「長船近景」(おさふねちかがけ)は、日本の代表的な刀剣の産地である、備前国(現在の岡山県東南部)の刀工。その作刀のいくつかは、「国宝」や「重要文化財」などに指定されるほどの高い技術力を持った名工でした。
そんな長船近景による作刀のひとつである「刀 銘 備州長船近景」を所有していたのが、江戸時代に代々周防国岩国藩(すおうのくにいわくにはん:現在の山口県岩国市)の藩主を務め、明治時代には「子爵」(ししゃく)の爵位を授けられた、「吉川家」(きっかわけ)宗家にあたる「安芸吉川家」(あききっかわけ)と伝えられているのです。ここでは、安芸吉川家の歴史を振り返ると共に、同家に伝来した刀 銘 備州長船近景についてご紹介します。
「吉川家」(きっかわけ)は、800年もの長い歴史がある由緒正しき家系。その発祥は、駿河国入江庄吉川(するがのくにいりえのしょうきっかわ:現在の静岡県静岡市)に住んでいた武士「入江景義」(いりえかげよし)の嫡男「吉川経義」(きっかわつねよし)が、同地に拠点を置いたことが始まりです。
吉川家宗家の祖となった吉川経義は、鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の側近として仕えています。
さらには、1189年(文治5年)に起こった「奥州合戦」(おうしゅうかっせん)にも参加。この戦いにより、源頼朝が武家政権を握ることが決定付けられたのです。
この他にも吉川経義は、1193年(建久4年)源頼朝が多くの御家人を集めて、富士の裾野付近を中心に行なわれた「富士の巻狩」(ふじのまきがり)と称される大規模な狩猟にも参加していました。また吉川経義は、日本史上で初めて朝廷と武家政権が対峙した「承久の乱」(じょうきゅうのらん)にも参陣し、武功を挙げたと言われています。
最終的には、安芸国大朝荘(あきのくにおおあさのしょう:現在の広島県北広島町)の「地頭」(じとう:全国の荘園や公領に配置され、租税の徴収や土地の管理などを担っていた役職)となり、吉川家宗家の本拠を同地へ移動しました。
吉川家宗家は「安芸吉川家」(あききっかわけ)とも称され、その他には3つの分家があります。これらには、それぞれの領地名を冠して、「播磨吉川家」(はりまきっかわけ)、「石見吉川家」(いわみきっかわけ)、「境吉川家」(さかいきっかわけ)という呼称が付けられているのです。
吉川家宗家である安芸吉川家は、様々な戦いで功績を残して大きな活躍を見せます。
例えば、同家の2代当主「吉川友兼」(きっかわともかね)は、1200年(正治2年)に「梶原景時」(かじわらかげとき)一族を駿河国(現在の静岡県中部、北東部)の「狐ヶ崎」(きつねがさき)にて討伐します。
しかし、その戦いのなかで吉川友兼自身も戦死してしまい、3代当主となる「吉川朝経」(きっかわともつね)が地頭職を継ぐことになったのです。
また、8代当主「吉川経見」(きっかわつねみ)の代にあたる、南北朝時代には一族が分裂してしまいましたが、吉川経見によりその勢力を改めて取り戻すようになったと言います。そののち、現在の広島県北広島町新庄に「小倉山城」(おぐらやまじょう)を築城し、自身の居城としました。
15代当主「吉川元春」(きっかわもとはる)は、もともと「毛利元就」(もうりもとなり)の次男でしたが、1547年(天文16年)に、14代当主「吉川興経」(きっかわおきつね)の養子として迎え入れられています。
そののち、吉川家の家督を相続し「豊臣秀吉」の傘下に入ったのです。
1586年(天正14年)に吉川元春が亡くなると、「吉川広家」(きっかわひろいえ)がその跡を継ぎます。
1588年(天正16年)に吉川広家は、豊臣秀吉より「従四位下」(じゅしいげ)の官位を賜り、隠岐国(おきのくに:現在の島根県隠岐郡)一国や出雲国(いずものくに:島根県東部)の一部など、合わせて14万石の領地を与えられたのです。
そして吉川広家は、1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」前後には、「徳川家康」と内通します。これは、徳川家康率いる東軍に対峙していた西軍に属する「毛利家」を存続させるために行なったことでしたが、結果的には失敗に終わってしまい、毛利家は減封させられることになりました。
ただし、毛利家の領国の一部であった周防国(現在の山口県南東部)と長門国(ながとのくに:現在の山口県北西部)は、そのまま安堵されました。その背景には、やはり吉川広家の尽力があったということで、吉川家に毛利家の領地が分与されます。その地が岩国藩(現在の山口県岩国市)となり、吉川家が代々その藩主を務めることになったのです。
そののち吉川家の当主は、毛利家の陪臣(ばいしん:家臣に仕える家臣)として扱われるようになります。これを不服とした吉川家の歴代当主達は、毛利家に対し家格を上げて貰うように申し立てましたが、毛利家は応じることがなく、両家の関係が悪化。
それから吉川家と毛利家の仲が修復されたのは、幕末に差し掛かる1856年(安政3年)頃と、時間がかかってしまったのです。
「刀 銘 備州長船近景」は、どのような経緯があったのかは定かではありませんが、安芸吉川家に伝来した1振。同家は、明治時代に入ると華族となり、1884年(明治17年)に「男爵」(だんしゃく)の爵位を授与され、1891年(明治24年)には「子爵」(ししゃく)に昇叙しています。本刀は、そんな明治時代の同家当主であった華族「吉川元光」(きっかわもとみつ)が所有していたことでも知られる刀剣です。
本刀の制作者である「長船近景」(おさふねちかがけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけて活躍した、備前国(現在の岡山県東南部)の刀工一門「長船派」に属していた刀工。「長船鍛冶」の名を世に広めた、同派を代表する名工「長光」(ながみつ)の門下に入り、師の晩年には、その代作代銘を任されるほどの高い作刀技術を持っていました。
本刀は、「薙刀直造」(なぎなたなおしづくり)の姿になっており、これは戦闘方法の変化に伴い戦場で用いられなくなった薙刀を、脇差(わきざし)や短刀、打刀に作り直された刀剣のことを指しています。
また本刀の刃文は、直刃(すぐは)を基調として波打っており、全体的に身幅が広めに作られているなど、長船近景の作風をよく表す1振です。