朝廷の文官たる「公家」と「刀剣」は、一見すると異質な組み合わせに見えますが、公家にとっても刀剣は必要不可欠な道具でした。武道に励む必要はなく、ましてや合戦に出る訳でもない公家がなぜ、刀剣を必要としたのか。五摂家のひとつとして朝廷内で重きをなしていた九条家の名品を通して、公家と刀剣の関係について迫っていきます。
朝廷に仕えた官人を公家と呼びますが、このうち最高位の家格を誇ったのが「摂家」(せっけ)です。摂家は「摂関家」(せっかんけ)とも言い、摂は「摂政」、関は「関白」のこと。
前者は、天皇が幼いときの政治代行者、後者は成人した天皇を補佐する役職で、共に役職上は臨時に設けられる「令外官」(りょうげのかん)に分類されます。
この摂家の祖「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)は、朝廷の祭祀を司る豪族でしたが「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)と共に、最大実力者の「蘇我入鹿」(そがのいるか)を「乙巳の変」で暗殺し、「大化の改新」を断行してから大和政権の政治に参画するようになりました。
政権内にあっては天皇の側近的役職となる内臣(うちのおみ)として重責を担い、中大兄皇子が「天智天皇」(てんじてんのう)として即位すると、有能な補佐役として活躍。天智天皇は、中臣鎌足が亡くなると生前の功績を讃え「藤原」姓を与えました。
このあと藤原氏では藤原鎌足の次男「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が、「持統天皇」(じとうてんのう)に才能を見いだされて政治に参画し、律令制度の確立に努めます。
藤原不比等が亡くなったあとは「藤原武智麻呂」(ふじわらのむちまろ)、「藤原房前」(ふじわらのふささき)、「藤原宇合」(ふじわらのうまかい)、「藤原麻呂」(ふじわらのまろ)の4子が、南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)としてそれぞれの家を設け、「藤原四子」(ふじわらよんし)による政権を樹立します。
藤原四子の勢力は、当初こそ拮抗していましたが、やがて北家が抜きん出た勢力を誇るようになり、摂政・関白を独占して公家社会で隠然たる勢力を保持していました。さらにこのとき、藤原氏の権力は、天皇の意向をも左右するほどになります。
しかし、天皇が譲位して上皇となり院政を開始するようになると、公家政治の衰えと共に、藤原氏の権勢も陰りが見えはじめ「藤原忠通」(ふじわらのただみち)の代で2つに分かれます。嫡男「藤原基実」(ふじわらのもとざね)の流れと、三男「藤原兼実」(ふじわらのかねざね)の流れです。前者は、邸宅が平安京の近衛大路室町(このえおうじむろまち)にあったために「近衛家」と称し、後者は代々の邸宅地の名称を取って「九条家」を称しました。
このうち近衛家から鷹司家が出て、九条家から一条家と二条家が出ました。そしてこの近衛・九条・一条・二条・鷹司を総称して「五摂家」と呼びます。嫡流は近衛家ですが、五摂家のあいだに格差はなく、摂政・関白の役職は五摂家の持ち回りでした。大納言・右大臣・左大臣、ときに太政大臣も務めています。
九条家初代当主・藤原兼実は「玉葉」(ぎょくよう)の著者として有名です。これは40年に亘って書き綴られた日記であり、平安時代後期から鎌倉時代前期を知る上で貴重な史料とされています。なお、藤原兼実の同母弟「慈円」(じえん)は、鎌倉時代前期に天台座主(てんだいざす:天台宗のトップ)となりました。この学僧は「愚管抄」(ぐかんしょう:中世日本の歴史書)の著者として知られています。
武家にとっての刀剣が武人としての象徴ならば、公家にとって刀剣は朝廷における公人としての象徴でした。このため勅許(ちょくじゅ:納言や参議以上で帯剣を許されること)を受けた公家達は、朝廷の儀式に臨む際などには必ず、衣冠束帯(いかんそくたい)の正装に太刀を佩いて禁裏に入りました。
このとき用いられた太刀が「飾太刀」(かざりたち:同様の発音で[飾剣]と表記することも)です。「正倉院」(奈良県奈良市)に所蔵される「唐太刀」(からたち:大陸から渡来した剣)を模して、外装に意匠をこらしたため、この名称が付きました。
飾太刀を佩いて禁裏に入ることが制度化されたのは、律令制が整う奈良時代に入ってからです。大陸伝来の剣を模したため、当初は直刀形式でしたが、平安時代以降に武器としての刀剣の形状が変化する影響を受けて、反りが入るようになります。また、護身用ではなく儀式用なので刀身は鉄製ではなく、竹や鉄延板、もしくは漆を塗った木剣を鞘に納めていました。
飾太刀で、もっとも刀装に意匠がこらされたのは「金装飾太刀」(きんそうかざりたち)です。柄(つか)を白鮫の皮で覆い、鞘に螺鈿(らでん)を施し、柄頭(つかがしら)と一の足・二の足・責金(せきがね)・石突(いしづき)の計5個所に長金物を入れています。
長金物には「鍍金唐草紋」(ときんからくさもん)の透かし彫りがあしらわれ、瑠璃、水晶、碧玉(へきぎょく)などの宝石が散りばめられて実に豪華絢爛。正位・従位ともに「三位」以上の公家に佩用が許されていました。
飾太刀は、制作に莫大な費用がかかります。このため位階が低く、経済的に苦しい公家は、略式の太刀となる「細太刀」(ほそだち)を佩いていました。また、飾太刀の代用であることから「飾太刀代」(かざたちだい)とも呼ばれます。細太刀には、飾太刀にはあった長金物もなく、石突や冑金(かぶとがね)といった金属類の装飾も最小限です。なお、飾太刀・細太刀とも左脇に吊るすことが大原則でした。
