戦国武将を代表する「三英傑」のひとりであり、天下人でもある「豊臣秀吉」は、無類の刀剣コレクターでもありました。豊臣秀吉のコレクションには、刀剣ファンならずとも1度はその名を耳にしたことがある名刀から、不思議な逸話を持つ妖刀まで含まれ、刀剣女子の熱い視線を集めています。
そんな豊臣家に伝えられた名刀のなかから、刀剣女子に人気の高い作品をピックアップし、心惹かれる秘密に迫りました。
「刀剣ワールド財団」が所蔵する豊臣家ゆかりの刀剣と併せてご紹介します。
「にっかり青江」(にっかりあおえ)は、備中(現在の岡山県西部)「青江派」の作とされる脇差です。奇妙なその号の由来は、ある武士が夜道を歩いていたところ、赤子を抱いて「にっかり」笑う女の幽霊に出会い、あまりの不気味さから斬り捨てたという伝説にあります。
翌朝、その武士が幽霊のいた場所を確認すると、石灯籠(いしどうろう)が真っ二つになっていました。
幽霊を斬り捨てた武士については諸説ありますが、一説では近江国(現在の滋賀県)在住の人物と言われ、にっかり青江は、近江国を治める大名「柴田勝家」(しばたかついえ)の所有となります。さらに、柴田勝家から子の「柴田勝敏」(しばたかつとし)へ譲られました。
ところが柴田勝家は、「織田信長」の後継を争った「賤ヶ岳の戦い」で敗れ、自害してしまいます。
柴田勝敏は逃走するも、捕らわれて処刑。にっかり青江は、柴田勝敏を捕らえた「丹羽長秀」(にわながひで)の手に渡り、豊臣秀吉へと献上されました。
そのあと、豊臣秀吉の子「豊臣秀頼」が受け継ぎ、豊臣家に忠義を尽くした「京極高次」(きょうごくたかつぐ)に与えられたと伝えられています(※京極高次の子「京極忠高」[きょうごくただたか]が拝領したとの説もあり)。京極家ではにっかり青江を代々秘蔵。第2次世界大戦後、外部へ譲渡され、1997年(平成9年)に丸亀市が購入しました。現在は「丸亀市立資料館」(香川県丸亀市)が所蔵しています。
にっかり青江を鍛えた青江派は、平安時代末期から南北朝時代にかけて備中国で繁栄した刀工一派です。
刀身の地鉄(じがね)は板目肌が詰み、青江派の特徴である「澄肌」(すみはだ:刀身に現れる黒く澄んだ斑点。なまず肌)が見えます。
制作された当初のにっかり青江は、2尺5寸(約75.7cm)の太刀でしたが、3度にわたる磨上げによって1尺9寸9分(約60.3cm)まで短く仕立て直されました。指表に「羽柴五郎左衛門尉長(以下切)」の金象嵌銘(きんぞうがんめい)が入っています。
「三日月宗近」(みかづきむねちか)は、平安時代の名工「三条宗近」(さんじょうむねちか)が手掛けた太刀で、鎬(しのぎ)と反りのある刀剣としては最も古い作品のひとつです。
三日月宗近という号は、刀身に現れている短い刃文の「打ちのけ」が、雲間に浮かぶ三日月のように見えることから名付けられました。
その清廉な美しさゆえに「天下五剣」(てんがごけん:室町時代に定められた5振の名刀)の中でも最上級と称えられ、「名物中の名物」と呼ばれています。
三日月宗近は、豊臣秀吉の正室「高台院」(こうだいいん)が所有し、のちに徳川2代将軍「徳川秀忠」に遺品として贈られ、以降徳川将軍家の所蔵となりました。
それ以前の伝来については諸説あり、明確なことは分かっていません。
最も有名な説としては、1565年(永禄8年)の「永禄の変」に際し、「松永久通」(まつながひさみち:または父の「松永久秀」[まつながひでひさ])と三好三人衆らに襲撃された室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)が、三日月宗近を振るって応戦したとの言い伝えがあります。
奮戦むなしく足利義輝は暗殺され、三日月宗近は三好家から豊臣秀吉に献上されたとされますが、史料による裏付けはありません。
また、江戸時代に編纂された「享保名物帳」には、尼子家の忠臣として知られる「山中幸盛」(やまなかゆきもり)が佩用したという記述があります。山中幸盛は三日月を信仰し、兜の前立てに三日月をあしらい、尼子家の再興を三日月に祈ったと言われていますが、三日月宗近を所有したことについては、伝承の域を出ない話です。
三日月宗近は、第2次世界大戦後に徳川家を離れ、個人の所蔵家に渡ったのち、1992年(平成4年)に「東京国立博物館」(東京都台東区)へ寄贈されました。今も変わらぬ凛とした姿は、刀剣女子の心を魅了し続けています。
平安時代、京の都では大江山に棲む悪鬼「酒呑童子」(しゅてんどうじ)が、美しい娘を狙ってさらうという悪行を繰り返していました。
これを重く見た「一条天皇」(いちじょうてんのう)は、武士団の長である「源頼光」(みなもとのよりみつ)に鬼退治を命じます。
源頼光は、重臣の「坂田金時」(さかたのきんとき)ら「頼光四天王」と共に大江山へ潜入。山伏(仏教の修行者)に変装して酒呑童子に近付き、鬼にとっては猛毒となる「神便鬼毒酒」(じんべんきどくしゅ)を飲ませて酩酊させることに成功します。
愛刀の太刀を抜き放った源頼光は、酒呑童子の首を一刀両断。取った鬼の首を都へ持ち帰ったのでした。
この鬼の首を斬り落とした太刀が「童子切安綱」(どうじきりやすつな)です。三日月宗近と並び称される天下五剣の1振であり、しばしば天下五剣最古の名刀として筆頭に挙げられます。
