近代に入ってから即位された天皇のなかでは、もっとも在位期間が短かった「大正天皇」。そのため日本史上においては、研究対象になるための史料があまりなかったこともあり俗説ばかりが独り歩きし、その真実のお姿は長い間謎に包まれていた部分が多くありました。
しかし近年、この大正天皇が持たれていた意外な一面が次第に明らかになりつつあります。そのなかのひとつが、大正天皇は日本刀を愛してやまない人物であったということ。ここでは、大正天皇と日本刀の関係について紐解きながら、両者にまつわる逸話についてご紹介します。
1879年(明治12年)8月にお生まれになった「大正天皇」は、1912年(明治45年/大正元年)7月、事実上の即位となる践祚(せんそ:先帝が崩御された場合、またはその譲位により、天皇の世継ぎがその皇位を継承すること)を行なわれますが、生来病弱なこともあり1922年(大正11年)には「裕仁親王」(ひろひとしんのう)のちの「昭和天皇」を摂政に立て、事実上引退。
大正天皇は表舞台には戻らぬまま、1926年(大正15年/昭和元年)に崩御されました。
生まれつき病弱であった大正天皇は、軍務などに関してはおよそ不向きでしたが、和歌や漢詩などにその優れた才能を発揮されています。これは、大正天皇の母方の祖が、平安時代の「藤原北家」(ふじわらほっけ)から続いた名門の公家であったことが関係しているのかもしれません。
そんな大正天皇が詠まれた和歌や漢詩のなかには、刀剣を題材とした御製(ぎょうせい:天皇や皇族が、自ら作られた和歌や詩歌)がいくつかあります。
「磨きあげし つるぎを 床にかざらせて 明暮れに身の 守りとぞする」
こちらの和歌は、綺麗に磨き上げた刀剣を自身の守り刀とする旨を詠んだ作品。一見すると外敵や侵入者に対する備えが大切であることを詠んだようにも思えますが、「磨きあげし」と刀剣を手入れされたことを強調している表現から、不浄や穢れ(けがれ)に対する備え、つまり魔除けのための刀剣であったと解釈することが可能。
刀剣のなかには、神道でのお祓い神事(おはらいしんじ)に使われる作品もあります。それは、この和歌の題材となっているように、磨き上げた刀剣の穢れなき美しさが、神道において重視されている「清浄」と通じる点があるからに他なりません。
また、仏教での葬送儀礼の際、亡骸(なきがら)の上に短刀を置く慣わしがあります。これは、魂の抜けた亡骸に魔物が入り込むことを刀剣の霊力で防いでいるのです。
この他に大正天皇が詠まれた漢詩のなかにも、刀剣を題材にした作品があります。
寶刀(ほうとう)
<原文>
「自古神州産寶刀 男兒意氣佩來豪 能教一掃妖氛盡 四海同看天日高」
<読み下し文>
「古[いにしえ]より神州宝刀を産す 男児意気佩[お]び来たって豪なり 能[よ]く妖気を一掃し尽くさしめ 四海同[しかいとも]に看[み]ん天日の高きを」
<口語訳>
「古くから我が国日本では、宝刀を産している。男児たるものこれを1振佩びれば、たちまち意気軒昂[いきけんこう:意気込みが盛んで、元気いっぱいの様子]となる。妖しい気配を一刀のもとに拭い去ってくれるので、天下の人々は太陽が一点の曇りもなく、天空高くに光り輝く様子を目の当たりにするだろう」
大正天皇がこの漢詩を詠まれたのは、1915年(大正4年)のこと。その前年の8月、ヨーロッパでは「第一次世界大戦」が勃発。
当初は「セルビア王国」と「オーストリア=ハンガリー帝国」の戦いでしたが、「ヨーロッパの火薬庫」と形容されていたバルカン半島で戦端(せんたん:戦いの糸口)が開かれたため、両国の同盟国を巻き込んで、戦火はたちまちヨーロッパとアナトリア半島に拡大します。
この状況には、日本も静観するだけではすみませんでした。日本は、イギリスと「日英同盟」を結んでおり、イギリスと敵対していたドイツに宣戦布告せざるを得なかったのです。
このような未曾有の大戦に、否応なく巻き込まれた日本。漢詩・寶刀は、日本人全員が大きな不安を感じていた時局のもとで、詠まれた作品だったのです。
前述した通り、古来日本における刀剣が神事のお祓いや、魔除けの守り刀として使われてきたのは、清浄なる刀身に特別な霊力が宿ると考えられたことによります。漢詩・寶刀のなかの1句「能く妖気を一掃し尽くさしめ」とは、このことを踏まえた表現です。
大正天皇が第一次世界大戦勃発の翌年、あえて寶刀と題した漢詩を詠んだのは、日本国民ひいては世界中の人々が等しく抱いていた不安に、思いを馳せたためであったと言えます。この漢詩からは、健康上の不安を抱えつつも、ひたすら日本国民や世界の人々のことを案ずる天皇としての在り方を、垣間見ることができるのです。
刀剣愛好家としての側面を持つ大正天皇は、皇太子時代から様々な名刀との縁がありました。
例えば、1879年(明治12年)青山御所内でお生まれになった大正天皇は、その誕生直後に父帝である「明治天皇」から守り刀を授けられています。
