「昭和天皇」は、国軍の総司令官にあたる「大元帥」(だいげんすい)としての天皇と、戦後の日本国憲法によって規定された「象徴」としての天皇という、2つの天皇像を担われました。25歳で即位し「第二次世界大戦」の激動期を生き抜き、62年余の在位期間を全う。また、昭和天皇は現代刀の歴史にも影響を与えます。昭和天皇と昭和時代を代表する軍刀「靖国刀」(やすくにとう)と「菊水刀」(きくすいとう)とのかかわりをご紹介しましょう。
1868年(明治元年)の明治維新後、大日本帝国は急速な西洋化を推し進めました。フランスを模範とし、帝国陸軍の建軍時に軍刀として「サーベル様式」を採用したのです。
しかし、1877年(明治10年)に勃発した「西南戦争」において、薩摩軍が仕掛けた白兵戦(はくへいせん:刀剣、槍などの白兵[武器]を手にして行なう戦い)に苦戦。
日本古来の刀剣の威力を目の当たりにし、日本刀の重要性を再認識。外装はサーベルのまま、刀身は日本刀を携えるのが一般的となります。
これを契機に軍が佩用する軍刀は、独自の進化を遂げるのです。
まずは、「村田銃」と呼ばれる小銃を開発した陸軍少将男爵「村田経芳」(むらたつねよし)が改良を施した「村田刀」(むらたとう)。これは、日本刀特有の反りを持つ太刀型でした。スウェーデン鋼と和鋼(わこう)を1,500度で溶解した上で鍛錬することにより、高い強度を実現。「日清戦争」、「日露戦争」などでその性能の高さを証明したのです。やがて、このような日本古来の太刀を模した外装の軍刀が、陸海軍の佩刀として定着していきます。
そのあとも軍刀は改良が重ねられ、大正時代から昭和時代には、より実用的でありながら量産が可能な「工業刀」が次々と作られました。それは「明治19年制式軍刀」、「昭和9年制式軍刀」(九四式軍刀)、「昭和13年制式軍刀」(九八式軍刀)、「昭和18年制式軍刀」(三式軍刀)です。
白兵戦の必要性が徐々に失われていくなかでも、軍刀の改良が続けられた事実は、日本人が刀剣に精神性を見出していたひとつの証左(しょうさ:証拠)とも言えるでしょう。さらに、昭和時代の前期には「靖国刀」(やすくにとう)と「菊水刀」(きくすいとう)が生まれることになるのです。
軍刀は階級により、佩刀する刀剣が異なっていました。例えば、階級の低い下士官兵は「官給刀」(三十二年式軍刀、九五式軍刀)と呼ばれる量産型の軍刀を帯び、ひとつ上の地位にあたる将校准士は「将校准士官刀」を佩刀。これは旧来の日本刀の刀身に軍刀用の外装を施した物と、軍刀向けに考案された特殊軍刀の2種類がありました。
陸海軍の大将などが佩刀していた元帥佩刀は、天皇からの下賜であり外装や刀身も絢爛豪華。外装金具には菊花があしらわれ、鞘には「菊花紋」の蒔絵が施されるなど、繊細な意匠が施されているのが特徴です。
ちなみに元帥とは階級ではなく、軍人最高の栄誉称号のこと。帝国陸海軍の歴史において30名ほどしか存在していません。
軍刀のなかでも最も貴重な刀剣は、天皇の佩刀である「大元帥佩刀」(大元帥刀、天皇佩刀)。この大元帥佩刀は2種類からなり、軍の式典の他、戦争中に軍服型の御服と共に着用されていました。なお、2種類必要だったのは、陸軍式と海軍式で佩刀を使い分けるため。柄(つか)や鍔(つば)などの拵(こしらえ)は、陸海軍の軍刀剣類に準じて制作されました。
「明治天皇」は、古刀・新刀含めて業物を300余振も収集した愛刀家として有名です。一方、「大正天皇」や「昭和天皇」は、刀剣とのゆかりが薄いと思われています。しかし、代々天皇から皇太子に授けられてきた「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)に代表されるように、そもそも天皇家と刀剣の結び付きは極めて強いものでした。昭和天皇もその例に漏れません。
