「御物」(ぎょぶつ)とは、皇室の私有品として天皇家に伝来した美術品や古文書などの所蔵品のこと。現在は宮内庁が管理しており、御物の中には日本刀も多数含まれています。その理由は、大名などから献上された他、「明治天皇」をはじめ「愛刀家」として知られる天皇らが名刀を収集したためです。ここでは、その歴史と共に御物に指定されている名刀をご紹介します。
この御物とは、現在でも主に皇室による私有品のことを指しており、最も古い呼称と言われるのが「正倉院御物」(正倉院に納められた美術工芸品)です。一般的な名詞としての御物には「貴人の持ち物」といった意味も含まれるため、御物の対象は変化し皇室以外も用いるようになっていきました。
皇室以外の御物は、室町時代の足利将軍家に仕えた「蜷川親元」(にながわちかもと)によって書かれた「親元日記」(ちかもとにっき)にはじめて見られるようになります。1465年(寛正6年)、正月の頁に「御成始 御物奉行蜷川彦衛門尉」と記述があり、足利将軍家の所有物に対して御物と敬称を用いています。
さらにそれを管理する立場にある者のことを「御物奉行」と命名して、これも日記に書かれているのです。けれど皇室と足利家の所有品を御物と同じように呼称してしまうと、やはり区別がしにくくなるというもの。
そこで、1437年(永享9年)に皇室の御物を「内裏御物」として、1484年(文明16年)に足利将軍家の御物を「公方御物」と呼び分けをしている書物がそれぞれ書かれるようになりました。のちに足利家を追放した「織田信長」や、天下統一を果たした「豊臣秀吉」が所有していた美術品も当時は御物と呼ばれ、江戸時代以降は徳川家が所有する物もこのように呼ばれることとなります。また徳川将軍家の収集品のことを別名「柳営御物」と呼ぶことがあります。
これに対して室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)が収集した茶道具のことを明治時代以降、「東山御物」と呼称するようになるのです。足利義政が、現在の京都東山に別荘「東山殿」([銀閣寺]のこと。正式名称は[慈照寺])を構えていたことから称されるようになったと伝わりますが、明治時代以前は「東山殿御物」や「東山殿之御物」、「東山殿御所持」などと呼ばれていたと言います。
現在の「御物」(ぎょぶつ)は、「宮内庁が管理する皇室の私有品」のことを示しますが、明治維新からしばらくの間は、「東京帝室博物館」(東京国立博物館)、「京都帝室博物館」(京都国立博物館)、「奈良帝室博物館」(奈良国立博物館新館)の3館の所蔵品も、御物として宮内庁(当時は宮内省)が管理していました。
1945年(昭和20年)の「第二次世界大戦」終戦後、皇室の費用・財産について規定した「日本国憲法第88条」に基づいて、皇室の資産であった帝室博物館の所蔵品や、「正倉院」の宝物などのすべてが、国有財産と見なされることになったのです。
ただし、実際は皇室伝来の美術品などの多くが、引き続き宮内庁(当時は宮内府)侍従職によって御物として管理されていました。
1989年(昭和64年/平成元年)、「昭和天皇」が崩御されたあと、皇室所有品などの相続関係を明確にさせるため、天皇家伝来の美術品などが区分されることになります。
御物とされてきた絵画や日本刀などの美術品は、天皇家から国庫に物納され、宮内庁管轄の「三の丸尚蔵館」(さんのまるしょうぞうかん)に収蔵されました。以後、これらの収蔵品は御物ではなく、国有財産となっています。
また、このときに「三種の神器」をはじめとして儀式に用いられる日本刀などの皇室ゆかりの品々は「御由緒物」(ごゆいしょぶつ:皇位と共に伝わるべき由緒ある物)に指定され、国庫の帰属から除外されました。
御由緒物をはじめとする天皇家の私有品は、1989年(昭和64年/平成元年)以降も御物と呼ばれ、それらは皇居にある「山里御文庫」と、「京都御所」(京都市上京区)にある「東山御文庫」にそれぞれ収蔵。現在に至るまで宮内庁侍従職によって厳重に管理されているのです。
なお東山御文庫は、近衛家の邸内にあった土蔵「東山の御庫」が、1881年(明治14年)に当主「近衛忠煕」(このえただひろ)より皇室に献上されたことに由来します。そのため前述した、足利義政の東山殿と関連性はありません。
御物と言えば、皇位継承の証として天皇家に伝来している三種の神器が有名です。
そして、これらと同格に扱われている御由緒物に「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)という太刀があります。
この太刀は、皇太子が立太子された証として相伝される護り刀で、天皇家では立太子の際に天皇から皇太子へ代々受け継がれてきました。
壺切御剣は、893年(寛平5年)に太政大臣「藤原基経」(ふじわらのもとつね)から献上された日本刀を、「宇多天皇」(うだてんのう)が「敦仁親王」(あつぎみしんのう:のちの醍醐天皇)の立太子に際して授けたことがはじまりと言われています。