生まれた皇子に守り刀が贈られた最初の例は、平安時代の999年(長徳5年/長保元年)「中宮藤原定子」(ちゅうぐうふじわらのていし)が、66代天皇「一条天皇」(いちじょうてんのう)の皇子として「敦康親王」(あつやすしんのう)を生んだときです。
この守り刀の授受は慣例化され、朝廷内で儀式として継承されるようになりました。当初は皇子のみに刀剣が授けられていましたが、次第に皇女もその対象となっていきます。この風習は、鎌倉時代になると武家の間にも広がり、時代を経るごとに民間にも広まっていったのです。
現在の皇室では、守り刀の授受を「賜剣の儀」(しけんのぎ)として制度化しています。2001年(平成13年)「敬宮愛子内親王」(としのみやあいこないしんのう)ご生誕の折、125代天皇「明仁天皇」(あきひとてんのう:現在の上皇陛下)が同儀式において、人間国宝である現代刀工の「大隅俊平」(おおすみとしひら)が鍛えた守り刀である短刀を贈られていたことを、覚えている方もいるのではないでしょうか。
大正天皇は1889年(明治22年)、皇太子自らがその皇位に就かれたことを宣明する「立太子の礼」(りったいしのれい)を挙行され、皇太子の証しとなる「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)を明治天皇から授けられます。
壺切御剣は、皇太子の護身用とするために天皇より下賜される刀剣です。平安時代初期の893年(寛平5年)、59代天皇「宇多天皇」(うだてんのう)が、皇太子である「敦仁親王」(あつひと/あつぎみしんのう)のちの「醍醐天皇」(だいごてんのう)に壺切御剣を授けられたことが最初の例であり、それ以降慣例化されました。
また、天皇の皇子が薨去(こうきょ:皇族や三位[さんみ]以上の貴人が亡くなられること)されて皇太子候補がおらず、宮家から皇太子を迎えるときには、「親王宣下」(しんのうせんげ)の際に同剣が継承されています。
壺切御剣は元来、藤原北家に連なる「藤原長良」(ふじわらのながら/ながよし)の所有物。その銘に「壺切」とあったことから、壺切御剣の名称で呼ばれるようになりました。そして、敦仁親王の立太子の礼に際し、藤原長良の三男「藤原基経」(ふじわらのもとつね)が宇多天皇に献上したことで、壺切御剣は皇太子の証しである刀剣となったのです。
ところが壺切御剣は、1059年(康平2年)1月8日皇居で起こった火災によって焼失します。これを受けて、壺切御剣は「藤原教通」(ふじわらのりみち)が献上した1振に替えられました。同年の12月11日、皇居で再び火災が発生しますが、幸いにも壺切御剣は焼失を免れています。
しかし、1221年(承久3年)「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)と鎌倉幕府の対立が高じて勃発した「承久の乱」(じょうきゅうのらん)による混乱のなかで行方不明になってしまうのです。同剣がないと立太子の礼を行なうことは不可能であるため、朝廷は代わりとなる1振を3代目としました。
1258年(正嘉2年)、89代天皇「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)が弟「恒仁親王」(つねひとしんのう)のちの「亀山天皇」(かめやまてんのう)を皇太子の地位に就けようとした際、「鳥羽離宮」(とばりきゅう)の「勝光明院」(しょうこうみょういん)の宝蔵から、2代目の壺切御剣が発見されます。これにより3代目は廃され、2代目の壺切御剣が再び用いられるようになりました。
江戸時代の110代天皇「後光明天皇」(ごこうみょうてんのう)の御代にも、壺切御剣は火災に遭いますが、「拵」(こしらえ)を焼失したのみで、刀身はほぼ無傷の状態。そのため拵のみを新たに作り、今日にまで伝えているのです。
しかし、壺切御剣は拵と共に非公開となっているため詳しい形状などは一切分かっていません。
1912年(明治45年/大正元年)に明治天皇が崩御されると、のちの大正天皇である「嘉仁親王」(よしひとしんのう)がその皇位を継承します。この際、「剣璽渡御の儀」(けんじとぎょのぎ)が、宮中の正殿において行なわれました。
その剣とは、古代の日本において「須佐之男命」(すさのおのみこと)が「八岐大蛇」(やまたのおろち)の尻尾から発見して以来、天上の高天原(たかまがはら)を経て皇室に伝えられた「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)、別名「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)です。