例えば、1912年(大正元年)10月10日のできごととして「昭和天皇実録」には、次のような記載があります。
さらに、10月25日には「[裕仁皇太子は]陸軍通常礼装に大勲位副章を御佩用になり、陸軍大臣上原勇作・教育総監浅田信興に謁を賜う。ついで海軍服にお召替えの上、同じく同副章を御佩用になり、海軍大臣斎藤実に謁を賜う」と記載されています。
そののち、明治天皇の崩御によって大正天皇が即位。裕仁親王は「皇族身位令」により、陸海軍の少尉に任官されました。裕仁親王は、大正天皇に大勲位を授かり、陸海軍の公務を務めるようになったのです。
1921年(大正10年)に大正天皇の御病気により、裕仁親王はわずか20歳で摂政となりました。
そして5年後の1926年(大正15年)には、大正天皇のご逝去によって即位し、「裕仁天皇」(昭和天皇)となったのです。
大元帥となった裕仁天皇は、1934年(昭和9年)の3月10日、陸軍記念日には新御軍刀(大元帥佩刀)を佩用していたとされています。
この刀身は「日本刀鍛錬会」が謹作し、外装は新橋の壽屋「小松崎茂助」(こまつざきもすけ)が謹製、鎺(はばき)や目貫には菊花紋章の彫刻などが施されました。
職人の技が結集した1振ですが、この名刀の誕生は、少なからず昭和期の新たな刀剣の系譜に寄与したと言えます。手がけた日本刀鍛錬会こそ、現代刀の歴史を語る上で欠かせない靖国刀の総本山だったのです。
靖国刀とは、陸軍主体のもとに制作された刀剣のこと。
1933年(昭和8年)、陸海軍将校の軍刀を整備する目的で日本刀鍛錬会が設立しました。
当時の陸軍大臣「荒木貞夫」が顧問となり、陸軍次官の「柳川平助」が理事長を務め、陸軍主体の組織として国を挙げて取り組んだのです。
鍛錬所が設けられた場所は、東京都千代田区にある「靖国神社」(正式表記:靖國神社|やすくにじんじゃ)の境内。
実は靖国神社は、まだ前名の「東京招魂社」であった明治時代から日本刀とのゆかりが深く、 1876年(明治9年)に「廃刀令」が公布されたことで衰退していた日本刀の保護活動が行なわれていました。
例えば、1886年(明治19年)には、明治・大正期の名工として名高い「宮本包則」(みやもとかねのり)や「日置兼次」(ひきかねつぐ)が、この地で神宮式年遷宮御料太刀制作を行なっていたと明らかになっています。また、境内の「靖国神社遊就館」では刀剣を展示し、時折講演会や鑑定会なども開かれました。
靖国神社に鍛錬所を設けた日本刀鍛錬会ですが、制作される刀剣はいずれも極めて高い評価を得ました。材料は出雲(現在の島根県)の「靖国たたら」(日立金属安来製鋼所)で製造された玉鋼を使用。鍛えるのは、全国から集められた高名な刀匠ばかりです。他の刀剣とは一線を画す品質の高さから、ここで作られた日本刀は靖国刀と呼ばれるようになり、従事した刀工は「靖国刀匠」と称されるようになったのです。
主に、通常の軍刀や陸海軍大学校の成績優秀な卒業生に贈られた、御下賜刀などの制作を行ないました。太平洋戦争の終戦によって日本刀鍛錬会は解散となりましたが、10年余の活動期間に制作された刀剣は約8,100振。刀匠ひとりあたり(先手[さきて]2人も含む)の月間制作数は20振ほどだったとされています。ただし、前述のように設立に深く関与したのが帝国陸軍だったため、作られた軍刀を手にしたのは陸軍の面々が主流でした。
現在、日本刀鍛錬会があった靖国神社境内の一角には、「日本刀鍛錬會鍛錬所跡」として建物が残っています。戦後、刀剣の制作が一時禁止されたものの、1953年(昭和28年)に「公益財団法人 日本美術刀剣保存協会」が、作刀技術の保存を目的に「日刀保たたら」として再興。
