「鍋島茂紀」(なべしましげのり)とは、江戸時代初期に活躍した佐賀藩(現在の佐賀県)の藩士です。藩主・鍋島家の親類同格で、自治領・武雄(たけお:現在の佐賀県武雄市)の領主をしていました。切れ味が鋭くて有名な、佐賀藩の御用刀工「藤原忠広」(ふじわらただひろ)に薙刀直しの脇差を注文し、愛用した人物。鍋島茂紀の生涯や刀工・藤原忠広が作る刀剣の特徴、化け猫騒動について詳しくご紹介します。
「鍋島茂紀」(なべしましげのり)は、1642年(寛永19年)生まれ。佐賀藩(現在の佐賀県)の藩主鍋島家の親類同格となる武雄鍋島家(たけおなべしまけ)に属する人物です。
佐賀藩の自治領、武雄(現在の佐賀県武雄市)の領主。
なお、佐賀藩は、鍋島家が藩主だったため「鍋島藩」、「肥前藩」(ひぜんはん)とも呼ばれます。
父は「鍋島茂和」(なべしましげかず)、母は正室「諫早直孝」(いさはやなおのり)の娘に仕える女中の身分でした。父・鍋島茂和が正室に遠慮したため、鍋島茂紀は生後まもなくから諫早家で密かに養育されたと言われています。
しかし、正室に子どもが生まれなかったため、1652年(承応元年)に鍋島茂紀は武雄鍋島家に入り、21,600石の家督を相続。鍋島茂紀は、佐賀藩の請役(しょやく:執政職)を任されるなど、活躍しました。
父・鍋島茂和は、1637年(寛永14年)「島原の乱」の鎮圧に貢献したことで有名です。
島原の乱とは、厳しい年貢の取り立てやキリシタンの弾圧に苦しむ、島原(現在の長崎県島原市)と天草(現在の熊本県天草市)の農民が、「天草四郎時貞」(あまくさしろうときさだ)を首領として起こした農民一揆のこと。
天草四郎時貞は37,000人の農民と共に島原藩兵を破り、城代家老を戦死させ、原城(現在の長崎県南島原市)に立てこもりました。
しかし、江戸幕府の征討軍が総攻撃。島原藩、佐賀藩、熊本藩など、総勢13万の兵が動員されたと伝えられています。その結果、原城は落城し、これを機に江戸幕府はキリスト教を弾圧し、鎖国したのです。
父・鍋島茂和は佐賀藩士として、この戦に参加。鍋島茂紀は、父・鍋島茂和が薙刀を振りかざして活躍したという逸話に感銘して育ちます。そして、佐賀藩主鍋島家の御用刀工に、薙刀直しの異風脇差「薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広」を注文し、愛用としたのです。
鍋島茂紀の歴史とは直接関係ありませんが、佐賀藩藩主の鍋島家で、今も語り継がれる「鍋島騒動」(化け猫騒動)という話があります。
これは、1582年(天正10年)に佐賀藩で起きたお家騒動のこと。佐賀藩初代藩主「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)の死後、嫡男「龍造寺政家」(りゅうぞうじまさいえ)は、家臣「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)に子である「龍造寺高房」(りゅうぞうじたかふさ)を託して隠居。しかし、龍造寺高房は世を儚んで自害してしまいます。
この結果、35万7,000石を誇る佐賀藩の藩主は、家臣の鍋島直茂となったのです。しかし、龍造寺家ではこれを不服としていました。これが鍋島騒動の発端で、脚色されて歌舞伎の演目「化け猫騒動」にもなっているのです。
歌舞伎では、鍋島家2代目藩主「鍋島光茂」(なべしまみつしげ)と龍造寺隆信の子「龍造寺又七郎」が碁を打つ場面から始まります。龍造寺又七郎は碁の最中、鍋島光茂の機嫌を損ね惨殺されてしまうのです。龍造寺又七郎の母は恨みを口にしながら自害。 その自害した母の血を舐めた飼い猫が化け猫となり、鍋島光茂の周辺で様々な怪異が起こるようになるのです。そこで鍋島光茂の家臣が、鍋島光茂を助けるため、化け猫を退治するというのが大まかなあらすじ。
この化け猫騒動が有名になったことで、鍋島家に対する龍造寺家の無念がのちの世に伝わりました。
鍋島茂紀の愛刀「薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広」を作ったのは、「藤原忠広」(ふじわらただひろ)です。藤原忠広は、佐賀藩鍋島家の御用鍛冶で、2代忠広のこと。父は「肥前忠吉」(ひぜんただよし)です。
肥前忠吉は、新刀最上作、最上大業物を制作した名工でした。のちに、「初代忠廣」と改名しています。肥前忠吉(初代忠廣)は、山城伝の「埋忠明欽」、「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)父子に師事し、佐賀藩「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)に召し抱えられ御用鍛冶に。藩主・鍋島家の庇護のもと、100名もの刀工を輩出したと言われています。
藤原忠広は、肥前忠吉(初代忠廣)の妾の子。1632年(寛永9年)に父・肥前忠吉(初代忠廣)が亡くなると、「忠広」として父の跡を継ぎました。
藤原忠広(2代忠広)は、1641年(寛永18年)に近江大掾を受領。刀剣ごとに細かな特徴は異なりますが、地鉄(じがね)は造込みが丁寧な小板目肌(こいためはだ)、または小糠肌。刀全体から感じられるきめの細やかさや優美さなどは、藤原忠広が作った刀剣共通の特徴として挙げられます。81歳で亡くなるまで60年に亘って作刀を続けたため、作品数は非常に多く、大業物を作った刀工として多くの人に認められています。
薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広は、鍋島茂紀が愛した特別な刀剣だと言われています。もともと、薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広は肥前国で有名な刀鍛冶・近江大掾藤原忠広の作る刀剣の切れ味が素晴らしいとの噂を聞き、直々に作らせた薙刀です。そのため、鍋島茂紀自身この刀剣には特別な思い入れがあったのかもしれません。
切れ味の良さや美しさで評判となった薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広は、「山田浅右衛門」(やまだあさえもん)が書いた刀剣評価書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)で大業物として高い評価を受けています。
直刃主体の作風で有名だった近江大掾藤原忠広が今回のような薙刀を作ることは非常に稀なケースで、同様の薙刀はこの薙刀 銘 肥前国住近江大掾藤原忠広以外、ほとんど残されていません。
地鉄は小板目肌に地沸が付き、刃文は肥前丁子と呼ばれる匂が深い互の目乱れ。観るからに鋭く覇気があり、気品のある佇まいは観る者の心を惹き付ける雰囲気を持っています。