以降、壺切御剣の相伝は慣例化され、この太刀を継承することが立太子の条件となりました。
1016年(長和5年)には、「篤明親王」(あつあきらしんのう)の立太子を阻止するため、左大臣「藤原道長」が壺切御剣の継承を拒否するという事件が起きています。
篤明親王は、藤原氏の圧力によって壺切御剣を相伝されなかったことを理由に、立太子を辞退することになったのです。
そのあと、1059年(康平2年)の宮廷火災で、初代の壺切御剣は焼失。左大臣「藤原教通」(ふじわらののりみち:藤原道長の5男)から2代目の壺切御剣が献上されたのち、現在に至るまで天皇家で継承されてきました。
壺切御剣の親授は、現代においても「立太子の礼」の儀式の中で行われています。
皇室御物には、貴重な絵画や書画、工芸などの美術品が含まれ、なかには著名な刀工による名刀も含まれます。それは貴重なだけではなく、前述した壺切御剣のように宮中の儀式に欠かせない物でもあるのです。
ご紹介する日本刀は、年間20件近く行われる宮中祭祀にて使用される日本屈指の名刀となっています。
御物の名刀小烏丸(こがらすまる)は、奈良時代後期から平安時代初期に大和国(現在の奈良県)で活動した刀工「天国」(あまくに)作と伝えられる太刀。
天国は、「日本刀の祖」として知られる名工です。天国が作刀した小烏丸の名称は、「桓武天皇」にまつわる逸話から来ていると言われています。
桓武天皇が南殿で朝拝をしていたとき、1羽の「八咫鴉」(やたがらす:神の遣いと言われる、足が3本あるカラス)が飛来して「我は伊勢神宮の遣いなり」と言うと、再びどこかへ飛び去るという出来事が起きました。
そして、八咫鴉がいた場所には1振の太刀が置いてあり、以後この太刀は小烏丸と名付けられて、皇室の守護刀として大切にされます。
平安時代中期に起きた「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)の鎮圧を命じられた「平貞盛」は、「朱雀天皇」(すざくてんのう)から節刀として小烏丸を授けられました。
そして、見事に乱を鎮めた平貞盛は、褒美として小烏丸を拝領し、そのあとは平家の宝物として伝承されます。
小烏丸は、平家が滅亡したあと、一時的に行方不明になっていましたが、江戸時代になると平家の流れを汲む「伊勢家」で保管されていたことが判明。そして、1882年(明治15年)に明治天皇へと献上されて、皇室の御物となったのです。
御物の名刀「鶯丸」(うぐいすまる)は、平安時代に備前国(現在の岡山県東南部)で活動した刀工「友成」(ともなり)が作刀した太刀。
友成は、父「実成」(さねなり)と共に「一条天皇」の御剣を鍛えたと言われており、古備前派を代表する名工として知られています。
鶯丸は、室町時代の刀剣書に「名物」として記されており、その頃から鶯丸という名で呼ばれていました。力強さと華やかさが光る名刀で、数ある古名刀の中でも最上級に位置付けられる逸品です。
1439年(永享11年)信濃国(現在の長野県)守護大名「小笠原政康」は、「結城合戦」(ゆうきかっせん)で戦功を挙げたことが認められて、室町幕府6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)から、褒賞として感状(かんじょう:手柄を取った家臣に対して主君が与える書状)と共に鶯丸を授かりました。
明治時代に入るまでは小笠原家の家宝として大切にされてきましたが、明治維新後に同家を離れて宮内大臣「田中光顕」(たなかみつあき)のもとへ渡ります。
1908年(明治41年)田中光顕は、明治天皇が茨城県の陸軍大演習に出向いた際に「茨城県にゆかりのある日本刀」として鶯丸を献上。以後、鶯丸は皇室の御物となりました。なお、室町時代に小笠原政康が鶯丸と共に授けられた感状は、長年太刀と共に保管されて伝来し、現在も鶯丸に付属して保管されています。
御物の太刀「鶴丸国永」(つるまるくになが)は、平安時代中期の山城国(現在の京都府)の刀工「五条国永」(ごじょうくになが)作の太刀です。五条国永は、同時期の名工で「三日月宗近」を打った「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)の弟子だったとも伝わる人物。けれど、いまだ謎に包まれた人物であるため、確固たる説は明らかになっていません。
五条国永についての詳細は分かりませんが、腰反り高く踏ん張りのついた優美な立ち姿は、古京物のなかでも指折りの出来と健全性を備えた最高傑作です。そして号の由来は、失われてしまった拵(こしらえ:日本刀の外装)に「鶴丸」の模様があったためと言われています。
その伝来も作者同様に謎が多く、伝承に残るのは鎌倉時代の頃のこと。鶴丸国永は鎌倉幕府の御家人「安達泰盛」(あだちやすもり)が所持していました。そんなとき1285年(弘安8年)に幕府内で起きた政変「霜月騒動」により安達一族は滅亡。
