徳川将軍家の世継ぎ誕生の折に「徳川御三家」や大名家より、度々献上された刀剣が「守家」(もりいえ)作の「太刀 銘 守家」です。その名前が「家を守る」といった意味にもなることから、縁起の良い日本刀だとして重宝されました。刀工・守家と、代々繁栄した徳川家についてご紹介します。
徳川家康は子沢山であることでも有名な人物です。自身の子のうち九男・徳川義直に、尾張藩62万石、十男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)に紀州藩56万石、十一男「徳川頼房」(とくがわよりふさ)に水戸藩35万石を配しました。
御三家は親藩(しんぱん:徳川家康の男子直系の一族)のなかでも最高位で、徳川姓を名乗ることや徳川家家紋「三つ葉葵の御家紋」の使用を許可された一門です。徳川家康は、3人をそれぞれ信頼して統治を任せましたが、これには組織を細分化する意味がありました。
「もし徳川宗家の後嗣が絶えたときは、3家から養子を出すこと」とすれば、徳川宗家の血は絶えたとしても、徳川家自体が滅亡する危険性を低くすることができます。これはかつての「織田信長」や「豊臣秀吉」が亡くなったあとに起きた後継者争いを見てきた徳川家康だからこそ予測できたことです。
実際、1716年(正徳6年)に7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が8歳で死去し、徳川宗家は断絶。これを受けて8代将軍には、紀州藩の「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が養子として迎えられました。さらに江戸時代末期の1858年(安政5年)には、14代将軍も紀州藩「徳川家茂」(とくがわいえもち)が就任。
御三家は、後継者問題で争うことなく徳川将軍家が繁栄するために重要な役割を持っていたのです。
前述しましたが、徳川家康の構築した幕府の運営方針は、組織を細分化することにありました。その最たるものが、大名家を譜代大名と外様大名に分けたことです。
譜代大名とは、徳川家康にとって父祖の地でもある三河国(現在の愛知県西部)以来の武士達を言います。外様大名は、「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」以降に徳川家に仕えるようになった武士のことです。
徳川家康は、外様大名のような転向者を信用しませんでした。そのため、徳川政権中、政策担当者はすべて譜代大名で構成されています。外様大名は、幕政に参画することはできなかったのですが、その代わりに莫大な領地を与えられていました。
外様大名の代表格、加賀藩前田家は100万石、薩摩藩島津家は77万石、仙台藩伊達家は62万石など、御三家以上の領地だったのです。これは、良い役職の代わりに領地を与えることで、外様大名の反発を防ぐ役割を持っていました。
しかし、こうした領地から出る資金も、手伝普請などで外様大名の財政を常に圧迫、さらに「参勤交代」が確立することで、よりいっそう藩内の財政は苦しくなります。
1年毎に国元と江戸を行き来し、そのうえ旅費や滞在費、随行する家臣への俸禄(給与)など、すべてを賄わなくてはならず、これには譜代大名も外様大名も同じくらい財政を逼迫させていました。
徳川幕府の約260年に及ぶ幕藩体制は、このような分断政策を駆使することにより、諸藩の大名達に余剰分の資金を持たせないようにすることで、徳川家への権力集中を可能にしたのです。
徳川家に代々伝来した「太刀 銘 守家」の制作者である守家は、鎌倉時代の1249~1260年(建長~正元年間)に備前国(現在の岡山県)で活動した「畠田派」(はたけだは)の祖です。
守家は、「備前伝」の「福岡一文字派守近」の孫であるとされています。当初この守家は、「備前長船派」の拠点である長船村から、川を隔てた畠田村で作刀していたことから「畠田守家」と呼ばれました。のちに、長船村にも住んだ時期があったことから、長船派の祖「光忠」(みつただ)とも親交が深かったと伝わります。
そして2代目・守家は、鎌倉時代の1264~1288年(文永~弘安年間)に活動。初代・守家の作刀する刀剣は、二字銘であることが多いのですが、2代目・守家は長い銘が多いことが特徴です。このことから本刀は、初代・守家の作と言えます。
本刀は、生ぶ茎銘で、鎌倉時代などに多かった太刀姿を残したままの大変貴重な刀剣です。肉置(にくおき)もよく、雉子股形(きじももがた)は非常に良い茎仕立てをしているのが特徴。
鍛えは、板目が肌立ち、乱れ映りが立っており、刃文は直刃(すぐは)調に出入りの穏やかな刃取りとなっています。足や葉(よう)がよく交じっているので賑やかさを感じ、砂流し(すながし)・金筋が入るなどの豊富な働きが観られる良品です。
また畠田派は、長船村にも住んだことから「長船住」と銘した作品が残されています。本刀の作柄も、長船派と作り方が似ているところがあるため、畠田派と長船派の関連性を考察していく上でも大変貴重な史料になると言えます。