「靖国刀」(やすくにとう)は、1933年(昭和8年)に「靖国神社」(東京都千代田区)の境内に開設した「日本刀の鍛錬所」で作刀された日本刀のことです。靖国神社がある「九段」(江戸時代に9層の石段を築いて幕府の雇用屋敷を設置)の地名から「九段刀」(くだんとう)とも呼ばれています。
はじめに、「靖国神社」について簡単にご紹介します。ニュースなどでも取り上げられることが多い靖国神社とは、どのような神社なのでしょうか。
もともと日本では、平安時代から戦争や天災などで亡くなった人達の霊を「御祭神」(ごさいじん)として祀って、慰め鎮めることが行われてきました。
靖国神社では、戊辰戦争のあとに起こった「佐賀の乱」、「西南戦争」などの内乱で命を落とした人達をはじめ、明治維新の先駆けとなった「坂本龍馬」(さかもとりょうま)、「吉田松陰」(よしだしょういん)、「高杉晋作」(たかすぎしんさく)、「橋本佐内」(はしもとさない)といった幕末の志士達、さらには「日清戦争」、「日露戦争」、「第1次世界大戦」、「満州事変」、「志那事変」、「第2次世界大戦」などの対外事変や戦争に際し、国家防衛のために亡くなった人達の神霊(みたま)も祀られており、その数は246万6,000ほどです。
その中には、軍人ばかりでなく、戦場で救護にあたった従軍看護婦や女学生、学徒動員により軍需工場で亡くなった学徒など、民間の人々も数多くあり、さらに当時、日本人として戦い亡くなった海外出身者、第2次世界大戦終結時に、いわゆる戦争犯罪人として処刑された人達なども同様に祀られています。
1933年(昭和8年)、日本刀の復活と将校用軍刀の需要に応えることを目的に、刀剣界と陸軍が協力して「日本刀鍛錬会」を組織し、日本刀鍛錬所を靖国神社の境内に開設しました。
ここで作刀された日本刀は「靖国刀」、従事した刀工は「靖国刀匠」と呼ばれ、1945年(昭和20年)まで10年余りの期間に約8,100振が作刀されたのです。
この日本刀鍛錬場では、軍刀の作刀も行われ、陸海軍大学校の成績優秀な卒業生に贈られた「御下賜刀」(いわゆる恩賜の軍刀)なども作刀されました。
日本刀鍛錬会は、1945年(昭和20年)、第2次世界大戦終戦により解散しますが、靖国刀匠の高い技術力と作風から生み出された日本刀は、現在でも高く評価されています。
1935年(昭和10年)前後、軍刀は陸海軍問わず日本古来の太刀を模した外装とすることが制定されました。
しかし、すべての軍人が軍刀を佩用できた訳ではありません。基本的には、将校や上級仕官、騎兵、憲兵など、特定の兵科(直接戦闘にかかわる兵の職域)に就いた軍人のみ佩用することができたのです。
また、第2次世界大戦の時点で、陸海軍では軍刀を軍人の主要装備あるいは軍装品として常に佩用していましたが、これは、武器であることと、礼式において不可欠であることの他に、日本刀が古来より日本人の心の拠り所であったことも理由のひとつと考えられています。
軍刀は地位の象徴であり、精神を鼓舞する栄誉の象徴でもあったのです。
戦争が拡大するにつれて軍刀の需要は高まり、さらに海軍などから錆(さび)に対する不満があったことから、塩害に強く、機械によって大量生産ができるステンレス鋼を材料とした軍刀が作られるようになりました。
これらの軍刀は、日本刀とは区別して「昭和刀」と呼ばれています。ローラーや機械ハンマーで打ち延ばして製造され、切れ味や耐久性は日本刀には及ばないものの、大きく劣ることはなかったとのことです。
一方、靖国刀匠の手による軍刀は「玉鋼」(たまはがね)を素材とし、伝統的な日本刀の作刀方法に則って鍛えられました。
靖国刀匠の作品もまた、需要の増大に応えた軍刀であったにもかかわらず、総じて丁寧に作刀され、重ねが厚く、平肉もたっぷりとして堅牢。日本刀の「折れず、曲がらず、良く切れる」という特色を極めて高いレベルで満たしていました。戦地へ向かう軍人が心の拠り所とするのにふさわしい出来栄えであったと言えます。
第2次世界大戦中、戦地へ赴く軍人に生きて帰れる保証はありません。そんな軍人達が使用する軍刀だからこそ、靖国刀匠はよりいっそうの想いを込め、一緒に戦うのだという気概を持って鍛えたのだと推し量ることができます。