「東京国立博物館」(東京都台東区)に所蔵されている「梨地鶴丸文蒔絵螺鈿金装飾剣」(なしじつるまるもんまきえらでんきんそうかざりたち)は、九条家に伝わる礼装用の飾太刀です。
作りの基本、先にご紹介した金装飾太刀同様であり、鞘にある4つの長金具には、緑色の宝石が一定間隔で規則正しく配されています。「鶴丸文」とは、鶴が羽根を広げて頭上で先端を合わせ、円を構成している紋様です。この飾太刀では鞘の部分に同紋様が描かれています。
飾太刀以外の名品では、例えば「太刀 無銘 菊紋」があります。これは「後鳥羽上皇」の作であり、九条家に伝来しました。
後鳥羽上皇は平安時代後期から、鎌倉時代前期にかけて活躍した人です。
「高倉天皇」の第4皇子として誕生して1183年(寿永2年)に天皇に即位し、1198年(建久9年)に「土御門天皇」(つちみかどてんのう)に譲位し上皇となりました。
芸術家肌にして多才多芸。特に和歌には堪能であり、自身で詠むばかりではなく、宮廷内の和歌所で「新古今和歌集」を編纂しています。
この和歌と共に、後鳥羽上皇が精力的に取り組んだのが、刀剣制作でした。後鳥羽上皇が鍛冶場を設けたのは、現在の大阪府三島郡島本町。現在は「水無瀬神宮」(みなせじんぐう)が鎮座する場所です。ここにはかつて後鳥羽上皇が天皇時代に築いた「水無瀬離宮」がありました。刀身の鍛造に水は不可欠であり、同地は、山紫水明の地にして豊富な湧出量を誇る井戸があります。後鳥羽上皇は天皇時代、将来を見据えてこの地に離宮を建てたと推察されます。
水無瀬離宮での刀剣制作は、諸国から集められた優秀な刀工が月替わりで担当しました。これが「御番鍛冶」(ごばんかじ)です。また、後鳥羽上皇自身も名刀工「藤林藤次郎久国」(ふじばやしとうじろうひさくに)を師として制作を担当しています。
後鳥羽上皇自身の手による刀剣が「御所焼」、「菊作り」、「菊御作」(きくごさく)などと呼ばれるのは、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、愛用の菊花文を刀身の茎(なかご:柄に収められている握りの部分)に彫り込んだためです。この紋の使用が代々天皇に受け継がれ、菊の御紋が皇室の紋として定着したと言われています。
後鳥羽上皇は1221年(承久3年)の「承久の乱」(じょうきゅうのらん)で、鎌倉幕府執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)に敗れ、隠岐の島へと流されます。
しかし、この孤島に流されても後鳥羽上皇の刀剣への愛は衰えることなく、なんと隠岐の島にも鍛冶場を作って制作にあたりました。そして隠岐の島に流されてから19年後、1239年(延応元年)2月に60歳で没しています。
九条家伝来の太刀 無銘 菊紋は、他の後鳥羽上皇作とは異なり、「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)の作風が強く打ち出されています。福岡一文字派は、鎌倉時代初期から備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市の旧長船地域にある地名)で活動をはじめた刀工集団のことです。「吉房」(よしふさ)、「則房」(のりふさ)、「助真」(すけざね)といった刀工が名を知られており、華麗な重花丁子乱(じゅうかちょうじみだれ)の刃文を特徴としています。太刀 無銘 菊紋は、明治時代になり九条家から「明治天皇」に献上され、皇室の御物(ぎょぶつ)となりました。
「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)が鍛えた伝説的な名刀「小狐丸」(こぎつねまる)も、九条家に伝来した名品でした。宗近は平安時代、現在の京都府で活動した刀工です。銘は「宗近」、「三条」。
小狐丸は宗近が「伏見稲荷大社」(現在の京都市伏見区)の助けを得て制作したと伝えられています。なお、九条家に伝来していたこの名刀は、同家内から消失しており、所在は杳として行方が分かっていません。
奈良県桜井市南部、寺川上流の明日香村との境にある山あいは、多武峰(とうのみね)と呼ばれています。
最高峰は標高607mの御破裂山(ごはれつざん)。同峰は、昔から霊山として信仰されていましたが、現在、この多武峰に鎮座する「談山神社」(たんざんじんじゃ:奈良県桜井市)は、藤原鎌足を主祭神とする神社です。
談山神社は、もともと「妙楽寺」(みょうらくじ)という寺院であり、藤原鎌足の廟所となっていました。明治維新後に出された神仏分離令で僧達がみな還俗したため、もともと祀られていた藤原鎌足を祭祀する談山神社として再出発したのです。
「多武峯縁起絵巻」(とうのみねえんぎえまき)は談山神社の歴史のよりどころです。これは藤原鎌足の生涯を讃える絵巻物であり、藤原鎌足の没後に十三重塔が建立され、藤原氏一族が繁栄を謳歌するという内容になっています。
この絵巻物の物語が、史実と決定的に異なるのは、藤原鎌足と中大兄皇子の蘇我氏打倒の談合場所を、多武峰山中に設定している点。絵巻には、平安時代の貴族衣装に身を固めた藤原鎌足と中大兄皇子が、山中で密談をしている様子を描いています。ちなみに、本殿の裏山には「談所の森」(だんしょのもり)という区画があり、山は昔から「談山」(かたらいやま)と呼ばれていました。
この談山神社には妙楽寺時代に寄進された刀剣が、多数秘蔵されています。
昔は、一族の繁栄や大願成就、さらに感謝の意味を込めて神社仏閣に刀剣を奉納するのが当たり前のように行なわれていました。刀剣は、神仏にお供えする祭器でもあったからこそ、公家であっても刀剣を必要としたのです。