りを狙うような輩は大嫌いなんだ!」
「くくく、願ってもない。標的が自分から前に出てくるとはなぁ」
そう言って『闇の者』も刀を引き抜き、義経へと斬りかかる。
その刹那、ひゅんっ!と風切り音がなったかと思うと『闇の者』の鼻をかすめて白羽の矢が飛んでいった。
「ちっ!」
矢が飛んできたほうを振り向くと、与一が悔しそうに舌打ちをしている。見れば景時の郎党はすべて弁慶と船に常駐していた武士達に取り押さえられていた。
「いいね、これでいつぞやのお返しもできた訳だ」
じりじりと義経が「薄緑」の切先を向けながら『闇の者』へとにじり寄る。楠木も、矢をつがえ直した与一と歩調を合わせて『闇の者』との距離を詰めていった。
「この能無しどもが!」
『闇の者』は悪態を吐くと、次の瞬間、体を深く沈み込ませ、一気に船の穂先へと跳躍した。『闇の者』が憑依したせいだろうか、尋常ではない筋力だ。
景時の郎党達も『闇の者』の制御から離れたようで、まるで糸が切れた操り人形のように、一斉にその場に倒れこんだ。
さきほど景時が上げた声を気にしてか、周囲には味方の船が集まりつつあった。『闇の者』はそれらの船を足場に次々と跳躍を繰り返しながら、景時の本船を目指していく。
「逃がすものか!」
楠木も船縁から跳び上がると、『闇の者』のあとを追った。何度も跳躍を繰り返して、『闇の者』に追い付くと、何合か剣戟を交わしながら、同時に景時の船へと飛び移る。
「凄いじゃないか楠木!そんなの初めて見たぞ!」
後方では義経が大きく手を打って喜んでいる。
「俺も今度、やってみようかな」
「ええい、まさかこのような事態になろうとは思わなんだわ」
この場は不利と考えたのか、景時の体から本体らしい霊体が抜けでてきた。薄紫のもやとなって、上空へと立ちのぼっていく。
「待て!痴れ者が!」
楠木は安綱を上段に構え、霊体へと斬り付ける。鋭利な輝きが薄もやに触れるも、白刃はそのまま素通りしてしまい、何の感触も残らない。
「……くっ」
やはり『闇の者』を滅するには神刀でなければならないらしい。
それでもある程度の痛手は与えられたようだ。
『闇の者』が漏らす声に苦悶の色が混じっている。
「……ぬかったわ、まさか人の世に我に届く刃があろうとはな」
「驚いたか!これこそ伯耆国の名工、安綱が打ちし秘伝の太刀よ!たとえ討つことは叶わずとも、それなりの痛手は与えられよう!」
義経がまるで自から手を下したように自慢げに口にする。『闇の者』は苦悶のうめきを響かせながらも、楠木に向かい陰鬱な声で語りかけた。
「若造、覚えておくがいい…、義経は必ず日の本に争乱と破滅を招く」
「この期に及んで負け惜しみか!」
楠木は安綱を振り回すも、霊体はすでに刃の届く範囲にはなかった。
「この場は引き下がるが、近いうちにまた相まみえようぞ!」
『闇の者』は言い捨てると、そのまま上空へと浮かび上がり、やがてふっと消え失せてしまった。
「……ここは、儂は一体」
楠木が義経の船に戻ると、景時が意識を取り戻した。
「気付かれましたか、梶原殿」
「これは……、義経殿!?」
景時は虚ろな瞳で周りを見る。
「一体何が起きたのだ?状況が理解できん。まさか平氏の落ち武者どもが攻めてきたわけではあるまいに……」
「実は――」
楠木は事情をかいつまんで説明した。だが話が進むにしたがい、だんだんと景時の表情がこわばっていく。話が終わる直前になると、堪りかねたように顔を真っ赤にしてわめき声を上げた。
「馬鹿を言うな!この景時が化け物に操られた挙げ句、義経殿に反逆したと?」
「梶原殿、落ち着かれよ。貴殿が悪いとは一言も。ただ、裏で糸を引いていた者に意識を奪われ……」
「それが馬鹿にしているのだ!」
なだめるつもりが逆効果だった。景時の憤りは激しくなるばかりだ。
「仮にも儂は義仲討伐で勲功を挙げ、先の一ノ谷では二度駆けとまで名を馳せたひとかどの武士ぞ。その儂が化け物に操られるとは、言うに事欠いてありもしない恥辱を浴びせるとはなんたる無礼か!」
それでも景時は内心、心当たりがあるのだろう。武士としての矜持が義経に怒声を浴びせるのをためらわせているようだ。
「者ども、いつまでくたばっているつもりじゃ!起きろ!えい、起きんか!」
景時はよろよろと立ち上がると、力なく倒れている郎党を蹴って回った。郎党達はすぐに意識を取り戻すと、景時にせき立てられ、そそくさと来たときの小舟に乗って引き上げていく。
「あはははは!いいね、いいね!『闇の者』に精神を乗っ取られるなんて三下は、ああやって惨めに去っていくのがお似合いだ!」
義経はさも愉快そうに笑う。楠木はその背後で複雑な思いに駆られていた。
「やはり、神刀でなければ『闇の者』を切ることはできないのか……」
ふと霊体が消えた空を見上げる。
最後に『闇の者』が言い残した言葉が、心底に澱のようにわだかまっていた。
果たして義経は何のために平氏と戦っているのだろう。鎌倉にいる兄、頼朝のためだろうか。あるいは戦いを嗜む自らの心を満足させるためか。
「気にするな、お前は良くやったよ」
思い悩む楠木を見かねたのか、義経が肩に手を置いた。
「そもそも『闇の者』なんて化け物退治は俺達の役目じゃない」
「……確かに」
「確かに、安綱ほどの名刀でも奴は斬れなかった。でも痛手は与えられたじゃないか。それで充分だと思うぞ。少なくとも奴らを追い払う手段を見付けたんだからな」
「義経様……」
たとえ滅することができなくとも、対抗手段がある。
それが分かっただけでも心強くはあった。まったく手も足も出ないよりは遙かにましではあったからだ。
これなら神刀が現れるまで、義経を守りきることができるだろう。
「それにしても、俺が日の本に争乱と破滅を招くか…、平氏が滅んだら、鎌倉の兄上を相手に一勝負しても面白いやもしれんな」
安堵する楠木の横で、義経がぽつりと漏らす。
義経の本心は何を望んでいるのか。
横顔に『闇の者』以上の邪悪な何かを感じてしまい、楠木の心に冷たいものが走った。
御家人達の不平不満を抱えながら、義経軍は壇ノ浦へと急ぐ。陸では源範頼軍が展開を終え援護射撃の準備に入ろうとしていた。兵力は源氏軍830隻に対し、平家軍は500隻。数の上では源氏有利ながら、海戦の経験と船の熟練を考えれば、楽観視はできない。
果たして源義経は、御家人達の不満を抑えながら、源氏を勝利に導くことができるのだろうか。日本史上、希に見る大規模な海戦が、間もなく始まろうとしていた。