1977年(昭和52年)には、「高松宮殿下」御臨席のもと火入れ式も行なわれ、正式に復活を遂げました。生産された玉鋼は、日本刀の材料としてだけでなく茶釜や東大寺仁王像修復などにも寄与しています。
「刀 銘 靖光」は、「池田靖光」刀匠が切った銘。水心子正秀一門で名工の「池田一秀」を祖父に持ちます。
池田靖光を代表する刀剣は、1940年(昭和15年)、昭和天皇が従弟の「朝香宮孚彦王」(あさかのみやたかひこおう)の陸軍大学校卒業の際に贈った恩賜の軍刀。
朝香宮孚彦中佐は、皇族で初めて飛行機の操縦桿を握った人物です。戦後は、皇籍を離脱し、東京大学で航空工学を学び、民間の航空会社に就職しました。
地鉄(じがね)は小板目肌(こいためはだ)、刃文は小沸出来(こにえでき)の直刃(すぐは)を焼いて、刀身は鋒/切先(きっさき)大きく、棒樋(ぼうひ)に添樋(そえび)を搔いて、南北朝期の古名作に範を取った、現代の名刀と言うべき1振。優美で金色に輝く「昭和13年式制定陸軍制式軍刀拵」(唐草文様総銀金具金梨子地鞘)が付属しています。
丹精を込めた地鉄の鍛えは美しく、反りの深さや刃文などに古作の雰囲気が見られます。なお、「刀 銘 武徳」も梶山靖徳の作。1934年(昭和9年)9月に、陸軍大将「奈良武次」より「武徳」の銘を授かりました。以降、靖国神社では靖徳、自宅での鍛刀は武徳、1943年(昭和18年)広島帰郷後は「大東亜正宗」と銘が切り分けられました。
とりわけ名高い作刀には、1934年(昭和9年)の「昭和天皇の陸軍用佩刀」や、1939年(昭和14年)の「後鳥羽院700年祭奉納刀」、1953年(昭和28年)の「伊勢神宮式年遷宮奉納刀」などがあります。
菊水刀とは、海軍主体のもとに制作された刀剣のことです。
「湊川神社」(みなとがわじんじゃ:現在の兵庫県神戸市)を本拠とする「菊水鍛刀会」で、主に海軍 士官用軍刀が作刀されました。
特徴は、茎(なかご)と鎺に南北朝時代の忠臣「楠木正成」(くすのきまさしげ)が「後醍醐天皇」から下賜されたと伝わる「菊水紋」が彫り込まれていたこと。これにちなみ、菊水刀と呼ばれるようになったのです。
菊水鍛刀会の発端は、1940年(昭和15年)。もともと靖国神社の日本刀鍛錬会で修行していた日立金属安来工場の「村上道政」(銘:正忠)と「森脇要」(銘は森光、のちに正孝)の両名が湊川神社の御用刀匠になったことで、作刀が本格的に行なわれるようになりました。
なお、湊川神社は楠木正成公を御祭神としている古社。最後まで忠義を尽くした楠木正成公を崇めている精神性に、昭和天皇への忠義を重んじる将兵達の心が見えてきます。菊水刀に彫られた菊水紋は、特攻機や特攻鑑艇にも描かれました。
なお、菊水刀は現存している物が極めて少なく、収集家の間でも貴重品として認知されています。そもそも作刀された数が少ないこともありますが、太平洋戦争における連合艦隊の壊滅などにより、多くの菊水刀が艦船と共に海へ沈んだことも一因。幻の名刀とも呼べる刀剣なのです。
このように、東の本鍛練陸軍刀・靖国刀と西の本鍛練海軍刀・菊水刀は、軍刀の双璧をなしていたのです。
主な作刀に「秩父宮殿下」、高松宮殿下、「東久邇宮殿下」(ひがしくにのみやでんか)の軍刀などがある他、御下賜の短刀なども多数鍛えました。
靖国刀と菊水刀の成り立ちを紐解いていくと、そこには武器としての軍刀以外の側面も垣間見えてきます。脈々と受け継がれてきた皇室における刀剣の神聖性や、第二次世界大戦へと至る過程で、靖国刀や菊水刀が誕生したとも言えるでしょう。
これらの刀剣は、昭和天皇への忠義のシンボルとして昇華され、美術品でも武器でもない希有な存在として、現在の刀剣文化に受け継がれています。昭和天皇の存在なくして、この流れはあり得ませんでした。