古代宮廷社会にあって最大の勢力と権勢を誇った藤原北家(ふじわらほっけ)。近衛家はこの藤原北家に連なる日本の名家です。歴代の当主は、朝廷にあって常に要職にありました。明治維新の際に、近衛家は「華族令制定」に伴って公爵に列せられ、明治時代・大正時代・昭和時代前期の日本で大きな役割を果たしています。連綿たる歴史のなかで存在感を発揮してきた名門近衛家は、どのような刀剣を秘蔵していたのでしょうか。
近衛家とは、「藤原鎌足」(ふじわらのかまたり)を祖とする名家です。藤原鎌足はもとの性を「中臣」(なかとみ)と言い、「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)と共に「大化の改新」に尽力。中大兄皇子が「天智天皇」として即位すると、多年の功績により「藤原」の姓を与えられました。
藤原鎌足の子である「藤原不比等」(ふじわらのふひと)の次の代になると藤原氏は南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の藤原四家(ふじわらしけ)に分立。このうち北家がもっとも繁栄し、平安時代中頃に最盛期を迎えます。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の和歌は、当時の藤原氏一族の当主「藤原道長」(ふじわらのみちなが)が詠んだ一首です。「この世をば わが世とぞ思ふ」(この世のすべてを手に入れた)というところに、満足感が表れています。
しかし、譲位した天皇が上皇として院政を行なうようになると、公家(宮廷の官人の総称)政治の衰えとともに、藤原氏の権勢も陰りが見えはじめ、藤原道長から5代あとの「藤原忠通」(ふじわらのただみち)の代で藤原氏は、嫡男「藤原基実」(ふじわらのもとざね)の流れと、三男「藤原兼実」(ふじわらのかねざね)の流れに分かれたのです。
藤原基実は、邸宅が平安京の近衛大路室町(このえおうじむろまち)にあったので近衛家と称し、藤原兼実は代々の邸宅地の名称を採って九条家を称しました。
1150年(久安6年)に8歳で元服した藤原基実は、1158年(保元3年)に16歳で関白(かんぱく:天皇を補佐する役職)になりました。これは、20歳未満で関白に就任した最初の例です。その後「平清盛」(たいらのきよもり)の娘「盛子」(もりこ)を妻として強力な後ろ盾を得ますが、24歳の若さで病死。家督は藤原基実の嫡男「藤原基通」(ふじわらもとみち)が継承し、代をつなぐことになります。
近衛家の歴代当主は家格の高さもあって代々、従一位、摂政、関白、太政大臣など官職の最高位にありました。鎌倉時代になり武家が政権を掌握すると、政治の実権こそ失いましたが、常に朝廷の公事や儀式の存続に不可欠な一族として存在感を発揮しています。
近衛家は、近衛家が成立した平安時代から、昭和時代の「太平洋戦争」のあとに到るまで、著名な人物を多数輩出しました。例えば、「近衛前久」(このえさきひさ)は、1536年(天文5年)に「近衛稙家」(このえたねいえ)の嫡男として生まれ、内大臣・右大臣・関白などの要職を歴任。1555年(天文24年)には従一位に叙され、位人臣を極めています。和歌・連歌・書に勝れた当代きっての教養人である反面、鷹狩りを趣味とし馬術をよくするなど、公家とは思えないほど活動的でした。
こうした性向ゆえに、新興武家勢力として台頭してきた戦国武将とも気が合ったようであり、「上杉謙信」、「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」といった武将達と誼(よしみ)を通じました。公家と武家の立場の違いがありますから、相入れない部分もありましたが、近衛前久は「武将達の力を借りて乱れた世を安寧にする」という使命感のもと、武将達に進んで協力。
彼らもまた何くれとなく近衛前久を頼りとしました。ことに織田信長の近衛前久に対する信頼は絶大であり、公家のなかでは唯一、心を開いて語り合える存在でした。
明治以降では、「伊藤博文」らと共に近代政治の確立に尽力した「近衛篤麿」(このえあつまろ)、第34代、第38代、第39代と計3度、内閣総理大臣を務めた「近衛文麿」(このえふみまろ)がいます。
近衛家と称してから31代、祖・藤原鎌足から数えれば1300年余の歴史を有していることもあり、数々の名品が揃い踏み。ここでは、近衛家に伝承する刀剣をご紹介します。
「雲生」(うんしょう)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、備前国宇甘郷(現在の岡山県岡山市御津町宇甘)で、刀剣制作にあたった刀工です。門下には「雲次」(うんじ)、「雲重」(うんじゅう)らがおり「雲」の字で銘を切ることが多い「雲派」(うんぱ)の祖です。同派は「雲類」(うんるい)もしくは「宇甘派」(うかいは)と呼ばれることもあります。通常の備前刀とは異なり、山城気質が強く現れるのが同派の特徴です。
近衛家秘蔵の「太刀 銘 備前国宇甘郷雲生 八幡大菩薩」(たち めい びぜんのくにうかいのごううんしょう はちまんだいぼさつ)も、小乱(こみだれ)の混じる中直刃(ちゅうすぐは)の刃文や、反りの中心をなかほどにもつ笠木反り(かさぎぞり)の姿、比較的細身の鋒/切先(きっさき)など京風が色濃く出ています。雲派に関しては京都でも刀剣制作を行なっていたとの説が提唱されており、本刀はその根拠とされる1振です。
