「伊達家」は、鎌倉時代から現代まで続く名門の一族です。なかでも有名なのは、17代当主「伊達政宗」。伊達政宗は、「奥州の覇者」や「独眼竜」などの肩書きで名を馳せた戦国武将で「燭台切光忠」(しょくだいきりみつただ)と呼ばれる刀剣を所有していたことで知られています。
また、伊達家ではこの他にも「大倶利伽羅」(おおくりから)や「太鼓鐘貞宗」(たいこがねさだむね)、「鶴丸国永」(つるまるくになが)など、刀剣女子から人気が高い刀剣を多く所有していました。ここでは、伊達家伝来の名刀をご紹介します。
「伊達家」は、「藤原氏」の流れを汲む武家のひとつ。東北地方だけではなく、関西地方や四国地方にも庶家(しょけ:分家のこと)を持つ日本の氏族です。
本家の17代当主「伊達政宗」は、ドラマや映画、小説など、フィクション作品の影響で戦国武将の中でも抜群の知名度の高さと人気を誇っています。そして、古くから続く伊達家では、膨大な数の蔵刀を管理しやすくするために、特徴的な整理方法が採られました。
それは、白鞘(しろさや:刀剣を保管する際に用いる外装)の「鞘書」(さやがき:刀剣の情報などを書くこと)に「春夏秋冬」の文字を用いること。
白鞘の柄(つか)に「季節」と「番号」を記載し、また白鞘を収納する刀袋(かたなぶくろ)にも同じ季節・番号を記載した厚紙を括り付けることで、管理しやすくしたのです。
なお、この整理方法は明治時代になってから刀剣鑑定家である「本阿弥光遜」(ほんあみこうそん)によって考案されたと言われており、特に価値が高かったのは「春」に振り分けられた刀剣と言われています。
「燭台切光忠」は、鎌倉時代中期に備前国(現在の岡山県東部)で活躍した刀工「光忠」が制作したと言われる刀剣です。正式名称は「打刀 無銘 伝光忠」(号 燭台切光忠)。
本刀は、「豊臣秀吉」から伊達政宗へ下賜されたのち、常陸国(現在の茨城県)水戸藩初代藩主「徳川頼房」(とくがわよりふさ)に贈られたと言われる打刀。罪を犯した家臣を斬り捨てる際に、背後の燭台ごと切り落としたという逸話が名称の由来です。
豊臣秀吉から伊達政宗、伊達政宗から徳川頼房へ渡った経緯に関しては、「豊臣秀吉から見せられた燭台切光忠を伊達政宗が持ち逃げした」、「燭台ごと切った話を聞いた徳川頼房が、燭台切光忠を強引に持ち帰った」、「徳川頼房から相談を受けた3代将軍・徳川家光が、伊達政宗を説得して徳川頼房へ燭台切光忠を進上させた」など諸説ありますが、いずれにしても誰もが欲しがる名刀であったことが分かります。
なお、本刀は関東大震災の際に焼失したと思われていましたが、「刀剣乱舞」に燭台切光忠が登場したことで刀剣女子から茨城県水戸市の「徳川ミュージアム」へ本刀に関する問い合わせが殺到。
調査を行った結果、焼身(やけみ:刀身が炎に焼かれること)の状態ながらも燭台切光忠が現存することが判明したのです。以後、徳川ミュージアムでは定期的に燭台切光忠を公開・展示し、刀剣女子向けのコラボグッズの販売やイベントを多く開催するようになりました。
制作者である光忠は、刀工一派「長船派」(長船鍛冶)の実質的な祖です。光忠の作は「織田信長」から特に重宝されていたと言われており、現存在銘作では国宝や重要文化財に指定されている刀剣が数多くあります。
「大倶利伽羅」は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて相模国(現在の神奈川県)鎌倉で活躍した刀工「広光」が制作した刀剣です。正式名称は「刀 無銘 伝相州広光」(名物 大倶利伽羅広光)。
本刀は、江戸時代に行われた「天下普請」(てんかぶしん:幕府の命令によって行われた施設改修や河川整備などの土木工事)で、江戸城の石垣修築を担った仙台藩・伊達家に対して徳川将軍家から贈られた褒美刀です。刀身に「倶利伽羅龍」(くりからりゅう)が彫られているのが特徴で、名称由来にもなっています。