軍人の魂としての日本刀文化を守り、戦後は作刀の伝統を現代へと受け継いだ靖国刀匠。次項では、そんな靖国刀匠について述べ、代表的な名工をご紹介します。
日本刀鍛錬会では、理事長に歴代の陸軍次官を置き、延べ11名の刀匠と21名の先手(さきて)からなる刀工集団を中心に組織されました。
「先手」とは、主に刀匠の弟子が務め、日本刀を鍛えるとき、焼けた玉鋼に大槌(おおづち)を打ち下ろす役割の人です。
靖国刀匠には、陸軍大臣より「靖廣」(やすひろ)、「靖徳」(やすのり)、「靖光」(やすみつ)、「靖利」(やすとし)など、「靖」の字を冠する刀匠銘が与えられ、それぞれの作品にその銘が切られています。
草創期の主任刀匠は、「宮口靖廣」(みやぐちやすひろ)、「梶山靖徳」(かじやまやすのり)、「池田靖光」(いけだやすみつ)などが務めました。
「宮口靖廣」は、本名を「宮口繁」と言い、草創期の靖国刀匠を代表する名工です。
1897年(明治30年)に東京で「米沢正寿」(よねざわまさとし)の子として生まれ、父と共に宮口家の養子になります。父・米沢正寿が亡くなったあとは、「笠間一貫斎繁継」(かさまいっかんさいしげつぐ)の門人となり、初銘「寿廣」(としひろ)、1916年(大正5年)より「一貫斎」を号しました。
1933年(昭和8年)に日本刀鍛錬会が設置されると、日本刀鍛錬所の主任刀匠となり、「荒木貞夫」(あらきさだお)陸軍大臣より刀匠銘「靖廣」を授名されています。
1936年(昭和11年)には「大倉鍛錬所」に主任刀匠として移籍。両所を通じて多くの刀工を指導しました。
「梶山靖徳」は、本名を「梶山徳太郎」と言い、宮口靖廣、池田靖光と並ぶ靖国刀匠の第一人者であり、昭和を代表する刀匠のひとりです。
1881年(明治14年)に広島県で誕生し、1933年(昭和8年)に日本刀鍛錬会に入会。刀匠銘「靖徳」を授名し、以後、主任刀匠となり活躍しました。1934年(昭和9年)には「昭和天皇」の陸軍用軍刀を作刀する栄誉を得ています。
また、日本刀展覧会文部大臣最高栄誉賞特選などの数々を受賞。弟子には、甥の「小谷靖憲」(こたにやすのり:本名「小谷憲三」)、5男の「梶山靖利」(かじやまやすとし:本名「梶山利通」)、6男の「梶山澄明」、そして「大崎靖宗」(おおさきやすむね:本名「大崎繁春」)などがいます。
「池田靖光」は、本名を「池田修治」と言い、山形県の出身です。祖父は「水心子正秀」(すいしんしまさひで)の門人「池田一秀」(いけだかつひで)、父は池田一秀の門人である「池田一光」(いけだかずみつ)という刀匠の家系に生まれます。
1933年(昭和8年)に日本刀鍛錬会に刀匠として選出され入会。以後、「靖光」を号としました。
鍛錬会開設時より主任刀匠として参加し、第三鍛冶場を任せられます。宮口靖廣、梶山靖徳と比肩する靖国刀匠の代表的刀工です。
「刀剣ワールド財団」が所蔵する池田靖光の作品は、「朝香宮孚彦」(あさかのみやたかひこ)中佐が陸軍大学校を卒業するとき、昭和天皇より贈られた恩賜の軍刀。武人の持ち物としてふさわしい無駄のない、すっきりとした刀姿の軍刀で、「鎺」(はばき)には、「恩賜」の2文字が刻まれています。
日本刀の原材料として欠くことのできない玉鋼。これを製鉄する「たたら製鉄」は、江戸時代に古代から良質な砂鉄を産出していた山陰地域で大いに栄えました。
一度は大正期に廃絶したものの、日本刀鍛錬会のもと、「靖国たたら」として復活。靖国たたらで生産された玉鋼は、50t以上に及び、靖国刀の作刀を支えました。
靖国たたらは、1945年(昭和20年)に第2次世界大戦の終結と共に操業が途絶えましたが、1977年(昭和52年)に島根県仁多郡奥出雲町の靖国たたら跡地を「日刀保たたら」(にっとうほたたら)として復元し、現在、たたら操業が行われています。
日刀保たたらの名は、運営する公益財団法人「日本美術刀剣保存協会」の略称を冠して付けられました。また日刀保たたらは、日本刀のたたら技術の保存と後継者の養成を目的に文化財保護法の選定保存技術に認定されており、生産された玉鋼などを全国の刀匠に頒布(はんぷ)して、文化財保護に貢献しています。
靖国神社の日本刀鍛錬場は、その後、すべてが茶室に改装され、茶室「行雲亭」(こううんてい)となりました。屋根上の吹き抜けなどは、日本刀鍛錬場の建築様式をそのまま引き継いでおり、無料で見学することが可能です。