鶴丸国永は安達泰盛の遺骸と共に墓に葬られました。そのことを知った当時の鎌倉幕府執権「北条貞時」(ほうじょうさだとき)は、墓に眠る鶴丸国永欲しさにその墓を暴いたという俗説が囁かれます。それだけ鶴丸国永は当時から人気の高い刀でもありました。
経緯は不明ですが、そのあとは織田信長が所有し、家臣に下げ渡します。そして京都の「藤森神社」で神事に使用されていたところを「本阿弥光忠」が見つけて金200枚の折紙を発行。その後、仙台藩(現在の宮城県)藩主を務める伊達家に渡ります。
持ち主を変え続けた鶴丸国永は、明治維新後の1901年(明治34年)に、伊達家より明治天皇に献上されました。そして今も御物として、宮内庁が管理され滅多にその姿を観ることはできません。
御物の名刀「平野藤四郎」(ひらのとうしろう)は、鎌倉時代中期に京都の粟田口(あわたぐち)で活躍した刀工「吉光」作の短刀。吉光は「正宗」(まさむね)、「郷義弘/江義弘」(ごうよしひろ)と並び、「天下三作」として称される名工です。
平野藤四郎という名は、吉光の通称「藤四郎」と、もともとの所有者である摂津国(現在の大阪府北部)の商人「平野道雪」(ひらのどうせつ)が由来と言われています。
平野藤四郎は、刀身約30㎝の刃長で、吉光作の中でも極めて大振りな短刀です。江戸幕府が編纂した名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)には、第一に平野藤四郎が記されていることから、数ある短刀の中でも名物筆頭であったことが伺えます。
平野藤四郎は、平野道雪から入手した豊臣秀吉が、「前田利長」へ譲ったあと、1605年(慶長10年)に江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」へ献上されました。
1617年(元和3年)に徳川秀忠が「前田利常」へ下賜すると、以後加賀藩前田家の家宝として代々受け継がれます。そののち、平野藤四郎は1882年(明治15年)に前田家から「明治天皇」へと献上され、皇室の御物となりました。
御物の太刀「一期一振」(いちごひとふり)は、短刀や剣作りを得意とした刀工・吉光が、「一生に1振だけ作った太刀」という意味で付けられた刀だとされています。経路は諸説あるとされていますが、安土桃山時代に豊臣秀吉が入手し、一期一振は豊臣秀吉が秘蔵する刀蔵「一之箱」に収められました。
重宝されていましたが、豊臣秀吉が没して数年後に勃発した「大坂冬の陣・夏の陣」で一期一振は「大阪城」(現在の大阪市中央区)落城と共に燃えてしまいます。焼身となって発見されたものの、入手した徳川家康の命を受けてすぐ再刃(焼き直すこと)されることになりました。
焼き直し前は2尺8寸3分(約85.8cm)ありましたが、2尺2寸8分(約69.1cm)に磨上げています。その際に、銘部分は切り取らずに「額銘」(がくめい:銘を短冊状に切り取り、茎の別の場所に嵌め込むこと)としたことで、吉光作と証明するひとつの要素となっているのです。
再刃後の一期一振は、尾張徳川家に預けられることになり、江戸時代末期まで同家にて保管されることになります。幕末の1863年(文久3年)に尾張藩15代藩主「徳川茂徳」(とくがわもちなが)の手により「孝明天皇」に献上。以降、皇室に保管されることとなり、現在も皇室御物として宮内庁が管理しています。
打刀の御物「会津正宗」(あいずまさむね)は、相模国(現在の神奈川県)で活躍した名工「正宗」の作品。「新藤五国光」のもとで修行し相州伝を確立した人物で、「五郎入道」と名乗っていたことから「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)とも呼ばれます。
来歴に登場する最初の所有者は、陸奥国会津(現在の福島県)を治めていた戦国大名「蒲生氏郷」(がもううじさと)。400貫文(現在の価値に換算すると約12,000,000円)で、蒲生氏郷が購入したと伝わります。この蒲生氏郷は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康に仕えた大名であり、多くの戦で武功を挙げるなどの天下人からの評価も高い人物でした。
蒲生氏郷没後は、嫡男「蒲生秀行」(がもうひでゆき)が徳川家康に会津正宗を献上。会津正宗は徳川家の所有となりますが2代将軍徳川秀忠の死後、その形見分けとして尾張藩初代藩主「徳川義直」(とくがわよしなお)が拝領することとなります。その後、尾張藩2代藩主「徳川光友」(とくがわみつとも)が隠居する際に、5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)へと献上。会津正宗は再び将軍家の所有となりました。
明治維新を迎えてからは、有栖川宮家が所有していましたが、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみや たるひとしんのう)から明治天皇へと献上。現在は、宮内庁が管理する御物の1振となっています。