銘は、佩表(はきおもて)に「備前國宇甘 雲生」、佩裏(はきうら)に「八幡大菩薩」と刻まれています。銘に国名を刻むことはあっても、住所を特定できる地名まで刻むのは非常に珍しく、制作物に対する刀工の並々ならぬ自信が伝わってきます。
備前国で平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活動していた刀工集団「古備前派」(こびぜんは)による作。「友成」(ともなり)、「正恒」(まさつね)、「包平」(かねひら)、「吉包」(よしかね)、「秀近」(ひでちか)が主な刀工です。
秀近は、1423年(応永30年)の「観智院本銘尽」(かんちいんぼんめいづくし)をはじめ、各種刀剣書に頻繁に名前が挙がることから、中世の刀工界にあって著名な存在であったことが分かります。しかし、秀近制作の刀剣で現存しているのは、わずか2振のみ。この内の1振が近衛家秘蔵の秀近です。
「太刀 銘 秀近」(たち めい ひでちか)は、刃長74.8㎝、反り3㎝で鎬造り(しのぎづくり)の庵棟(いおりむね)で、刃文は中直刃の互の目(ぐのめ)を交えており、刃中には沸(にえ)が目立ちます。また、刃縁(はぶち)には砂流し(すながし)、足といった細かい縞模様が特徴的。
細身の刀身は腰元で強く反り、鋒/切先はやや伏せ気味の小鋒/小切先(こきっさき)であり、平安時代後期以来の刀剣の姿を今日に伝えています。茎(なかご)は目釘穴を2個開けていますが、磨上げをした形跡はなく、生ぶ(うぶ)のまま。これは生ぶ茎(うぶなかご)と言い、非常に珍しい例です。
「太刀 銘 長光」(たち めい ながみつ)を作刀した「長光」(ながみつ)は、鎌倉時代中頃から後期にかけて、備前国で活動した刀工。銘は長光、「長船長光」(おさふねながみつ)、「備前國長船住左近将監長光造」(びぜんのくにおさふねじゅうさこんのしょうげんながみつぞう)など複数あります。
1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)に起こった「元寇」の頃、豪壮で質実剛健な美を確立し、長船刀工の名を世に知らしめました。父「光忠」(みつただ)と共に、鎌倉時代を代表する刀工であると言えます。
太刀 銘 長光は、刃長75.1㎝、反り2.7㎝。鎬造りの庵棟で腰反り高く踏張りがあります。鍛肌(きたえはだ)は均一で長光の銘は佩表に切られています。長光の作風は、華やかな丁子乱れ(丁子の実のように丸みを帯びた刃文が連続する)の刃文を得意としました。しかし、太刀 銘 長光は直刃で焼かれています。
雲次は、前述した雲生と共に、宇甘派を構成した刀工のひとり。「太刀 銘 備前国住雲次」(たち めい びぜんのくにじゅううんじ)は、反りの中心が鋒/切先と棟のなかほどに位置する笠木反りの姿です。刃文も直刃を基調としており、太刀 銘 備前国宇甘郷雲生 八幡大菩薩と作風を同じくしています。
江戸時代初期の1626年(寛永3年)9月に、「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)が「二条城」(現在の京都市中京区)へ行幸し、上洛した2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)父子が天皇に拝謁したことがありました。
この行幸は、徳川幕府の威信をかけた重要な行事であり、行幸直後は「寛永行幸記」(かんえいぎょうこうき:後水尾天皇の行幸を描いた絵巻物)が刊行されたほどです。
このなかで「行幸のとき公家衆へしん[進]せらるゝ御太刀覚」として32振の太刀が列記されました。徳川家光が献上した太刀の筆頭に「近衛殿 雲次」と記されており、今回ご紹介している太刀こそ、将軍家献上の雲次です。
近衛家秘蔵の刀剣は、相模国鎌倉(現在の神奈川県)や美濃国(現在の岐阜県)といった東国で作られた物はほとんどなく、西国の有名産地で作られた刀剣が揃っています。
これは武家が好む東国特有の荒々しさを忌避し、西国の優美にして古風を重んじる公家の意識が反映されているためです。「延次」(のぶつぐ)の銘が刻まれた「太刀 銘 延次」(たち めい のぶつぐ)も公家の優美さが表れている1振。
太刀 銘 延次は、備中国子位荘(びっちゅうのくにこいのしょう:現在の岡山県倉敷市)の青江で活動した「青江派」の刀工による作品です。この太刀には、よく詰まった小板目に、細かな鍛肌の縮緬肌(ちりめんはだ)が交じり、逆足(さかあし)という細かな斜めの入りこみ模様が入る青江派の特徴がよく現れています。
「太刀 銘 備後住正」(たち めい びんごじゅうまさ 以下切)は、銘が「備後住正」で切れていますが、これは茎を大磨上げしたことで銘の一部が切れてしまったためです。
制作者については「正家」(まさいえ)とする説と、「正広」と見る説があり、どちらも備後国三原(現在の広島県三原市)で活動した刀工です。鎌倉時代後期の正家が祖であり、正広はその子。
三原派の刀工は、直刃を二重刃風に焼く、鎬を高く作り込むなどの特徴があるため、大和伝の作風の影響を受けていると言われます。
紹介した刀剣はいずれも、近衛家に伝来した古文書や古典籍、古美術工芸品を一括管理している、「陽明文庫」(京都市右京区)が所蔵している名品の数々です。