制作者の「安綱」は、平安時代中期に伯耆国(現在の鳥取県中西部)を拠点とした名工で、個人の名前が確認されている刀工としては最も古い時代に活躍しました。
童子切安綱は足利将軍家の所有となり、15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)から豊臣秀吉に贈られます。ところが、豊臣秀吉はこの名だたる名刀を手元に置かず、刀剣の研磨・鑑定を生業とする本阿弥家(ほんあみけ)に預けました。
これは、鬼を斬った刀剣を不吉と考えたからとも言われていますが、そのおかげで「大坂夏の陣」が起こったとき、童子切安綱は大坂城と一緒に焼け落ちてしまうのを免れたのです。
その後、童子切安綱は「徳川家康」の手に渡り、2代将軍・徳川秀忠へと受け継がれました。1611年(慶長16年)、徳川秀忠の息女「勝姫」が越前北ノ庄藩(現在の福井県北東部)の「松平忠直」(まつだいらただなお)に輿入れする際、越前松平家へ渡ります。
しかし後年、松平忠直は乱行を理由に九州へ流罪となり、息子の「松平光長」(まつだいらみつなが)もお家騒動が原因で四国へ流罪。松平光長の養子である「松平宣富」(まつだいらのぶとみ)がお家再興を許されて、美作国津山藩(現在の岡山県北東部)10万石を封じられると、童子切安綱も津山藩へ移り、安住の地となりました。
現在、童子切安綱は東京国立博物館が保管。本阿弥家が「享保名物帳」にて「極々上の出来、常の安綱に似たる物にあらず」と称えた出色の出来を、制作から1,000年を経た現代まで伝えています。
民謡「黒田節」にて「日本一(ひのもといち)のこの槍」と唄われた名槍「日本号」(ひのもとごう/にほんごう)。銘はありませんが、大和国(現在の奈良県)「金房派」(かなぼう/かなんぼうは)の作品と推定されています。
もとは御物(皇室の所有物)で、「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)より室町幕府15代将軍・足利義昭に下賜され、その後、織田信長から豊臣秀吉に渡りました。豊臣秀吉は、賤ヶ岳の戦いで功績を挙げた「福島正則」(ふくしままさのり)に褒賞として日本号を与えます。
あるとき、その福島正則の屋敷へ、「黒田孝高」(くろだよしたか:通称は「黒田官兵衛」[くろだかんべえ])に仕える「母里友信」(もりとものぶ)が主君の使者として訪ねてきました。
福島正則は酒を勧めますが、母里友信は使者であることを理由にこれを固辞。次第にいら立ちを募らせた福島正則は、「黒田家に豪傑はおらぬのか」と言い放ち、大杯に酒を注ぐと「貴殿がこれを飲み干せば、望みの物を何でも取らせよう」と挑発します。
実はこの母里友信、黒田家では「フカ」(鮫のこと)と呼ばれるほどの大酒豪。大杯の酒を一気に飲み干し、「それでは日本号をいただきましょう」と所望したのです。福島正則は悔しがりましたが、「武士に二言はない」として、日本号を褒美に与えました。
この逸話によって、日本号は「呑み取りの槍」の異名を持つこととなり、黒田節に唄われて広く知られるようになります。
日本号は、全長10尺6寸(約321.5cm)、穂(刃長)は2尺6寸1分5厘(約79.2cm)の大身槍。樋(ひ:刃中央の溝)には、「倶利伽羅龍」(くりからりゅう)の浮彫が施され、美しさと力強さをかね備えた名槍中の名槍です。
「蜻蛉切」(とんぼきり)、「御手杵」(おてぎね)と並び「天下三名槍」(てんかさんめいそう)に数えられています。
代々母里家に伝わった日本号は、明治時代以降いく人かの手に渡ったのち、福岡市に寄贈されました。現在は「福岡市博物館」(福岡県福岡市)に所蔵されています。
「大坂長義」(おおさかちょうぎ)と呼ばれる本短刀は、「名物」と評される名品であり、「備前長船派」(びぜんおさふねは:現在の岡山県瀬戸内町に栄えた一派)の名工「長義」(ちょうぎ/ながよし)を代表する1振です。
大坂長義という名前の由来には諸説ありますが、もともと豊臣秀吉の愛刀であった本短刀を、豊臣秀吉が最も信頼する家臣のひとり「前田利家」(まえだとしいえ)に「大坂城」(現在の大阪城)内にて与えたからとする説がよく知られています。
前田利家は、加賀藩(現在の石川県、富山県)藩主前田家の祖であり、豊臣政権の政務を統括する「五大老」のひとりです。
同じく五大老のひとりであった徳川家康よりも人望があったと言われ、豊臣秀吉亡きあと、「加藤清正」や福島正則ら「武断派」と、「石田三成」や「小西行長」(こにしゆきなが)ら「文治派」が反目し合うなか、仲裁役として力を尽くしました。
名前の由来に関する別の説では、前田利家の4男にあたる加賀藩2代藩主「前田利常」(まえだとしつね)が、大坂で買い求めたため付けられたとされています。
大坂長義は前田家が所有して以降、家宝として長く受け継がれました。
本短刀大坂長義の制作者である長義の作風は、「備前伝」に「相州伝」(そうしゅうでん:現在の神奈川県で栄えた伝法。[正宗]が確立)を加えた「相州備前」。
華やかで覇気に満ちた姿に、地刃の沸(にえ)の強さが特徴で、本短刀においても板目肌立ちごころの鍛えに地沸が厚く付いた、長義らしい特色がよく表れています。