重要刀剣「太刀 無銘 来国長」は、南北朝時代の刀工「中島来」(なかじまらい)が鍛えた作だと言われています。この1振を所用していたと伝えられているのが、戦国大名「伊東義祐」(いとうよしすけ)。伊東義祐は、島津氏と南九州の覇権争いを繰り広げたことで有名です。
ここでは、伊東義祐を中心とした日州(にっしゅう:日向国の別名)伊東氏の栄枯盛衰と、日州伊東家伝来の刀剣にまつわる話をご紹介します。
「伊東義祐」(いとうよしすけ)は、16世紀に活躍した日向国(ひゅうがのくに:現在の宮崎県)の戦国大名。
伊東義祐の祖先は元々、平安時代に伊豆・伊東で隆興した工藤氏の親戚で、伊東の地を領地とした名門です。
南北朝時代に入ると、伊東氏は一族を引き連れ、本格的に日向国に下りました。そののち、伊東氏は日向国で勢力を拡大していったのです。伊東義祐は、伊東氏の11代当主にあたります。
伊東義祐は、若い頃から一族内の混乱のなかに身を置いていました。1533年(天文2年)、伊東義祐の兄で伊東氏先代当主の「伊東祐充」(いとうすけみつ)が若くして病死した際、一族内の覇権をめぐり、お家騒動(伊東武州の乱)が勃発。この騒動では、伊東義祐の叔父「伊東祐武」(いとうすけたけ)がクーデターを起こして実権を掌握しました。
伊東義祐は、お家騒動から身を守るため、弟の「伊東祐吉」(いとうすけよし)と共に日向国を去ろうとします。しかし、一族内の反伊東祐武派勢力に頼まれ、クーデターを起こした叔父の伊東祐武と戦うことを決意。戦いの結果、お家騒動は収束し、一族内で伊東義祐らが実権を握るようになりました。そのあと家督を弟の伊東祐吉が継ぐと、伊東義祐は出家し伊東家を去ります。
ところが、家督を継いだ伊東祐吉もクーデターから3年後の1536年(天文5年)に病死してしまいました。2人の兄弟を失ってしまった伊東義祐は、還俗(げんぞく:僧侶となった者が僧籍を離れて俗人に還ること)し、伊東氏11代当主として日向国の要所「佐土原城」(さどわらじょう:現在の宮崎県宮崎市)に居を構えることとなったのです。
伊東義祐が当主となり、「日向国飫肥」(ひゅうがのくにおび:現在の宮崎県南部)を治めていた島津氏を攻めたことで、島津氏との国盗り合戦が始まります。
伊東義祐は20,000の軍勢を率い、「島津忠親」が防衛する「飫肥城」(おびじょう:現在の宮崎県日南市飫肥)を約半年もの間包囲し続けました。その結果、島津の英主とも呼ばれた「島津貴久」は伊東義祐と和睦。1562年(永禄5年)、伊東氏は飫肥を一度手中にしたのです。
飫肥を手に入れた伊東氏は島津氏を押しのけ、佐土原城を中心に日向国内に「伊東四十八城」と称される支城を築きました。この頃、日州伊東氏は最盛期を迎え、伊東義祐は日向国の覇者となったのです。このとき、伊東義祐は京文化を積極的に日向国に取り入れ、佐土原城周辺の文化は急速に発展していき、佐土原は「九州の小京都」と呼ばれるようになりました。
日向国の覇者として君臨していた伊東氏に、暗雲が垂れ込めたのが1572年(元亀3年)の「木崎原の戦い」(きざきばるのたたかい)です。伊東義祐は日向国「加久藤城」(かくとうじょう:現在の宮崎県えびの市)に3,000の軍勢を率いて攻め入りますが、「島津義弘」率いる300の軍勢に敗れてしまいました。この戦で有力家臣を次々と失ったことで、伊東氏は衰退の途をたどることになったのです。
木崎原の戦いの勝利をきっかけとして、島津氏の逆襲が始まります。
1576年(天正4年)には、伊東四十八城の「高原城」(たかはるじょう:現在の宮崎県西諸県郡)・「須木城」(すきじょう:現在の宮崎県小林市須木)・「三ツ山城」(みつやまじょう:現在の宮崎県小林市細野)・「野首城」(のくびじょう:現在の宮崎県小林市東方)が次々と落城。島津氏は、勢力を伸ばしていきました。
伊東義祐の下には、苦しい戦いを強いられていた伊東氏の家臣から救援要請が送られてはいましたが、これらはすべて伊東義祐の側近によって、握り潰されてしまっていたと言われています。
そののち、伊東氏は島津氏に反撃を仕掛けたものの、ことごとく返り討ちに遭い、衰退していきました。そして1577年(天正5年)、島津氏との「最終決戦」に敗れ、伊東義祐は日向国を失い、「大友宗麟」(おおともそうりん)を頼って豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)へと逃亡(伊東崩れ)。こうして日州伊東氏は、没落してしまったのです。
