江戸時代初期の刀工である「出雲大掾藤原吉武」(いずもだいじょうふじわらよしたけ)は、またの名を「出雲守藤原吉武」(いずものかみふじわらよしたけ)、あるいは「堀川吉武」と言います。「堀川」の姓からも分かる通り、吉武は稀代の名工として名を馳せた「堀川国広」の一門でした。
ご紹介する打刀と脇差は、上級旗本で伊勢山田奉行を務めた「長谷川重章」(はせがわしげあき)が特別注文した逸品です。注文主である長谷川重章と、刀工の出雲大掾藤原吉武は、どのような人物だったのかを解説すると共に、吉武が手掛けた刀剣の魅力に迫ります。
長谷川重章自身は、1657年(明暦3年)に11歳で4代将軍「徳川家綱」に初めて謁見し、1683年(天和3年)に「本所奉行」(ほんじょぶぎょう:江戸の本所[現在の東京都墨田区、江東区の一部]を管轄した江戸幕府の役職)に就任。次いで、1696年(元禄9年)には12代「伊勢山田奉行」に昇進しています。
山田奉行所の歴史が始まったのは1603年(慶長8年)。「伊勢神宮」(現在の三重県伊勢市)の門前町として発展していた山田を直轄領とするために、江戸幕府が奉行所を置いたのです。主な業務には、伊勢神宮の内宮・外宮の警護や式年遷宮の取り仕切り、鳥羽港の監視や異国不審船の取り締まりなどがあります。
伊勢山田奉行は、伊勢神宮が「天照大神」(あまてらすおおみかみ)を祭ることから格式も高く、旗本のなかでも上位の者だけが就ける役職でした。よく知られた人物としては、時代劇ドラマでもおなじみの「大岡越前」(おおおかえちぜん)が18代伊勢山田奉行に抜擢されています。
伊勢山田奉行となった長谷川重章は、奉行所の仕事にとどまらず、伊勢地域の神社仏閣への寄進や「太江寺」(たいこうじ:現在の三重県伊勢市)の再建にも尽力しました。
太江寺は、奈良時代の僧である「行基」(ぎょうき/ぎょうぎ)によって建てられ、のちに「空海」(くうかい)が真言宗の教義を伝えた古刹(こさつ:歴史ある寺院)です。
本堂にある「千手観音菩薩像」は鎌倉時代前期の作とされており、国の重要文化財として現在も受け継がれています。
山田奉行所は、1845年(弘化2年)に焼失。翌年に新築され、現在は新築当時の図面に基づいて復元された一部分が「山田奉行所記念館」(三重県伊勢市)として公開されています。当時の歴史に触れることができる貴重な施設です。
「出雲大掾藤原吉武」(いずもだいじょうふじわらよしたけ)は、山城国(現在の京都府)を代表する刀工であった「三条吉則」(さんじょうよしのり)の末流にあたる「堀川国武」(ほりかわくにたけ)の子と伝えられています。安土桃山時代の名工「堀川国広」の門下でも出色の名手と称されました。
江戸時代初期の刀工とされますが、吉武の生没年は定かではありません。はじめは山城国で作刀に携わり、一門のなかでも熟練した門人であった「出羽大掾藤原国路」(でわだいじょうふじわらくにみち)のもとで鍛刀技術を学びます。
腕を磨いた吉武は、やがて江戸へ移住し、その技術が認められて「出雲大掾」を受領しました。「大掾」とは元々、古代律令国家における役職のひとつでありましたが、時代が進み近世以降になると、職人や芸人に贈られる称号を指すようになります。出雲大掾も刀工の技術力を示すひとつの称号であり、加えてその刀工の技術を継承する一門の名前として受け継がれるようになったのです。
江戸で初代出雲大掾の名を賜った吉武は、晩年にはさらに「出雲守」の称号を受領します。堀川一門の技を極めた吉武は、同じく江戸で隆盛を極めた「法城寺一派」(ほうじょうじいっぱ)とも親交を深め、合作の刀剣を残しました。
出雲大掾藤原吉武の手による日本刀は、刀工とその作品の位列(等級)においても上作とされ、コレクターの間でも人気の作品となっています。そんな吉武の作品には、どのような魅力があるのでしょうか。伊勢山田奉行・長谷川重章が所有していた刀剣から、それを探っていきます。
上級旗本であった長谷川重章は、江戸ですでに有名になっていた吉武に打刀と脇差の2種類を特注しました。最初に打刀について見ていきましょう。
吉武は、もともと堀川一門の流れを汲みますが、法城寺一派の作風に見られるような「直刃」(すぐは)が特徴となっています。このことからも、吉武は法城寺一派とはかなり親しく交流していたのではないかと推測できるのです。
刃文は直刃で、その要素は当時流行した「沸本位」(にえほんい)で作られています。直刃とは、刀身の焼き入れの際に水で急速冷却されるときに現れる文様のひとつで、比較的単調な直線が特徴です。
刃文はさらに細かな粒子で構成されますが、吉武の日本刀では白い砂粒をまぶしたような「沸」が現れており、刃文の境目がはっきりと粒子状に観える見事な1振となっています。
所持者銘では、いずれの茎(なかご)にも刀工の名前である出雲大掾藤原吉武の文字と「長谷川氏重章所持之剣」が刻まれており、刀剣の作り手と所有者が分かります。
さらに打刀の方には、「土生氏求之 長谷川氏重章所持之剣」(どしょうしこれをもとむ はせがわうじしげあきしょじのけん)と刻まれており、本刀が長谷川重章から「土生氏」(どしょうし)に譲られたことを意味しているのです。
ここに記載されている土生氏が誰なのか、個人は特定されていませんが、土生氏は室町幕府6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)に家臣として仕えていました。
截断銘とは、刀剣の切れ味を確認するために、死罪となった罪人の死体で試し斬りした結果を記録した銘です。截断銘には試し斬りした死体の箇所、回数や日付などを記しました。
当時、江戸では「首斬り浅右衛門」(くびきりあさえもん)との異名を持つ山田家が、収入源のひとつとして試し斬りによる刀剣の鑑定を行なっていたと伝わっています。山田家は、試し斬りを大名や旗本から度々依頼されていたことから、上級旗本であった長谷川重章が吉武の刀剣を鑑定するように依頼していたとしてもおかしくはありません。
また、截断銘が記された刀剣は、通常の刀剣よりも歴史的資料の観点から価値が高いとされています。