倶利伽羅龍とは、不動明王が持つ「倶利伽羅剣」(くりからけん)という刀剣に絡みついた龍のことで、不動明王の化身です。刀剣に密教の道具などを彫るのは珍しいことではなく、美観を高める以外に、守護や戦勝祈願などの願いが込められていました。
なお、本刀は伊達家の蔵刀目録「劒槍秘録」(けんそうひろく)の「春三号」に指定されています。
制作者である広光は、五箇伝のひとつ「相州伝」を代表する刀工として知られており、短刀の制作を得意としていました。
「鶴丸国永」は、平安時代に山城国(現在の京都府南半部)五条で活躍した刀工「国永」が制作した刀剣です。正式名称は「太刀 銘 国永」(名物 鶴丸)。国永の作の中でも特に優雅で洗練された1振です。
本刀の伝来については諸説ありますが、「北条家」や「織田家」などを経て伊達家に伝来したと言われており、明治時代に仙台藩14代藩主「伊達宗基」(だてむねもと)から「明治天皇」へ献上され、現在も御物(ぎょぶつ:皇室の私有品)として大切に管理されています。
なお、名称の由来に関しても詳細は不明です。一説には、鎌倉幕府が神社へ奉納する太刀に「鶴丸紋」という家紋を入れる習慣があったため、本刀を神社へ奉納する際、拵(こしらえ)に鶴丸紋を入れたことが名称由来になったのではないかと言われています。
また、本刀は毎年1月1日に行われる宮中の儀式「歳旦祭」(さいたんさい)で太刀「鶯丸」(うぐいすまる)と共に使用されると言われているため、刀剣女子のなかには儀式の中で誰がどのように使用しているのか調べる方も多いですが、残念ながら儀式の内容は、一般公開されていません。
「太鼓鐘貞宗」は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて相模国で活躍した刀工「貞宗」が制作したと言われる刀剣です。正式名称は「短刀 無銘 伝貞宗」(名物 太鼓鐘貞宗)。
本刀は、徳川将軍家から仙台藩2代藩主「伊達忠宗」に贈られた刀剣です。
名称の由来は、「太鼓鐘」という屋号の豪商が所有していたためと言われています。なお、豪商からどのような経緯で徳川将軍家へ渡ったのかは定かではありませんが、「毛利元就」の9男「毛利秀包」(もうりひでかね)が本刀を入手したのち、徳川将軍家に献上したのではないかというのが定説です。
本刀は、劒槍秘録の「春二号」に指定されており、「春一号」は欠番となっているため、実質的に伊達家第一の家宝として重宝されました。
現在は個人蔵となっており、東京都墨田区の「刀剣博物館」に保管されています。
制作者である貞宗は、日本史上最も有名な刀匠として知られる「正宗」(五郎入道正宗)の子(または養子)と言われており、相州伝を代表する刀工です。
「刀 銘 備前国住長船忠光」は、室町時代中期に備前国で活躍した刀工「忠光」が制作した刀剣です。
本刀は、伊達家の庶家である宇和島藩伊達家に伝来した打刀。「備山」(びざん)の号で知られる刀剣愛好家「岡野多郎松」(おかのたろまつ)氏は、その見事な刃文を観て「走雲」(そううん)という号を付けたことでも知られています。
制作者である忠光は、「末備前」を代表する刀工です。名工が多く活躍した末備前において、地鉄の美しさは末備前随一と称されました。
「刀 無銘 伝来国俊」(金粉銘 来国俊)は、鎌倉時代中期以降に山城国で活躍した刀工「来国俊」が制作した刀剣です。
本刀は、奥州伊達家に伝来した打刀。もともとは無銘で、金粉銘は後世になってから刀剣鑑定家の「本阿弥光遜」(ほんあみこうそん)によって入れられ、のちに刀剣鑑定家「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)が在銘刀と同じ扱いで鑑定しました。
制作者である来国俊は、刀工一派「来派」を代表する刀工です。太刀や短刀の制作を多く行っており、在銘作の多くが国宝や重要文化財に指定されています。