没落後、伊東義祐は三男「伊東祐兵」(いとうすけたけ)らと共に、伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)や播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南部)を放浪。1585年(天正13年)に73歳で亡くなりました。
失意のうちに日向国を去った伊東祐兵の運命を変えたのは、「豊臣秀吉」でした。同族である尾張・伊東氏の仲介によって「織田信長」に仕官することとなった伊東祐兵は、豊臣秀吉の「与力」(よりき:侍大将などの付属する武士)になります。
1582年(天正10年)、「本能寺の変」で織田信長がこの世を去ると、豊臣秀吉と「明智光秀」が激突した「山崎の戦い」での武功により、河内500石となりました。そして、1587年(天正15年)に島津氏との戦い「九州平定」でも武功を挙げると、旧領だった清武・曾井に復帰。翌1588年(天正16年)には、島津氏から飫肥を奪還したのです。
そののち、「朝鮮出兵」にも参加した伊東祐兵は「関ヶ原の戦い」を経て初代・飫肥藩主となります。約10年の時間を経て伊東氏の下に戻った飫肥の地では、以後約280年間、伊東氏による統治が行なわれました。
前述のように、伊東義祐が「刀 無銘 来国長」と共に、1度は南九州の覇者に上り詰めた話はよく知られているところです。
もっとも、伊東氏と刀剣のあいだの縁はこれだけではありません。新刀期における名工として名高い「堀川国広」(ほりかわくにひろ)は、元々、伊東氏に仕える「田中金太郎」(たなかきんたろう)と名乗った武士でした。伊東氏の没落を機に諸国放浪の身となった堀川国広は、刀鍛冶へと転身。放浪生活のなかで腕を磨き、京都・堀川沿いに自らが率いる刀工集団「堀川派」の拠点を築いたのです。
なお、1582年(天正10年)に「天正遣欧使節」(てんしょうけんおうしせつ)の一員としてローマに派遣されたうちのひとり「伊東マンショ」は伊東義祐の孫。島津氏の攻撃によって、伊東氏の支城のひとつ「綾城」(あやじょう:現在の宮崎県綾町)が落城した際、8歳だった伊東マンショは堀川国広に背負われて豊後国へと落ち延び、キリスト教に出会ったと言われています。
「中島来」(なかじまらい)こと「来国長」(らいくになが)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活動していた刀工で、「山城伝」の「来派」(らいは)を代表する名工「来国俊」(らいくにとし)の門弟です。
来国長は、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)による「建武の新政」から「足利尊氏」による「室町幕府」の樹立という擾乱(じょうらん:世の中が乱れ、騒がしくなること)を避け、京を離れて「摂津国中島」(せっつのくになかじま:現在の大阪府東淀川)に移り住んで作刀を行ないました。中島来の異名は、このできごとに由来しています。
来国長は、来派が得意としていた「直刃」(すぐは)調の刃文を焼き、総体的に「来国光」に通じるものがあります。その代表作が「太刀 銘 来国長」(恵林寺蔵)。国の重要文化財に指定されているこの太刀は、「武田信玄」が佩用していたと伝わる1振です。
戦国時代においては、「刀剣は武士の魂」という考え方の下、戦国武将達は、名刀収集に熱を上げていました。戦国屈指の武将・武田信玄が、来国長作の太刀を所用していた事実から、その名工ぶりをうかがい知ることができると言えます。
戦国時代の日向国太守・伊東義祐佩用と伝わる本太刀は、2尺8寸4分強の長寸に、腰反り高く元先の幅が変わらない姿で、南北朝時代の豪壮な太刀姿を生ぶのまま現代に留める非常に貴重な1振です。
地鉄(じがね)は板目肌(いためはだ)にところどころ流れ肌交じり地沸(じにえ)が付き、刃文は直刃調に小乱れや小互の目交じり金筋・砂流し(すながし)がかかります。地刃共に冴えて、来国長極めのなかでも名工・来国光に迫る出色の作です。
附属する「黒皺革包皮巻 太刀拵」は、同家より伝わる物で、室町時代後期の制作と推察され、戦国の風情を漂わせる軍陣の太刀拵です。