皇位継承の証しを授ける剣璽渡御の儀では、この草薙剣の他に国家の象徴として、外交文書などに押される印章「国璽」(こくじ)と、天皇が公式に用いられる印章「御璽」(ぎょじ)が新天皇陛下に引き継がれます。大正天皇もまた、この儀式を経たことで正式に皇位を継承することになったのです。
ここまでご紹介してきた守り刀や壺切御剣、草薙剣の他にも大正天皇と刀剣にまつわる逸話がいくつかあります。
例えば、1885年(明治18年)には元薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩士で、「宮内大輔」(くないたいふ)の要職にあった「吉井友実」(よしいともざね)より、「吉光」(よしみつ)の刀剣1振を贈られました。
吉光は、鎌倉時代中期に登場した「粟田口派」(あわたぐちは)に属する刀工。「相州正宗」(そうしゅうまさむね)や「郷義弘」(ごうのよしひろ)と共に「天下三作」(てんがさんさく)と呼ばれ、上品で流れるような直刃(すぐは)の刃文に特徴があります。
また、1897年(明治30年)には「英照皇太后」(えいしょうこうたいごう:[孝明天皇]の女御・明治天皇の嫡母)の御遺物授受に際して、同皇太后が孝明天皇から授けられた「助宗」(すけむね)作の短刀を拝受しています。
助宗は室町時代末期、駿河国(現在の静岡県)で活躍した古刀期の刀工です。同時期に作刀活動を行なっていた「島田/嶋田派」(しまだは)の刀工「義助」(ぎすけ/よしすけ)の実弟で、義助とその息子「廣助」(ひろすけ)と共に、島田刀工の三傑と称賛されていました。助宗は、様々な種類がある刀剣のなかでも短刀鍛造の名手と評され、「武田信玄」が所持したことで知られる「馬手指助宗」(めてざしすけむね)がその代表作です。
1896年(明治29年)に大正天皇は、初代内閣総理大臣の「伊藤博文」(いとうひろぶみ)から、備前「景光」(かげみつ)作の短刀を献上されました。「大正天皇実録」には「博文御所望ありし短刀 備前景光作 壱振を献る[ささげる]」との記述があり、大正天皇ご自身が伊藤博文に「備前景光の短刀が欲しい」旨を告げられ、それに応じて献上に至ったことが窺えます。
刀工・景光は、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけて、備前国(現在の岡山県)で活動していました。景光は、その鍛えの良さに定評があり、鍛えの点では父の「長光」(ながみつ)以上の出来栄えであったとする見方もあります。「肩落互の目」(かたおちぐのめ)と呼ばれる焼刃の創始者としても有名な刀工です。
さらに大正天皇は、1900年(明治33年)に「久邇宮邦彦王」(くにのみやくによしおう)より、「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)作の短刀1振を献上されました。新藤五国光は、鎌倉時代後期の相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で作刀活動を行なっていた名工です。古文書「海老名文書」(えびなぶんしょ)に「新藤五の免田」(しんとうごのめんでん)との記述が見られます。
ここでの「免田」とは「税を免除されている田」を意味しており、この文言からは新藤五国光が、鎌倉幕府に重んじられていた刀工であったことが分かるのです。新藤五国光には、太刀は滅多になく短刀が多く見られ、その作風は凛とした気品が漂う姿を持ち、直刃を基調としています。
軍務には不向きな大正天皇でしたが「大日本帝国憲法」により、皇族男子は軍人になることが定められていたため、皇太子時代から軍務に就いています。
大正天皇は、大日本帝国軍(旧日本軍)の最高指揮官にあたる「大元帥」(だいげんすい)の明治天皇より10歳で「少尉」(しょうい)に任官され、16歳のときに「歩兵大尉」、1898年(明治31年)19歳の頃には陸軍の「歩兵少佐」の階級を与えられました。
大正天皇は、中尉または大尉に任官された際に、陸軍少将であった「村田経芳」(むらたつねよし)により軍刀(サーベル)を制作して貰っています。
村田経芳は、旧日本軍の主力小銃「村田銃」の開発者であると共に「村田刀」と称される刀剣を開発したことでも知られている人物です。
大正天皇のために村田経芳が精魂込めて鍛えた刀剣には、その「茎」(なかご)に「陸軍少将従四位勲二等の村田経芳が、皇太子の命によりこの剣を鍛えた」旨が記されており、佐官(さかん:軍人の階級である大佐、中佐、少佐の総称)用の「柄」(つか)が用いられています。
そのためこの1振は、大正天皇の少佐任官と同時に佩用(はいよう:身に付けて用いること)できるように、前もって制作を依頼していたと推定できます。
大正天皇と刀剣の関係を追ってみると、意外にも刀剣と多くの関係を有していたことが見えてきました。このように、無類の刀剣愛好家であるお姿も、大正天皇の一面なのです。