「有栖川宮家」(ありすがわのみやけ)は、江戸時代から大正時代にかけて存続した、由緒正しい宮家(宮号を与えられた皇族)です。特に、「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)と「有栖川宮威仁親王」(ありすがわのみやたけひとしんのう)は、刀剣好きと知られています。有栖川宮家の歴史と有栖川宮家にまつわる刀剣について、詳しくご紹介します。
「有栖川宮家」(ありすがわのみやけ)とは、かつては「四親王家」(ししんのうけ:伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮[かんいんのみや])のひとつとして名を馳せた皇族。
「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)の第七皇子「好仁親王」(よしひとしんのう)が「高松宮」(たかまつのみや)を称し、そののち「後西天皇」(ごさいてんのう)の第二皇子「幸仁親王」(ゆきひとしんのう)が、宮号を「有栖川」と改称したのがはじまりです。
書道・歌道を家学とし「有栖川流」を起こしたことでも有名です。なお、素敵な響きがある有栖川ですが、名前の由来は判明していません。
8代「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)は子宝に恵まれず、弟の「有栖川宮威仁親王」(ありすがわのみやたけひとしんのう)が9代目を継承。しかし、その皇子「栽仁王」(たねひとおう)が20歳の若さで亡くなってしまいます。
この結果、継嗣がなくなった有栖川宮家は、1923年(大正12年)旧皇室典範の制度に則り、途絶えることとなりました。
有栖川宮家のなかでも有名なのが、有栖川宮熾仁親王です。
有栖川宮熾仁親王は、1851年(嘉永4年)の17歳のときに、「仁孝天皇」(にんこうてんのう)の皇女「和宮」と婚約。
しかし、1853年(嘉永6年)の「ペリー来航」により尊王攘夷運動が起こり、朝幕関係が悪化。
これを融和する「公武合体論」の流れから、和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約を解消し、江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)へ降嫁することになったのです。
一躍、和宮と有栖川宮熾仁親王は悲劇の主人公となり、人々の同情を引きました。しかし、和宮と有栖川宮熾仁親王の縁談は、和宮が5歳のときに兄の「孝明天皇」(こうめいてんのう)が決めたものだったので、実際のところ本人同士に恋愛感情があったのかどうかは分かりません。
そののち有栖川宮熾仁親王は、明治新政府の総裁職に。「明治天皇」の信頼が厚いと言われ、1868年(明治元年)に始まった「戊辰戦争」では「東征大総督」、1877年(明治10年)に勃発した「西南戦争」では、「征討総督」に任命されました。
また、15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の妹「徳川貞子」(とくがわさだこ)と結婚します。しかし、2年後に徳川貞子が病死。そのあとは、新発田藩主「溝口直溥」(みぞぐちなおひろ)の七女「溝口董子」(みぞぐちだだこ)と再婚しました。
1894年(明治27年)「日清戦争」に参謀総長として出陣しましたが、病を患い翌年に61歳で亡くなっています。
有栖川宮熾仁親王と弟・有栖川宮威仁親王の2人は、刀剣好きとして有名です。徳川家に対峙するため、徳川家を滅ぼすと伝わる妖刀「村正」を所持するなど、様々な刀剣を蒐集していました。特に有栖川宮威仁親王は、舞子(現在の兵庫県神戸市)の別邸に、刀剣の鍛錬場を設立。刀工「桜井正次」(さくらいまさつぐ)を召し抱えました。
桜井正次は、1868年(明治元年)江戸生まれ。固山一門の「泰龍斎寛次」、2代「固山宗次」(こやまむねつぐ)に師事して、鍛刀法を学びます。
しかし、1876年(明治9年)に「廃刀令」が発令。刀剣制作は激減し、多くの刀工が失業を余儀なくされました。そんななか、1890年(明治23年)に帝室技芸員制度が設置され、桜井正次は「宮本包則」(みやもとかねのり)や「月山貞一」(がっさんさだかず)達と共に、宮内省御用鍛冶に任命されるのです。
1894年(明治27年)に日清戦争が勃発。1895年(明治28年)に美術評論家「岡倉天心」(おかくらてんしん)の推薦で、桜井正次は「東京美術学校」の鍛金科(たんきんか)の講師に抜擢されますが、2年後に排斥運動に巻き込まれて辞職。ここからが、桜井正次にとって苦難の時代となるのです。
しかし、1909年(明治42年)に有栖川宮威仁親王が、舞子の別邸に桜井正次を招待。桜井正次の希望を聞き、鍛錬所を新築してくれるという転機が訪れるのです。桜井正次が制作した刀剣には、有栖川宮家の菊紋が入れられ、明治天皇の奉納刀とされました。
「刀剣は武士の魂であるから鍛刀の技術を100代の末まで伝えねばならない」と語っていたという有栖川宮威仁親王。有栖川宮威仁親王は、自らも鍛刀を行ない、その相手鍛冶を桜井正次が務めたと言われています。有栖川宮家とは、日本刀の歴史・神髄を理解し、刀工を育てた一族と言えるのです。
有栖川宮熾仁親王の趣味は、刀剣コレクション。現在は御物となっている「会津正宗」や国宝「観世正宗」(かんぜまさむね)など、数多くの刀剣をお持ちだったと伝わっています。なかでも「小太刀 銘 長光」は、有栖川宮熾仁親王が愛刀としたと伝わる1振です。
制作したのは、鎌倉時代中期から後期にかけて活躍した備前伝・備前長船派の名工「長光」(ながみつ)。始祖「光忠」(みつただ)の子と言われ、作風は光忠に似た豪壮で堂々とした姿から、小太刀姿で踏張りがある「長光姿」と呼ばれる優美な物まで二様あります。
本太刀は、優美で気品がある小太刀の姿。地鉄(じがね)は杢目がよく詰んで小杢目もあり、刃文は華やかな大丁子乱れ、帽子は小丸に返った三作帽子を焼いています。長光の長所がよく現れた傑作です。
有栖川宮威仁親王は刀剣を好み、宮内省御用鍛冶をしていた、刀工・桜井正次の卓越した技量を高く評価しました。そこで、1909年(明治42年)、有栖川宮威仁親王は、別邸の舞子敷地内に刀剣の鍛錬所を設け、刀工・桜井正次を召し抱えたのです。
本刀は、舞子で作刀された1振。茎(なかご)に皇族・有栖川宮家の証である菊紋が入れられているのが特徴です。桜井正次は禅を学んだことから、仏教において吉祥を意味する「卍」(まんじ)の銘を切り、「まんじ正次」とも呼ばれました。
本刀は、姿が優美。地鉄は小板目肌がよく詰み、刃文は直刃(すぐは)に互の目(ぐのめ)。足入り、匂口明るく見事です。